繋げてはいけない運命5
美女が持ってきてくれた旅館のような食事を全て腹に収めると、彼女は「ご用意が整いましたので、御方様の下へとご案内します」と告げてきた。
何も分からないだらけではあるが、ここまで至れり尽くせりだったら取り敢えずは悪いようにはされないだろうと腹を括る。
この先、何が待ち受けているかは分からないが、多分昨日のイレギュラーよりはマシだろうと美女に促されるようにして腰掛けていたソファから立ち上がった。
私がいるこの家は、分かってはいたがとんでもない大豪邸のようだった。
部屋を出ると、そこにはどこまでも続いている絨毯の敷かれた廊下があり、挟むようにある壁には等間隔に扉が並んでいる。
中学校で長崎に行った時に訪れたグラバー園にある異人館を思い出す。何千kmと遠く離れたイギリスより遠路はるばるやってきた彼等たちが建てたお屋敷が確かこんな感じだったはずだ。
美女に案内されて、庶民の自分がこの先もう二度と訪れることの無いような館内を歩く。
綺麗に纏められた黒髪と姿勢をよく伸ばした美女の後ろ姿を眺めつつ、私はこの現実味のない状況から逃避をするようにして、自分なりに昨日の記憶を整理することにした。
昨日はどっかのど阿呆が合コンのために心霊スポットに行くと言い出し、いつも通りに口車に乗せられてお供させられたのが私の不幸の始まりだ。
深瀬病院は最近話題のホットな心霊スポットであり、検索エンジンに打ち込んだら100件以上もヒットするその筋では有名な都市伝説である。
明治時代に結核患者向けに開院した深瀬病院ではあるが、まだ結核に対して有効な治療法も確立されておらず、予防法も未発見だったがために開院して四年後には治療にあたっていた院長を含める医療従事者も罹患し、全滅した。
しかし、山奥にあるために病院は解体もされずに放棄された。相続者もいなかったため、戦後になっても手付かずのままとなる。
そのうち、日本全体でオカルトが流行し、遺棄された深瀬病院はこっそりと一部の人間たちの間で日の目を見ることとなる。
如何にもな風貌で、都市伝説にするにはピッタリの悲劇があったばっかりに立ち代り入れ代わり無粋な人々に注目された。
そして、その無粋者の一人である由威に連れられて、深瀬病院へと訪れた私は──そこで言葉にするのも憚れるような怪物と遭遇する。
怪物から命からがら逃げるも、玄関口を封鎖された私達は立ち向かう他なかった。
普通ならば、あの怪物に頭からかぶりつかれてこの世を去り、数日後には行方不明者として連日のニュースを騒がしてもおかしくはなかったのだが、あの日は私達も普通ではなかった。
窮地に陥った私たちを救ったのは、突然由威の背中に生えた真っ黒な羽だ。
一mはありそうな烏のようなその両翼を難なく操って、由威は私を抱えて怪物の攻撃を難なく躱していた。
そして保護されっぱなしの私も私で、途中から目の周りが痛くなるという不調に襲われた。痛みは一時的なものではなく、最悪なことに次いで頭が割れそうなほどの痛みに襲われた。
もう何が何だか分からなくなって、助けを求めるように閉じていた目を開けると、色の抜けた自分の髪が目に入った。
しゃらん、と一房髪を掬う。
癖のつきやそうな柔らかな黒髪は一度も染めたことがないだろうと言いたげなほどに黒光りしている。
真っ白に抜けきっているのに妙に触り心地の良かったあの髪は今はもう元に戻っていて、アレは痛みが見せた幻覚だったのかもと疑ってしまう程。
そもそも私に異変が起きたのは、あの人が現れてからだ。
締まりきっていたはずの玄関口を豪快に吹っ飛ばして、月光を背負って現れた長身の男。
彼と目が合ってから──私は。
「お部屋はこちらでございます」
起きるまでの記憶を歩きながら思い返していると、美女が一つの扉の前で足を止めた。
