繋げてはいけない運命3
※R15 ホラー回です
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廊下の突き当たりにあった扉の先は受診室となっているようで、簡素な机と椅子、それから人ひとりが寝転ぶのがやっとそうなベッドが壁に沿って付けられている。
案の定、放置されて長いことが経っているため、此処も黴の温床となっていた。特にこの部屋は湿度が高いからか、壁や床の至る所に黒い粒子がびっしりと覆っている。
水が腐ったような匂いが鼻をつき、眉を顰めた私の視線を奪ったのはしかし、部屋の惨状ではなかった。
部屋のど真ん中。
そこに成人男性の背ほどもある汚泥の塊が鎮座している。ヘドロのようにドロドロとした体積には大きさの違う目玉が三つ埋め込まれており、ギョロギョロと忙しく動き回っていたのも束の間、私達を三眼が捕らえた。
三眼は物珍しそうに私達を眺めていたが、それらは揃って厭らしく弧を描く。
本能的にターゲットにされたのだと、理解させられた。
瞬間、項から頭の先まで総毛立つ。
頭の中がけたまましく警鐘を鳴らし、本能的な嫌悪からか、心臓が慌ただしく脈を打った。
耳の奥からドッドッドッと激しい鼓動が聞こえてくる。
これは、本当にヤバい奴だ。
確実に遭遇しただけで助からないタイプだ。
視線はすっかり釘付けになってしまっていて、怪物から全く逸らすことが出来ない。ニタニタと薄気味悪い嘲笑に晒されて怖気付いてしまっていた。
『何とかしなければ』という思いだけが大量に産まれて、脳の面積を圧迫していく。半ば強迫観念にも近い役ただずなその思考回路は、完全にテンパっていたせいだ。
どうしよう、どうしようと錯乱しかけていた時、ぐいと左手が力強く引っ張られる。
強引に動かされた自分の腕の先を無意識に追うと、視線の先が怪物から見慣れた甘いマスクへと移動した。
すっかり頭から抜け落ちていたが、ここにはもう一人いる。
「ひまちゃん!走るよ!!」
同行者である由威が大きな声を張上げて、私に喝を入れた。
簡単な指示を受けたことで次にやることが明確になり、頭の中を占領していた意味の無い言葉達が瞬く間に消えていく。
途端、無駄に鳴り響いていた鼓動の音が少しずつ小さくなっていった。
そうだ、由威の言う通り。
今はアレから逃げる他ない。
「うん!いっせーの!!」
僅かに首を振って、逃げ足の掛け声を気合いを入れるように叫ぶ。
言葉尻と共に二人の足が揃って元きた道へと踵を帰し、その場から矢が放たれたように駆けていく。
由威が開け放った扉を引っ張られるままに抜けると、再び無機質な廊下が私達を出迎える。等間隔に嵌められている窓は私の上半身ほどの大きさしかない。此処も次の部屋まで走り抜けるしか無さそうだ。
50mはありそうな細長い廊下に体力の心配が一瞬掠めたが、私の不安を感じたのかふわりと腰元を支えるように手が置かれる。
弾かれるようにして犯人を見上げると、いつものふざけた笑顔を引っこめて真剣に正面を見据える由威の顔があった。
何にも特別なことはしていないというように、得意気にもせず、かといって卑屈に弁明もせず。
涼しい面持ちで二人三脚を続ける由威に少しだけ悔しい気持ちを抱く。
(こういうことを、何の気重いもなく出来てしまうくせに彼女は出来ないんだよね······)
しかし、そんな私の感傷も長くは持たない。
背後からドタドタと大きな地響きのような音が聞こえてくる。それは土砂崩れのような質量を伴って足元を揺らし、私達に迫ってきていることを知らせていた。
