海の香りを忘れぬように
夕方の王城。
魔王夫妻が、離宮から戻った。
執務室に到着した魔王の手には、立派な箱がある。
箱は、そっと机の上に置かれた。
そして添えられた手紙を、女官長が読み上げる。
「――『滋養に良いものじゃ。海の香りを忘れるでない。追伸。早く曾孫の顔を見せよ』」
沈黙。
臣下たちの顔が、一斉に引きつる。
宰相は、一目で悟った。
(……太王太后陛下……)
将軍も、視線を逸らした。
女官長は、胃薬を探した。
宰相は、何とか振り絞って声をかける。
「……陛下」
魔王が珍しく笑っている。
「良い祖母だ」
将軍は小声で呟いた。
「止める気ゼロだな……」
箱が開けられる。
中身は紺碧の小瓶。そしてほのかに漂う、海の香り。
呼ばれていた薬師はそれを確認し、呟いた。
「……滋養、ですね」
女官長は、その日の日記にこう記した。
《危険指定物:海の香り》
*
後日。
寝室にて、魔王は王妃に小瓶を見せた。
「……飲むか?」
王妃は“滋養”という言葉の、真の意味を知らずに。
「太王太后陛下からの――お心遣いですから」
魔王は満足げに頷いた。
「そうだな」
――その夜。
寝室の灯りは、深夜まで消えなかった。
詳細は、誰も語らない。語れない。
*
そして翌朝。
王妃は寝台に横たわったまま、しばらく動かなかった。
「……おはよう、ございます……」
声が掠れている。
入室を許可された女官長が、王妃を優しく包んだ。
「王妃陛下、本日のご予定は――」
「全て後日に回せ」
寝室の入口に立っていた魔王から、すぐさま声が飛んだ。
一方。
魔王は、いつもより機嫌が良い。かなり良い。
「――お祖母さまの滋養は、効くな」
女官長は、静かに胃薬を増量した。
後日。
太王太后からの書簡。
『効いたようで何より』
魔王は即座に返事を書いた。
『感謝する――追伸。次も期待する』
王妃はその文面を見て、顔を覆った。
臣下たちは、天井を仰いだ。
王城は、今日も平和だった。
ただし――代償は、常に大きい。




