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3.

「それでですね、サディアス先輩。突然ですが、私のお飾りの夫になってもらえませんか?」


 学院時代の後輩の突拍子もない性格は、今も健在らしかった。


「は? 一体何だ、藪から棒に。寝言は寝ている時に言え」


 かつてのように反射的に言い返してから、はっと今の状況を思い出す。

 彼女は貴族。廃嫡された俺は平民だ。


「……ご無礼の段、お許しください。なにぶん、高貴な方とまみえるのはあまりに久々でしたので」

「うわっ! やめてくださいよ、そういうの。鳥肌が立ったじゃないですか」


 言いながら、彼女は躊躇なく俺の手を掴み、少し先で待っていた馬車まで引っ張っていった。

 磨きこまれた飴色の四輪馬車(コーチ)の扉には、ロイスナー家の紋章が美しく象嵌されている。

 内部はさらに美しく、革張りのシートに小ぶりのテーブル、固定された花瓶に花まで活けてあり、まるで移動式のサロンである。


「シートが汚れる。御者席か屋根に乗せてくれ」

「それじゃ話ができないじゃないですか」

「近くに寄るな。俺の身体は臭うだろ」

「採掘場の就労規則で、一日おきに入浴していたはずです。そんなに臭くないですよ」

「……やっぱり臭うってことじゃないか」


 俺は彼女から少しでも遠ざかろうと、シートの上で身をよじった。


「だって先輩、眼鏡がないと、この距離でも焦点が合わないでしょう?」


 言うが早いか、ロイスナーはぐいと顔を近づけ、俺を下からのぞきこむ。


「っ! だから近づくなと……!」


 慌てて顔を背けたものの、あの頃と同じベルガモットの香りに、不覚にも目頭が熱くなった。


「というわけで、街に下りたらまずは眼鏡を買いましょう。特注品は時間がかかるので、それまでは間に合わせのもので我慢してくださいね」


 しゃらり、と髪飾りを揺らして顔を引っ込めると、彼女は作りつけの戸棚から細長い筒状の容器を取り出した。スクリュー式の蓋を開けたとたん、車内にココアの甘い香りが立ち込める。


「はい、どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」


 とぽぽ、とマグに注がれたココアは、できたてのように熱かった。


「これは……まさか魔法瓶(マジック・フラスク)か?」


 目を丸くする俺に、彼女は「はい!」と誇らしげに胸を張る。


「少し前に実用化に成功しました。量産まではまだまだですが、いずれは平民の皆さんでも手の届くお値段で売り出したいと思ってます」

「見せてくれ」


 渡された魔法瓶は大きく、重く、その割に容量は多くない。キャップを閉じれば逆さにしても中身は漏れず、容器の底には図案化された薔薇とリスのマークが刻印されていた。


「あ、それ。うちの商会で特許を取ったんです。そのせいでちょっと面倒なことになってまして……まぁその話はいずれまた。今は冷めないうちにココアをどうぞ?」


 勧められるままにマグに口をつければ、忘れていた甘さとともに、かつては常に身近にあった光景が奔流のように蘇る。

 生徒会室のプレートがついたオークの扉。それを開けると、正面の執務机にエドワード殿下。その前の応接セットにいつものメンバー。

 制服をだらしなく着崩したガルウィンが、一人掛けのソファで溶けている。その横ではアレクシア嬢が詩集を広げ、トレイに満載された色とりどりのスイーツをルーファス殿下が物色している。

 そして片隅の小さなビューローで、黙々とペンを走らせるロイスナー……。


「……っく」


 ぽろり、と何かが頬を伝い落ちた。

 粉塵で白茶けた作業着の膝に、ぱたぱたと音を立てて丸い染みが増えていく。


「どうぞ」


 横合いからすっとハンカチが差し出された。実用本位の白い木綿に、赤と茶色の絹糸で刺繍が施されている。

 俺は刺繍に目を近づけ、どうにか焦点を合わせることに成功した。


「………セミの惨殺体か?」

「失礼な。どう見ても薔薇とリスじゃないですか!」

「どう見ても血飛沫と断末魔のセミにしか見えん」

「いいんですよ、これは自分用なんですから!」

「他人用なら上手に刺せると言わんばかりだな」

「ううう。相変わらずああ言えばこう言う!」

「ふはっ!」


 俺は笑った。笑いながら泣いた。

 隣に座る彼女のベルガモットの香水も、甘すぎるくらい甘いココアも、失ったはずの何もかもが懐かし過ぎて、せつな過ぎて――……。


「むふっ」


 すぐそばで、あの頃とまったく変わらない鼻息が聞こえた。


「やっと笑いましたね。……おかえりなさい。サディアス先輩」


 ◇◇◇


 石切り場の麓のうらぶれた鉱山町は、知らないうちにえらく繁華な商業都市に様変わりしていた。

 広々とした目抜き通りには、王都でも名の通った商会の大きな支店が立ち並び、柄の悪い連中がたむろしていた飲み屋街だったところには、しゃれたカフェやレストランが軒を連ねている。