私が寝ていた部屋から二階分上がった先のかなり奥まった場所に威風堂々と構えている重厚な扉は、どう考えても普通の応接間というわけではないだろう。
この先に待ち構えているものについて無意識に考えを巡らせて、固唾を飲み込む。
私が一向に取っ手に手を掛けないことを焦れったく思ったのか、美女が「失礼します」と一声かけて開けてくれる。
ギィと重たい音をたてて開いた扉の先は、執務室のようになっていた。
入室してすぐ目に入るのは、採光するために特別誂えられたただろう一mはありそうな立派な出窓だ。
上部の方はステンドグラスになっているようで、夜空と三日月が施されている。
出窓の前に構えられているのはマホガニー材で出来た執務机だ。ノートパソコンとブックエンドに挟まれた三冊の方があるだけの整理された机の前には、背筋を正して此方を見ている老女がいた。
老女は薄紫色の光沢ある着物を纏っていた。恐らく、私を案内してくれた美人が身に付けている着物よりはずっと上等な代物だろう。
年相応に年輪を刻んだ肌すら風格に変えて、老女は紅の引かれた薄い口元に弧を描く。
華道の先生のようにピンと伸びた背筋は、見ているものの姿勢をも正すほどに厳格だ。
只者ではないと容姿と立ち振る舞いで分からせてくる老女を前にして、私の緊張はまたもや最高潮を迎えようとしていた。
しかし──そんな私の緊張を早々にぶっ壊しにかかる不遜な輩がいた。
「月呼さんって、若い頃はめちゃくちゃモテまくったんじゃないの?」
「うーん、そうねぇ。でも、慕われていたのは名前ありきだったんじゃないかしら」
「絶対そんなことないと思うなぁ。多分、おじい様達のアピールが下手なだけだよ」
「由威君は本当、口がお上手ね」
「いや〜、それほどでも」
つい昨日も散々聞かされたゆる〜い声だ。
しかも、何やら不敬罪にでも当てはまりそうなことを言っているのが聞こえてくる。
「は!? 由威!!?」
「おはよぉ、ひまちゃん。俺より起きるの遅かったねぇ」
老女ばかりに目を奪われていたので気付かなかったが、老女が居る執務スペースよりも前方には、向かい合わせになるように革張りのソファが置かれていて、向かって右側のソファでは由威が美味しそうに茶請けのクッキーを堪能していた。
部室で寛いでいる時と変わらぬ姿で茶請けを貪っている姿を見てしまったせいで、体に張りめぐらせていた緊張感が一気に抜けていく。しかし一抹の心配も胸に去来した。
由威の左頬には、大判のガーゼが貼られていたからだ。
ガーゼの下には、あの怪物の触手に負わされた裂傷があることだろう。
癪ではあるが、由威は顔だけは良い男だ。
面の良さで人生の山や谷を乗り越えてきたといっても過言じゃなさそうなくらいの衆目を集める甘いマスクに傷跡が残ってしまうのは、私でさえも残念に思ってしまうほどだ。
「その傷、大丈夫なの?」
「傷······?あ〜これ?うん、全然大丈夫そう!処置が早かったのもあって跡とかも残んないだろって言われたわ」
心配すんなとばかりに立てられた親指に若干の殺意を覚える。
私の心配を他所に、当人はこの通り何とも呑気なものである。しかも、どうも頬の傷のことを忘れていたような口振りだ。
「あ、そう」と無駄な心配をしたと溜息混じりに会話を切上げると、由威にじゃあ今度は自分のターンと言いたげにちょいちょいと手招きされる。
恐らく私に隣に座るように言っているのだろう。
奥に座っている老女へと視線を向けると、「お掛けになってちょうだい」と許可までもらってしまった。
皆から勧められて、由威の隣に腰掛ける。
寝泊まりしていた部屋のソファの座り心地も寝転んでいるのかと錯覚するほどにフカフカで素晴らしかったが、このソファは程よく腰が沈んで体にフィットする。プライベート用ではなく、あくまでもビジネス目的で仕立てあげられたものだろう。
