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海の香りを忘れぬように

夕方の王城。

魔王夫妻が、離宮から戻った。


執務室に到着した魔王の手には、立派な箱がある。


箱は、そっと机の上に置かれた。

そして添えられた手紙を、女官長が読み上げる。


「――『滋養に良いものじゃ。海の香りを忘れるでない。追伸。早く曾孫の顔を見せよ』」


沈黙。


臣下たちの顔が、一斉に引きつる。

宰相は、一目で悟った。


(……太王太后陛下……)


将軍も、視線を逸らした。

女官長は、胃薬を探した。

宰相は、何とか振り絞って声をかける。


「……陛下」


魔王が珍しく笑っている。


「良い祖母だ」


将軍は小声で呟いた。


「止める気ゼロだな……」


箱が開けられる。

中身は紺碧の小瓶。そしてほのかに漂う、海の香り。

呼ばれていた薬師はそれを確認し、呟いた。


「……滋養、ですね」


女官長は、その日の日記にこう記した。


《危険指定物:海の香り》



後日。

寝室にて、魔王は王妃に小瓶を見せた。


「……飲むか?」


王妃は“滋養”という言葉の、真の意味を知らずに。


「太王太后陛下からの――お心遣いですから」


魔王は満足げに頷いた。


「そうだな」


――その夜。

寝室の灯りは、深夜まで消えなかった。

詳細は、誰も語らない。語れない。



そして翌朝。

王妃は寝台に横たわったまま、しばらく動かなかった。


「……おはよう、ございます……」


声が掠れている。

入室を許可された女官長が、王妃を優しく包んだ。


「王妃陛下、本日のご予定は――」

「全て後日に回せ」


寝室の入口に立っていた魔王から、すぐさま声が飛んだ。


一方。

魔王は、いつもより機嫌が良い。かなり良い。


「――お祖母さまの滋養は、効くな」


女官長は、静かに胃薬を増量した。


後日。

太王太后からの書簡。


『効いたようで何より』


魔王は即座に返事を書いた。


『感謝する――追伸。次も期待する』


王妃はその文面を見て、顔を覆った。

臣下たちは、天井を仰いだ。


王城は、今日も平和だった。

ただし――代償は、常に大きい。

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