壊した先の唯一 ―前日譚・夜―
中立国の王女がやってきた、その夜。
宰相は執務室で一人、書類を前にしていた。
だが、文字は目に入らない。
――先刻。
制度を壊された。
反対だった。理で考えれば、明らかに危うい。
前例もない。守られるべき秩序だった。
しかし。
『――命はない』
その言葉が、今も耳に残っている。
脅しではない。激情でもない。
あれは――決定だった。
(陛下は)
宰相は眼鏡を外す。
(最初から、制度よりも――)
“王妃”を自ら選んだ。
守るために壊す。隠すために命じる。
それが、魔王という存在なのだ。
「……厄介な主君だ」
そう呟いて、宰相は小さく笑った。
*
同じ頃。
魔王は女官長の制止を振り切り、王妃に与えた私室に入った。
寝台の際に立ち、眠る王妃を見つめる。
疲れの色がわずかに見えるが、規則正しい寝息。
細く白い指が、寝具から覗いている。
(……知らなくていい)
制度も。
反対も。
血の匂いも。
(世継ぎの王子を生むまで名乗れぬなど、誰が決めた)
(――愚かな)
(余が決める)
(余が、この国の王だからだ)
眠る王妃に、聞こえないように呟いた。
「……全てを超越する存在だ」
(そして――たった一人の、妻だ)
声には出さない。
だが胸の内では、はっきりと誓う。
――確かに。
壊したのは、制度。失わせたのは、道理。
それでも、与えたものもある。
――最初から“選ばれる資格”など関係ない世界を。
魔王は王妃の額に、静かに唇を寄せた。
眠ったまま、王妃がわずかに身じろぎする。
それでいい――これ以上の、証は不要だ。