「ねぇ、由威。此処ってどこなの?」
由威の怪我については一段落したが、肝心の件がまだ残っていた。
此処は何処で、私は何故こんな豪邸で寝かされていたのかという問題だ。
少しでも情報を手に入れようと声を潜めて、由威に聞いてみる。
「ん?此処は糸乃家の本邸だよ」
「糸乃家?」
「そう。おれのとお〜〜〜い親戚の家」
「なんで由威の親戚のお家に私までお邪魔してるわけ?」
「だって、マモ君が君を連れて帰るって言って聞かなかったからさぁ。流石に知らない家に急に連れて帰るのもどうなの?とは言ったけど、あのぼくね──堅物は一度決めたら曲げないんだ。だから、阻止出来なくてごめんね」
「何を言ってるのか、全然分かんないんだけど」
どうやら私は、マモ君とやらに攫われたらしい。
全く聞き覚えのない名前にも関わらず、何となく誰のことを指しているのかが無意識下で理解出来てしまうのが嫌な感じだ。
脳裏に浮かぶのは月光を背負って立っていたスーツ姿の男。緩く波打つ黒髪に、幅の狭い二重が流麗で、人の視線を奪うことに特化した形の男が、どうして私をこの屋敷に連れて帰ること拘ったのかの理由は検討もつかない。
ただ、此処は由威の親戚の家らしいので、事件に巻き込まれたわけではなさそうなのが不幸中の幸いか。
「良ければ、わたくしもお話に混ぜていただけないかしら?」
由威とヒソヒソ話を交わしていると、執務机の方から声が掛かる。
間違いなくあの風格ある老女からの呼び掛けに、恐る恐ると首を伸ばすと艶やかな微笑を真っ向から浴びることになった。
「ひまちゃんのなぜなぜは、たぶん月呼さんが答えてくれると思うよ。ってことで早速自己紹介しよーよ、二人とも」
こんな時だからこそ、由威の怖いもの無しは有難いと思う。
あの老女を前にして圧倒されることも無く、いつものペースで場を温めてくれる由威に手を合わせそうになって──そもそも、コイツが合コンのために私を道ずれにしなければこんなよく分からない展開にならなかったことを思い出し、さっと感謝の念を引っこめる。
「そうね、それがいいわね。お嬢さんも難しいかもしれないけど、あまり緊張なさらないでちょうだい」
「は、はい」
「本当にただの死に損ないの老いぼれなのよ。嗚呼、何を喋っても話が長くなっちゃうわね。わたくしは糸乃 月呼と申します。由威君の親戚で、この家の持ち主になるわ。『糸乃神社』って分かるかしら」
「あ、糸乃ってあの神社の······」
覚えのある神社の名前に、ハッとする。
糸乃神社は三日月島で一番有名な寺社仏閣といっても過言ではないだろう。
毎年、八月八日に催される『たまゆら祭』は京都の『葵祭』や奈良の『天平祭』のように時代劇のような格好をした人物達による行列が有名で、この時期になると島の人口が比喩ではなく二倍に膨れ上がると言われている。
「ご存知なのね。わたくし、あの神社の神主を担っているの。もし機会があれば、是非とも足を運んでちょうだいね」
意外にも茶目っ気のある方のようでパチンと片目を瞑ってウインクされる。どうでもいい事だけど、少しだけ由威のDNAを感じてしまった。
月呼さんのお茶目を受け取ってつい動揺してしまったのか、無意識に由威へと顔を向けてしまうと彼は心配そうに眉根を八の字にして此方を伺っていた。
「ひまちゃん、自分で自己紹介出来る?」
「出来るわー!!!」
何の心配をされているんだろうなと思ったら、幼稚園児に掛けるような心配をされていた。コイツにだけはされたくない心配だ。
いつ何時も私の胸中をかき乱すことには余念のない男である。
突然大きな声を出した私に対しても月呼さんは全く狼狽えたりせず、私達の漫才のような遣り取りをにこやかに見守ってくれている。