音の正体を確認しようと首を捻って振り返ってみると、ヘドロの体から蛙のような足を左右に三つずつ生やして追いかけてきている怪物がそこにはいた。
怪物にすると狭そうな廊下に通じる扉を蹴飛ばして、蜘蛛のような動きで追いかけてくる。わさわさと六本足を車輪のように動かして追いかけてくる姿を見て、折角走ったことで巡っていた血流があっという間に引いていった。
「カオ○シかよ!?」
「それめっちゃ分かる〜。でもカオ○シは千○のためにやってたことが受け入れられなくてああなっちゃったもんなぁ」
出てきた感想が自分でも引くほどにバカ丸出しだったが、由威も同じようなことを思っていたようで話に乗ってくる。
「アイツに捕まったら終わりだよね······」
「そうだね。間違いなく生きては帰れないかな」
「もう本当に最悪っ!!!」
「ごめんよ、ひまちゃん」
「絶対、生きて帰れたら何かしら奢ってもらうんだから!!」
それくらいの条件を追加しなければ、私の命が軽すぎる。
幸いにしてヘドロだからか、動き自体はあまり素早くない。しかも、横に大きくなったこともあり、あの細長い廊下だと身動きが取り辛いらしい。
足が生えたことで機動力が上がったのではと憂いていたが、逆にそれが奴の動きを最小限に留めてくれていた。
人間の足とあまり速度が変わらないので、なんとか一定の距離を保ったまま受付フロアへと突っ込み、そのまま玄関扉へと駆けていく。
しかし、人ひとりが通れそうなほどの隙間があったはずの観音扉が今はぴっちりと締め切られていた。
観音扉の取っ手を由威が掴むが、ピクリとも動かない。着いた時はあんなにも歓待するように開いていたのだから、何らかの超常的な力が働いていることだけは明らかだ。
「くっそ・・・触れてない物も操れるとなったら低級の雑魚じゃないな。上級よりの中級、位でいえば『少礼』くらいか」
ガタガタと取っ手を押したり引いたりしつつ、由威が何やらブツブツと言い始める。
あまりにも小声だったため聞き取れなかったが、恐らくはこの状況についてのことだろう。
「何か言った!?」
「ううん、なんでもない!ちょっと目算を誤っただけ」
「オーケー!そんでこっからどうする?」
行く手を塞がれてしまった私達の背後では、勝利を確信しただろう怪物がまたニマニマとした厭らしい目を象ったまま一定の距離で立ち止まる。
私達と距離を取ったまま佇む怪物は、蛙のような足を体内へと引っ込めたかと思えば、出会ったばかりの楕円形のフォルムへと戻っていた。
急なフォルムチェンジに、これから怪物が何をしてくるのかと身構える。
全く予測がたたずにイレギュラーに対応できるかの不安が積もっていく中、ヘドロは縮こまる私を嘲笑うように急にパックリと三眼の下を裂けさせた。
また変化する気なのかと腰を深く沈めて見守っていると、その隙間からびっしりと人の歯のようなものが生え揃っているのが見えた。
歯は私の拳大くらいあり、あれに噛みつかれたら一溜りもないだろう。
それだけに飽き足らず、怪物はべろんと体の半分もありそうな分厚い舌を飛び出させる。
その舌の表面には悪趣味なことに、小さな目玉がびっしりと犇めいており、どれもが私達を見るや嘲るように弧を描く。
何十という目玉達が加虐心を秘めて、こちらを舐めるように見詰めてきていた。
あんまりにも悪夢のようにおぞましい光景に、また全身に生えている毛という毛が総毛立つ。
人間は本当に悲鳴を上げなければならない場面では声が出ないと聞いていたが、本当にその通りだ。
私は今、絶句するしかない口元に手を当てて、この冒涜的な光景を前に吐かないようにするだけで精一杯だった。
これはもう──助からないのでは?
