1 どうやら悪役令嬢に転生したようです
首筋に鋭い痛みが走る。
肌に食い込む歯の感触と、じわりと広がる熱――そして恐怖。抵抗しようとする腕は固くつかまれ、逃れる術もない。
「待って……!ねぇ、話を聞いて……」
「嫌だっ!どうして……どうしてなんだよ……っ」
叫び声に滲む苦悩と狂気。その目は涙をたたえているのに、今にも私を壊しそうなほど荒々しい。どうしてこんなことになったんだろう――。
結局、運命には逆らえないの?
『“推し”に殺される』運命を避けることは……。
◇ ◇ ◇
(皆さま、ごきげんよう。突然ですが私、乙女ゲームの「悪役令嬢」に転生してしまったようです――)
メイドが忙しなく手を動かし、波打つように広がる金髪を美しくまとめていく。
鏡に映るのは、冷たい微笑みを浮かべた美貌の持ち主――シャルロット・ルシュール。
それが今の私の名前。高慢で冷酷、そしてゲームの終盤には必ず断罪される運命の悪役令嬢だ。
この事実に気づいたのは、私が6歳のとき。
目を覚ますと、見たことのない豪華な部屋にいた。装飾の細やかな家具、柔らかな絹のカーテン、そしてふかふかのベッド――明らかに、私が知っている世界のものではなかった。寝起きでぼんやりとした頭のまま、「これは夢?」と呟きながら、近くにあった鏡をのぞき込むと、そこに映っていたのは見知らぬ少女の顔……けれど、どこかで見覚えのある色合いだった。
極めつけは、部屋へ入ってきたメイドが、私に向かって恭しく一礼しながらこう言ったことだ。
「お目覚めですか、シャルロット様」
……シャルロット? その名前を耳にした途端、全てがつながった。
ここはついさっきまで遊んでいた乙女ゲーム『月夜に囁くノクターン』の世界であり、私はその登場人物のひとり、シャルロット・ルシュールに転生してしまったのだと。
『月夜に囁くノクターン』は、平民出身の主人公が、実はある貴族の隠し子であることが判明し、16歳で初めて貴族の世界に足を踏み入れるところから始まる。貴族学校に通いながら、王族や貴族、騎士たちとの恋愛を楽しむゲームだ。
一方、シャルロットはそんなヒロインに嫉妬し、「イケメンを独り占めしているから」という理不尽な理由で嫌がらせを繰り返し、最終的に断罪される。
シャルロットは美しい顔に見合う面食いで、イケメンはすべて自分のものと信じて疑わない、ぶっ飛んだ思考の持ち主。美貌を武器に攻略対象を手玉に取ろうとする姿勢は、もはや清々しいほどで、断罪されたときにはプレイヤー全員が「ザマァ」とスッキリするほどのキャラだった。
でも、“私”は違う。
イケメンはみんなのもの、むしろ共有財産だと思っているし、面食いでは……ないとは言い切れないけど、それは二次元に限った話。それに、元の私は平凡なOLで、事なかれ主義で争いごとは嫌い。誰かをいじめるなんて無理がある。
とにかく、ヒロインをいじめるつもりもなければ、イケメンを独り占めするつもりもない。
そもそも、断罪なんて真っ平ごめんだしね!
そうして転生に気付いてから九年。私は本日、十五歳の誕生日を迎えた。
毎年、誕生日には盛大なパーティーが開かれる。ルシュール家は伯爵家だが、父が王宮の外交官で顔が広いため、招待客が多い。華やかな社交場と化した邸宅で、私は無数の笑顔と挨拶に囲まれ、我が家自慢の料理長が作った誕生日ケーキを楽しむ余裕はない。
令嬢って大変だなと、九年目でも思うのはここだけの話だ。
とにかく今日は疲れた。今夜はよく眠れそう……。
「ふぁ……眠い……」
羽織っていたカーディガンを傍の台に置き、整えられたベッドに潜り込む。
「ゲーム開始まであと一年か……」
ゲームの舞台である貴族学校は、貴族の子息であれば十六歳になると必ず通わなければならない場所だ。いわば、現代の義務教育のようなもの。断罪を避けるために学校に通うのをやめたいという願いは、残念ながら通用しない。
「まるで死へのカウントダウンね……」
学校へ通うことが避けられないなら、せめて断罪は回避したい。シャルロットの断罪はほぼすべて処刑によって死亡するから。
ただ、私の推しのルートは……――
ガシャンッ
「……なに?」
閉じかけていた目を開く。眠りに落ちる直前だったせいか、現実と幻聴の区別がつかない。
でも確かに、物音が聞こえた気がする。
少し緊張しながらベッドから抜け出し、窓に近寄る。
「庭の方から聞こえたような……」
今夜は風が強い。何かが転がっただけかもしれない。けれど、月明かりに照らされた庭を見て、息を飲む。
影が動いた気がした。
「……人がいる?」
カーディガンを慌てて羽織り、部屋を飛び出す。
廊下はかすかなろうそくの灯りだけ。この世界はゲーム世界でなんちゃって中世時代のはずだけど、こういうところは史実に忠実なのか灯りは少ない。だけど慣れた廊下なので、難なく玄関までたどり着き、外に出る。玄関の扉を開けると、強風に吹き飛ばされそうになる。
「もう、こんな時にこの髪!」
普段は自慢のふわふわの長い髪が風にあおられ、顔に張り付いて前が見えない。
仕方なく髪を押さえつつ、人影の方へ足を進める。
「……もしあれが泥棒だったらどうしよう」
すごく今更だけど。
よく考えれば、まず他の誰かを呼ぶべきだとわかるのに。けれど、何かに引き寄せられるように足が止まらない。
――これが運命だと言わんばかりに。
風をかき分け、影に近づく。ガゼボの近くで、誰かがうずくまっているのが見えた。
「……ねえ、大丈夫?」
恐る恐る声をかけると、その影が反応する。びくりと肩を震わせ、こちらを振り返ったその顔を見て、心臓が跳ね上がった。
少し幼いけれど、間違えようもない。
「アラン……!?」
そこにいたのは、シャルロットなら先に出会えるはずのキャラ――ずっと会いたかった私の“推し”だった。