その生暖かな視線が若干気恥ずかしくなってきて、私は空気を変えるように軽く咳払いをしてから口を開く。
「えっと、大きな声を出してすみません。私は沙倉 陽葵と申します。三日月大学の文学部です。由威とは同じオカルト研究会の仲間でして、今回はサークル活動中に倒れたことでお世話になりました」
私の認識では誘拐されたも同然なのだが、見ようによっては急に倒れた女を匿ってくれたともとれる。
此処は不必要に角を立てることもないだろうと、オブラートに包んでお礼を述べておく。
「そんなに大したことはしてないわ。むしろ、ウチの守が強引に連れてきたようなものと伺っているの。目が覚めたら知らない部屋で心細い思いもしたでしょう?」
「それは確かに起きた時は吃驚しました。けれど、お食事まで用意頂いて色々ともてなしてもらいましたし」
「そう言って貰えると有難いわ。ふふふ、それにしても、言われてみたら確かに似てるかもしれないわね」
和やかに交わされていた月呼さんとの会話はその瞬間、温度を変えた。
「“絢子”に」
なんてことなく口にされたその名前に、心臓が痛いくらいに引き絞られる。
どくんと高く鳴った心臓を無視して、引き攣りかけた笑顔を根性で動かさないようにする。
「アヤコ、さんですか?」
不自然にならないように、突然話題に放り込まれた女性名をオウム返しする。
「ご存知ないかしら?わたくしはてっきり、貴女の母御のお名前だと思ったのだけれども」
「いいえ、私の母の名前は──マリナです」
「······そうなのね。早とちりして申し訳ないわ」
どうして急に母親に興味を持たれたのかは分からない。
ただ、私の第六感が告げている。
このまま月呼さんと会話していたら、とんでもない流れに巻き込まれてしまうと。
再び緩めたはずの緊張感がゆっくりと張り詰められていく。
きゅっと口元を引き締める私に対して、月呼さんはやはり微笑を浮かべたまま一つも様子が変わらない。
由威の空気を読まずにクッキーを咀嚼している音だけが部屋内に響いている。
ここからどんな話の流れになっていくのかと密かに身構えていたその時、扉の方からコンコンコンと軽快なノック音がした。
扉の向こうから「失礼します」と投げかけられたその声は、昨日聞いたばかりの低音だ。
月呼さんに続き、またもや厄介そうな人物が増えたと忌々しく私が思っている傍らで、今まで存在感を消して扉の傍で控えていた美女がゆっくりと開いていく。
開いた扉から現れたのは、やはり例の男だ。
今日はスーツ姿ではなく、ワイシャツにジーパンとラフな格好ではあったが、滴るような色香を醸し出した切れ長の目には見覚えしかない。
男は月呼さんと由威、それから私へと順繰りに見渡して、役者は揃っているなとばかりに一つ頷く。
「御方様。無事にお会い出来たようでようございましたね。姫様のご帰還にともない『椿屋』『藤倉』『牡丹坂』への披露宴を予定しているのですが、いつ頃がご都合宜しいでしょうか」
「······マモ君って本当に猪突猛進っていうか、先走るの上手だよね」
「それは、どういうことだ?」
端正な顔立ちをニコリともさせずに事務的な用件を述べた男へ、皮肉げに水を差したのは隣でクッキーを貪っていた由威だった。
珍しく冷ややかな口振りをしている由威に、詰められているわけじゃない私の方がドキリとする。
「昨日、俺言ったよね。ひまちゃんは確かに条件を満たしてるかもしれないけど、それはただの偶然の一致の可能性もあるって」
「何を言っている。僕は確かにこの目でしかと見た。絹糸の髪、アルディア語の浮かんだ赤い灼眼、居るだけで清められる神力······あれは糸乃家直系にしか出現しない特徴だ」
「でも、ひまちゃんのお母さんの名前は『マリナ』らしいよ」
「は?」