一瞬にして過った絶望が、脳内をあっという間に支配していく。
人にはどうすることも出来ない超常現象。
鉢合わせてしまったら運がなかったと諦める他ないと思わせるほどの圧倒的な人外っぷり。
そもそもとして、奴の領域にノコノコと踏み入ってしまったのはコチラだ。
人間などが手も足も出ないと、時が経てば経つほどに思い知らされていく。
(やっぱり、禁止されていることを徒に破るだなんてことはするんじゃなかったなぁ······)
遅い後悔の嵐に目が遠くなる。
来世があって、もしまた人間として生まれ直したら絶対にオカルト研究会には入らない。絶対にだ。
既に今生とも若干お別れをしかけていた時、唐突に包まれている左手がギュッと握り締められる。
私の手を握っている存在など此処には一人しかない。
半ば縋るように隣へと顔を向けると、そこには見たこともないほどに優しく微笑む由威がいた。
由威は何を思ったのか、私の耳元へと顔を近づけてくるや、そっと囁く。
「ひまちゃん、ちょっとだけ目を瞑ってて」
「······え?」
「ごめんね、俺に付き合わせちゃって。大丈夫、絶対に家に返してあげるから。だから、もう怖いものを見ないようにちょっとだけ瞑ってて」
いつにも増して柔らかな声音がするりと耳に入ってきて、かなり戸惑う。
由威の口ぶりからして、彼が一人で何とかしようとしているのは明白だ。
だが、由威だって私と置かれている状況は変わらないはず。
剣道経験者とはいえ、手元にはおあつらえ向きのそれっぽい棒もないし、何よりたかが人間の抵抗があんな怪物に通用するとは到底思えなかった。
そんな私の困惑を由威は察知したのか、もう一度念を押すように「大丈夫」とあやすように笑いかけてくる。
そのあまりにも柔らかな由威の雰囲気に呑まれるようにして私は自然と目を閉じようとして───瞬間、体全体を何かに包まれてジェットコースターに乗っている時のような遠心力に晒される。
お腹の前に回された支えのようなものに臓器が押し潰され、足元から床の感覚が無くなったことに気づいた時には、ドゴォンと派手な音がすぐ近くから聞こえてきた。
「わああああああ!?」
遅れて飛び出てきた悲鳴が迸る。
さっきまで目の前に怪物がいたはずなのに、今は怪物を見下ろしている。
絶対に有り得ないはずの光景にアタフタと視線を上へと向けると、真上に由威の顔があって、由威の頭のすぐ近くには天井があった。
覚束無い足元には床を踏み締めている感覚がない。
間違いなく私達は今、宙に浮かんでいた。
あまりにも理解不明な出来事に思考回路はもはやショート気味だ。怪物に出会ってから怒涛の展開過ぎて、正直気持ちも頭も追いつかない。
冷静さを失っている私を他所に、バサバサと由威の方から羽ばたくような音がする。
養鶏場とかでしか聞かないような羽が風を切るような音につられて恐る恐ると首を伸ばしてみると、鴉のような艶めいた真っ黒な羽がそこにはあって、羽の根元を辿っていけば由威の背中に行き当たった。
それはつまり、この黒羽は由威の背中から生えているということで──。
私が宙に浮いているのは全て、由威の仕業だということだ。
「な、なんじゃこりゃああああああ!?」
「ひまちゃんって本当、良いリアクションするよね」
「ちょっ!? は!? え? もしかして、この一連の出来事ってオカ研が無駄にお金をかけて企画した私へのドッキリだったりする!!?」
「もういっそのことそれだったら良かったんだけどねぇ」
テンパって意味不明な言葉を捲し立てる私と違って、由威は普段通りに緩い。
「ひまちゃん、そろそろ口を閉じよっか。喋ってると舌を噛むよ」
上から降ってくる警告の意味が理解出来ず、もはや喚くだけのリアクション芸人に陥った私は思考を停止したまま首を傾げる──だが、その意味を身を持って知らせるように体がぐんと右へと傾いた。
某夢の国のジェットコースターだって此処まで振り回さないだろうという程に体が何らかの力によって振り回され、肝が落ち着く暇なしとシェイクされる。
「ゆ、ゆい〜〜〜〜!!」
「ごめんねぇ。止まったら打撃食らって一発KOだからさぁ」
全く心のこもっていない謝罪のすぐ後に、背後から何かが崩れ落ちるような硬い音が響いている。
まるで建物そのものが壊されているようなその音に、もしやと空気抵抗に晒される中、必死に目を開けると真下にいる怪物がリボンのようにヘドロから触手を伸ばして、こちらへとめちゃくちゃに振るっている姿が見えた。
······見なければよかったとコンマ1秒で後悔する。
