5.
採掘場の囚人は皆、送り込まれたその日のうちに髪を短く刈り上げられる。
共同の風呂場や洗面所の鏡はとうに割られて持ち去られ、残った壁は様々な国の言葉で書かれた呪詛や卑猥な落書きで埋まっていた。
だから俺は気づかなかった。父譲りの黒髪が、いつの間にか真っ白になっていたことに。
俺の目に合わせて作られた眼鏡は、新しい年が明けて間もなく、ロイスナー領のマナーハウスに届けられた。
ピントの合った眼鏡をかけて十年ぶりに見た俺の顔は、自分でも思わず引くくらい無残に変わり果てていた。
短い白髪に、これだけは変わらないアイスブルーの瞳。げっそりと痩けた頬は浅黒く焼けて皺が寄り、二十八歳という実年齢よりずっと老けている。
この姿からかつてのサディアス侯爵令息を連想するのは、おそらく至難の業だろう。
「おはようございます、サディアス先輩。例の話、考えてくださいましたか?」
一方、軽やかなノックと共に現れたロイスナーは、十年の歳月を経た今もほとんど変わっていなかった。ほっそりと小柄な身体つき。ハーフアップに結い上げた髪はミルクティー色で、生き生きと輝く瞳は藤の花を思わせる柔らかな薄い紫だ。
「先輩にとっても悪い話じゃないと思うんですよ、お飾りの夫。生活全般は保証しますし、何なら個人予算と別に、お給料もおつけします。公式の場ではエスコートしていただきますが、その他の時間は完全に自由! どうです? おいしい話でしょ?」
その間もくるくると動き回り、あっという間に自分一人でお茶の支度を済ませてしまう。そんなところも昔のままだ。
「とりあえず座ってくれないか。そうやって目の前をうろちょろされては、話し難くて仕方がない」
「おっと失礼。では先輩もこちらのソファにどうぞ」
かつて何度か訪れたことのあるロイスナー邸の居間は、以前と比べて格段に家具や調度品の質が上がっていた。
供された紅茶は香り高く、学生時代の俺が好んで飲んでいた王室御用達の銘柄のもの。軽食のメニューもサーモンとクリームチーズのサンドウィッチを始め、オレンジ風味のチョコレートタルトやマスカットなど、俺の好物ばかりが並んでいた。
それらすべての心遣いをありがたいと思う反面、こんな形で会いたくなかった、こんなふうに落ちぶれた姿を彼女にだけは見られたくなかったという思いが黒々と渦を巻く。
俺はひとつため息をつくと、再会以来初めてロイスナーの目をまっすぐのぞきこんだ。
「そうだな。採掘場帰りの前科者には身に余るほどいい話だ。だがもし俺がいやだと言ったら?」
一瞬、まるで殴られでもしたかのように、ロイスナーは息を止めた。
けれどすぐに柔らかく微笑み、「そうですね。その時は……」と言葉を続ける。
「その時は、先輩がこの先も暮らしていけるようにいい仕事を紹介しますよ。たとえばここ、ロイスナー領の代官なんていかがです? 以前に派遣していただいたコルベール先生がもうお歳で、そろそろ後任が必要なんです」
「悪くないな。その場合の給金は?」
ロイスナーが提示した報酬は、この規模の領地の代官としては破格の金額だった。
「別に、先輩だから特別扱いするわけじゃありません。コルベール先生ともこの額で契約しています。うちの領地の代官は、マナーハウスの家令も兼ねるので」
ふむ。ならば確かに「破格」ではない。それでもかなりの好待遇だが。
「でも、お飾りの夫の方がずっとお勧めですよ。ほぼ同じだけの金額が、遊んでいても手に入るんですから」
「いや。代官のほうがいい」
「…………そうですか。残念! 夜会で先輩と三曲踊るのが夢だったのに」
ほんの少しの沈黙の後、ロイスナーは明るく笑って立ち上がった。
「そしたら後でコルベール先生のお部屋に行ってください。引継ぎの相談はその時お二人で。えっと、私はこの後やることがあるので失礼しますね。先輩はどうぞごゆっくり!」
まくし立てるように言うが早いか踵を返した彼女の髪で、しゃらりと銀の髪飾りが揺れた。
彼女の瞳にそっくりな薄紫のクンツァイトを連ね、藤の花を象ったそれは、いつだったか俺が彼女に贈ったものだ。
「ロ…………」
呼び止めようとした俺の前で、居間の扉がぱたんと閉じた。
無意識に伸ばしかけた手を、俺はのろのろと引っ込める。
――この選択は間違っていないはずだ。
お飾りだろうと何だろうと、前科者で平民の俺が彼女の夫になどなれるはずがない。
だが使用人としてならば、大手を振って彼女のそばにいられる。彼女が望んでくれるなら、死ぬまで力になってやれるのだ。
「代官兼家令か。悪くない」
十年前は、これでも次期宰相と前途を嘱望されていた俺だ。王国全体を管理することを思えば、一貴族の領地の管理が何ほどのものだろう。十年分のブランクはあるが、そんなものは努力で埋めてみせる。
「まずは前任者の話を聞くところからか」