男は何を言っていると言いたげに、僅かに目を丸くする。
この男も何故か私の母の名前に興味があるらしく、しかも『マリナ』以外の名前だと決めつけているような態度だ。
「ひまちゃんが糸乃家直系ならば、彼女の母親の名前は『アヤコ』で殆ど間違いない。もし万が一があったとしても、そこに入るのは『ツムギ』、もしくは父親の名前が『ヨリト』だ。ひまちゃん、お父さんの名前は?」
「『ムツキ』だけど······」
「だってさ。個人的には何処かの大社のお嬢さんかなってくらいだったんだけど、多分これは家系図を辿ったら糸乃家にほっそ〜〜〜〜い縁がある程度の他人も同然な親戚レベルなんじゃないかな」
「そんな訳っ」
「確率は天文学的な数字だけど、無いとは言い切れないよね。まあ巻き込んじゃった俺が言うのもなんだけど、ひまちゃんってば本当に普通の子なの。これ以上、『オモテ』の子を『ウラ』のことに縛り付けるのはナンセンス以前に、規律違反になるくね?」
由威の言葉がトドメになったのか、男は何か反論しようと口を開けるも、それ以上の言葉を持たないのか結局は口を閉ざしきってしまった。
二人が何のことで真剣に話しているのかは分からない。
自分のことの筈なのに一つも理解できなくて、傍観者に成り下がる他ない私に出来ることは由威に詰められて顔を歪め押し黙る男の反応を伺うことだ。
弁論の言葉が出てこないとばかりに身動ぎしなくなった男に、由威は見せびらかすように大きく溜息を吐く。
そして、この場の主導権をあっさりと握った友人はとうとう私へと向き直った。
男に向けていた冷たい眼差しを親しげに溶かして、私に対しては普段通りの緩い笑顔を繕った由威を得体の知れないもののように感じる。
「さあて、ひまちゃん。何にも分からないだろうけど、選んでもらわなくちゃいけないんだ。本当はある程度のことは月呼さんに説明してもらおうと思ったんだけどね。みーんなせっかちなもんだから事情が変わっちゃったんだ」
敢えて普段通りの軽い声音で告げてくる由威に、私は唇を引き結んだまま先を目で促す。
他人行儀な私に、由威は少しだけ困ったように後頭部を掻く。
同じ大学で同じ学年で、同じサークル仲間だとしても、今この場では由威は見知らぬ男でしか無かった。
「選んだもらう選択肢は二つ。一つは、こんなヤバい家をさっさと抜け出して日常に戻る。俺的にはこっちが超オススメ」
身振り手振りを添えた方が分かりやすいだろうと、由威は左手を天秤に見立てて持ち上げる。
左側は、このまま何も知らないで家を出る案。
「そんで二つ目は、糸乃の宗家の末裔として迎えられて下々から崇められつつ、日々化け物と戦うことが課される。こっちはもう人生ハードモード。マジでオススメしない」
右側は、何故か私が月呼さんの家族になる案。
しかも、化け物と戦うことになるっていう不穏な意味深オプション付きだ。
どちらがいいかだなんて、一目瞭然すぎる。
選ぶのは間違いなく左側。
何の変哲もない凡人の私には、昨日のような怪物との遭遇は人生で一回こっきりで十分すぎる。
「姫様」
不意に呼ばれた聞き慣れない呼び方に反応してしまったのは、覚える必要のない罪悪感からだろうか。
吸い寄せられるように見てしまった男の目は、何の感情も映し出していない空虚なものだというのに、何故か憐憫を抱かされる。
不思議なことに、私はこの男を捨てるのだと強く実感させられる。
「ひまちゃん」
そんな唐突な感傷を取っ払ってくれたのは、二ヶ月間何かと呼ばれ続けた馴染みのある渾名で。
男から視線を外して、返答を待っている由威に私は選んだ答えを口にする。
「私は沙倉だから。戻るよ、日常に」
次話の更新は、明後日となります。
お時間は恐らくこのくらいの時間になるかと思います。
2024/12/20 加筆:由威の左頬の傷について