触手がヤケクソのように私達に向かって振り下ろされるが、軌道を由威は見切っているのか意図も容易く躱していく。
私を抱えて重たいだろうに、右へ左へと軽やかに飛び回る由威の異様さについても疑問を持たなければいけないのだろうが、初めての飛行に振り回されっぱなしの私はそれどころじゃなかった。
「うっぷ」
「あっ!ちょっ、ひまちゃん!?」
「ごめん、もうは、吐く······」
三半規管はそれなりに強い方だと思っていたけど、どうやらそれも常識の範囲内ならの話だったらしい。
遠慮のない遠心力によって胃腸から食道へと一気に駆け上がってきた諸々をなんとか飲み下してはいるものの限界は近い。口元に手を当てて、頬を膨らませる私に由威も慌てている気配がする。
流石に保護してもらっている身の上なのだから、吐くのはいくらなんでも駄目だろうということは分かっている。
分かってはいるが、心と体は別々に動くということが人間には往々としてある事だ。
吐き気を自在に操れたら、駅前の電信柱に寄りかかっている酔っぱらいはいない。要はそういうことだ。
そんな私達のアホなやり取りを怪物が見逃してくれるはずもなく、鋭い触手が私のすぐ上を駆け抜けていく。
刹那、ぱらりと生暖かい液体が口元を覆っている片手と頬を掠めた。
恐る恐る何かが掛かった手を確認すると、赤黒い液体が飛び散っているのが見える。液体からはツンとキツイ錆びた匂いが香る。
「由威!!」
急いで頭上へと振り仰ぐ。
頭の上にある由威の整った顔の頬には、パックリと裂傷が出来ていた。そこからたらりと血が流れ出ている。
「やられちゃったなぁ。俺の顔面、国宝級なのに······。国家の損失といっても過言じゃないね」
私を抱えていない方の手で裂傷を拭い、べったりと己の血で染まった手を見下ろすや深々と溜息をつく。
相変わらず何処までも頓珍漢なことを言っている通常運転の由威に若干安心しかけるが、状況がどんどん悪化していることに思い至って下唇を噛む。
このまま逃げ回っていたところでもジリ貧なのは確実だ。
由威に謎の黒羽が生えたとて、こうも逃げ回っているということは攻める手段はないということ。
空を飛べるなら上から逃げることも出来るはずだが、此処は一階で、狭い受付フロアには鉄格子の嵌った窓しかなく、怪物の攻撃で壁に穴が空いたとて人が通れるほどの大きさでは無い。
攻めに転ずることも出来ず。
意表をついて逃げることも出来そうになく。
もしかしたら由威一人ならばやりようがあるのかもしれないが、今は足でまといの私を抱えている。
ただでさえ不利なことこの上ないのに、私を保護しているばかりに由威は更なるハンデを課されているのは一目瞭然だ。
(こうなったら、由威だけでも外に──)
元々はこの男のせいとは言え、結局ついてきてしまったのは自分の意思だ。
もしここでジ・エンドを迎えたとしたら、私こそが未練でここの都市伝説に仲間入りを果たしてしまっても可笑しくは無い。
でも、それでも二人揃って共倒れになるよりかはいいに決まってる。
もしかしたら、由威が外にさえ逃げられたら誰か応援を呼んできてくれるかもしれないし。
あの男はああ見えて友達が多いし、義理堅いところがあるからきっと私を見捨てたりはしないはずだ。
だから──。
『下ろして、由威』
その一言を告げて、場面を動かす。
そんな悲壮な覚悟を持って状況を変えるはずだったのだが、こういう時に限って肩透かしを食らうような予定外は起こる。
それはやはり唐突に起きた。
何の準備もなく、いきなりドゴォンと鈍い音が玄関扉の方から響いてくる。まるでショベルカーがショベルを突っ込ませてきたかのような轟音がしたかと思うと、次いで二枚の板が華麗に宙を舞った。
その二枚の板が私達を閉じ込めていた観音扉の成れの果てだと気づけたのは、四角く切り取られた玄関口から眩いほどの月光が差したからだ。
今日は月の光が朧気な三日月だったのに、何故か満月の夜のような明かりを背負って、一人の男が立っている。
「申し訳ない、遅れた」
聞き馴染みのいい低い声が理解不明の謝罪を紡ぐ。
歳の頃は20代半ば程だろうか。緩く波打った黒髪がこなれていて洒脱だ。
きっちりと着込まれた背広を翻して、男は腰に差した不釣り合いな日本刀に手を掛ける。
僅かに男と視線が交差した。
月光を背負っているからはっきりとは見えないはずなのに、幅の狭い流し目が様になりそうな双眸とかちあったその時──一際強く心臓が波打つ。
刹那、体の奥からマグマが吹き出すように強い衝動が走った。
次回の投稿は明日のこの時間ぐらいです