「まずは着替えて一休みして、眼鏡を見に行くのはそれからですね」


 馬車が横づけされたのは、高位貴族のタウンハウスもかくやと思われる瀟洒なホテルの前だった。


「これはこれはロイスナー様! お待ちしておりました」


 壁に巨大な薔薇とリスのレリーフを施したフロントから、支配人が自ら俺たちを出迎えにいそいそとやってくる。


「いつものお部屋をご用意しております。ごゆるりとおくつろぎください」


 最新式のエレベーター――これも、俺が鉱山送りになった頃はまだ実用化されていなかったものだ――で最上階に上がれば、フロア全体が貸し切りになっているという。


「先輩の部屋はこちらです。お風呂と着替えを用意したので、済んだら声をかけてくださいね」


 そう言って案内された部屋は、寝室と居間と客室が一続きになったスイートだった。

 バスタブにはすでに湯が張られ、暮れなずむ街を一望する窓辺のテーブルに軽食とシャンパンが用意されている。


 粉塵まみれの作業着を脱ぎ捨て、湯を何度も替えながら汚れを落とした。

 伸び放題の髭を剃り、上等なパイル地のバスローブに身を包めば、あまりに柔らかなその着心地に、身体中が蕩けそうになる。


「……自由になったのか。本当に?」


 窓際の椅子にどさりと座り、俺はぼんやりと呟いた。

 かつて当然のように享受していた贅沢――広々とした部屋、ふんだんに湯を使える入浴、肌触りのいいバスローブ――それら全てが、奇妙に現実味を欠いていた。

 明日目を覚ましたら、俺は相変わらず鉱夫小屋の狭苦しい寝棚にいるのかもしれない。

 恩赦もロイスナーも、魔法瓶も何もかも、狂いかけた俺の脳が作り出した幻に過ぎないのかも。


「それでも、ロイスナーの所には行かなきゃな」


 あいつは昔から真面目なやつだ。雨が降ろうが日が暮れようが、約束の場所で馬鹿みたいに何時間も待っているようなやつなんだ。

 たとえ夢でも幻でも、あいつとの約束は果たさなければ。

 もう少ししたら服を着て、あいつに声をかけに行こう。


 そう、もうあとほんの少しだけ、この椅子に座って休んだら――……。


 ◇◇◇


 しゃっ、とカーテンを開ける音で目が覚めた。

 見覚えのない部屋に、一瞬、記憶が混乱する。


(そうだった。俺は昨日、鉱山を出てロイスナーと……)


 ロイスナー。

 俺はがばっと飛び起きた。


『先輩の部屋はこちらです。お風呂と着替えを用意したので、済んだら声をかけてくださいね』


 入浴を終え、一休みするつもりで椅子に座ったことは覚えている。窓外に夜景が広がっていたことも。

 だが今、室内は窓から差し込む日の光に明るく照らされ、俺はいつの間にか天蓋つきのベッドの上にいた。


「あらまあ。ようやくお目覚めね」


 高飛車な声と共に、ベッドの足元に赤いドレスの人影が立つ。

 相変わらず顔はぼやけて判別がつかないが、両手を腰にあてて偉そうにふんぞり返る姿には、いやというほど見覚えがあった。


「ローザ……ロザライン……いや失礼。ゴーチェ嬢?」

「ローザで結構よ。それにわたくし、結婚して姓が変わったの」


 つんとした声で言いながら、ローザは俺の膝の上にぽんと平たいケースを置いた。


「……?」

「開けてご覧なさいな」


 言われるままにぱかりと蓋を開くと、現れたのは古びた黒縁の眼鏡だった。


(……これは)


「感謝してほしいものですわ。暮れも押し迫ったこんな時期に、わたくし自らサディアス領まで赴いて、マナーハウスからこれを取ってきたのですもの」


 その眼鏡は、俺が王立学院に入る前、まだ実家にいたころに(あつら)えたものだった。

 早速かけてみると、つる(テンプル)の間はかなり狭く、度数も合っていないものの、裸眼よりはずっといい。


「マダム。心より感謝いたします」


 起き抜けの寝間着姿では、ご婦人の前でベッドから出るわけにもいかず、座ったまま精一杯姿勢を正して頭を下げると、ローザは「はああ?」と柳眉を逆立てた。


「ヴォルフ・イアサント・サディアス! 今すぐその気持ち悪い平民言葉をおやめなさい。寒気がするわ」

「いや、しかし俺……私は廃嫡されてもはや貴族ではないし、サディアス姓を名乗る資格もない」


 ローザは少しの間思案するように黙ってから、おもむろに「そうね」と頷いた。


「サディアス姓についてはあなたの言うとおりだわ。ならこうしましょ。侯爵夫人として命令します。今後、わたくしと話す時には平民言葉は一切禁止。昔と同じように接すること!」

「侯爵夫人?」


 そういえばさっき、結婚して姓が変わったと言っていたか。


「ええ、そうよ」


 眼鏡のお陰で少しだけくっきりとした視野の中、かつては見事な縦ロールにしていた金茶の髪を品良く結い上げた貴婦人が、薔薇色の瞳を細めて満足そうに微笑んだ。


「わたくし、ディディエ様と結婚したの。サディアス侯爵夫人になったのよ」

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