ぬるくなった紅茶で好物のサンドウィッチを流し込み、すっかりやる気になった俺は、だから、知らなかった。
自室に戻ったロイスナーが、そのままベッドにぽすんと突っ伏し、くぐもった声でつぶやいたことを。
「先輩。たとえお飾りでも、私の夫になるのは嫌ですか。……私史上、最高にがんばってお膳立てしたのになあ……!」
そうして、その後も長いこと、枕に顔を埋めたままでいたことを。
◇◇◇
ドニ・コルベールは宰相時代の父の部下で、激務のあまり身体を壊し、第一線を退くまでは宰相の懐刀と言われていた。
俺がものごころついた頃から、十五歳で王立学院に入るまで、ありとあらゆる学問を叩き込んでくれた師匠でもある。
彼の執務室だと教えられた部屋の扉をノックすると、現れたのは、ふくふくと太って顔中が白髭に埋もれた老人だった。
異世界には、冬の夜、トナカイの引く橇に乗ってプレゼントを配って回る赤服の老人がいるそうだが、もしかしたらこんなふうかもしれない。
「……失礼。家令のコルベール氏はご在室だろうか」
とたんに、目の前の老人が「ぶはっ!」と噴き出した。
「ご在室も何も、目の前にいるだろうが。久しぶりだな、小サディアス」
「………!!! 師匠? 師匠なのか!?」
「本人を前にしても見分けがつかんとは。その眼鏡、作り直した方がいいんじゃないか?」
いや、だって。
俺の知るドニ・コルベールは、鞭のように引き締まった痩躯に、猛禽類のように鋭い顔つきの、見るからに切れ者然とした男だったのだ。
「お久しぶりです、師匠。その……ずいぶんとお元気そうで」
「おう。結婚したからな。幸せ太りというやつだ」
言いながら、師匠は俺を部屋に招き入れる。
白木の家具で統一された明るい室内は、執務室というよりも子ども部屋といったほうがしっくりくるような作りだった。
実際、部屋の片隅にはピンクのレースで飾られたベビーベッドが置いてあり、その横では三歳くらいの男の子が木製のパズルで遊んでいる。
「妻はこの邸の家政婦長でな。子どもの面倒は交代で見ているんだ」
「……そうですか」
人は変われば変わるものだ。
自分のことは棚に上げ、俺はしみじみそう思った。
(かつては王宮の諜報部を束ねていたとか、暗殺者組合の創始者だとか、いろいろ噂されていた男が……)
「で、お前。レディ・ロイスナーを袖にしたそうだな」
「もう聞いたのか」
目方は増えても耳の早さは変わらないようだ。
「お前のことだ。前科者の分際であの方の隣に立つわけにはいかないとか、使用人になれば思う存分力になれるとか、もっともらしい理屈を捏ねて断ったんだろうが」
「……くっ」
「本当のところは違うだろ。今のままの自分じゃ恰好悪くて嫌なんだろ」
「ううっ!」
俺は即行で認識を改めた。見た目がどんなに丸くなろうが、ズボンのベルトに腹肉が乗ろうが、師匠の中身は昔のままだ。
「……ていうか。あんなの、彼女には何の得にもならないじゃないか……」
俺は口を尖らせて呟いた。
あいつは昔からお人好しだ。誰かを助けるためなら、平気で自分を犠牲にする。
「ロイスナー家に婿入りすれば、俺はまた社交界に出入りできる。最初はあれこれ言われるだろうが、今の彼女の立場なら、いずれ相手のほうが諦めて口を噤むだろう」
採掘場を出てからこっち、俺は毎日のように複数の新聞を読み漁り、失われた十年間の記録と知識を詰め込んでいた。
ロイスナー子爵家は、近年、その功績を王家に認められ、伯爵家に陞爵されている。
領地こそ元のままとはいえ、王立学院時代の親友・ローザと二人で立ち上げた事業は今や王国でも一、二を争う商会に成長し、毎年のように莫大な利益をロイスナー伯爵家にもたらし続けているという。
そう、現在のフェイ・ロイスナーは、押しも押されもしない社交界の花形なのだ。
「それに引き換え、俺はどうだ? 採掘場帰りの前科者で、貴族籍を剥奪された平民で。使用人ならまだしも夫だなんて……」
「けっ!」
師匠はうんざりしたように吐き捨てた。
「なら好きなだけ卑屈になって、自分をごまかし続けりゃいいさ。そのうち誰かにあの方を目の前で掻っ攫われたとしても、それはお前の自業自得というもんだ」
「……っ! 誰かって誰だ」
どくん、と心臓が嫌な音を立てる。
師匠は俺に今朝の新聞を放ってよこした。そういえば、今朝はまだ新聞に目を通していない。
そこには、隣国ピュサンから、サルヴァトーレ王弟殿下が来訪されるというニュースが大々的に載っていた。
我が国とも親交の深い殿下の、今回の訪問の目的は――。
『この度、ようやく国内の調整が終わりまして。ロイスナー女伯爵に、正式に求婚したいと思います』
王立学院に在籍中、エドワード殿下と女生徒の人気を二分していた女誑しのイケメンの写真を、俺はぐしゃりと握り潰した。