合コンに呼んではいけない人4
講義で知り合った友達からの電話は、犬も食わないカップルの喧嘩のことだった。
入学して早々に語学の授業で出会った同い年の別学部の男子と付き合うことになったその友達は一ヶ月記念日の今日、講義をほっぽってデートへと繰り出していたらしい。
デートコースは無難にも三日月島に点在する神社や海辺で、リア充爆発しろといったような充実ぶりだ。
ただ、完璧なデートコースだったにも関わらず、友達の不満が爆発している理由は、移動時間になる度に彼氏がスマホに夢中だったことだ。
電話をかけてきた友達は気が強い所があるので、少しスマホ依存症の気がある彼氏に折角のデートなのにと諌言したらしい。
だが、その言い方がキツかったことで喧嘩へと発展してしまったようだ。
結局、バスの中で売り言葉に買い言葉の応酬を繰り広げ、最後はディナーを予約していた店にも行かずに現地解散したとのこと。
そして、怒り狂った友達は寄り道もせずに女子寮へと飛ぶように帰ってきて、暇を持て余していた周囲に住んでいる友達連中に散々愚痴り倒したらしい。
しかし、二時間も延々と同じ話をする彼女に呼び出された面子も段々と飽きてきたらしく、最初の頃より相槌がかなりテキトーになっていたそうだ。
そこでまだ愚痴りたりない、慰められたりないと悶々とした彼女はとうとう外出中の私にまで電話を寄越したというわけである。
一通り話を聞いた私は、「帰ったら聞くねー」で一先ず切り上げることにした。
あの話し足りなさそうな口振りからして、追い電話があるような気配を察知する。ついでとばかりにマナーモードにして、メールアプリの通知設定もオフにすることにした。
スマホのプランを最安値で抑えている私にとってギガは金と同等である。
傷心する彼女の気持ちも分からなくはないが、まだ今月は半分もあるのだ。背に腹はかえられない。
帰ったらお金の掛からない空間でいくらでも付き合ってやろうと友情を賭けた覚悟を決める。今夜はまだまだ長くなりそうだ。
電話をするために店の軒下の隅っこにやってきた私は、すっかり天気の良くなった夜空を見上げる。
雲ひとつない夜空とまではいかず、何なら月に雲が掛かっているせいで普段よりもかなり暗いのだが、雨に濡れずに帰れそうなことが嬉しい。
今日はそもそも雨宿りをするためにオカ研へと行ったはずだった。しかし、雨宿りどころかとんでもない受難に突撃されたせいで立ち寄った本当の理由をすっかり忘れ去っていた。
小さく深呼吸をすると、まだ少し雨特有の湿った匂いがする。情緒のない人はこれを『土中にいる微生物が作った匂い』だと言って嫌悪するが、私はこのちょっとかび臭いような水の匂いが嫌いでは無い。
特に三日月島は、アスファルトで埋め尽くされた人工のジャングルとは程遠い、程々に残った自然と共生する小都市だ。鼻通りの良い透き通った島の匂いが混じっているからか、空気だけは故郷よりも此処の方が好きだった。
朧月と僅かに輝いている一等星だけを見渡してから、しっかりとジーパンのポケットにスマホを仕舞い直す。
そろそろ萩野先輩を連れて帰る準備をしようかな。
あそこまで酒を浴びていたら、いつもはしっかりとしている先輩を知っていたとしても不安がある。
自宅までの道が分からないのでテキトーな所でタクシーでも拾ってと帰宅のシチュエーションをしつつ、先輩達がいる座敷席へと戻ろうとした。
その時。
「ちょ!?マジでやめてってば!!」
「もう流石にこれ以上の我儘は聞けへんわ〜。堪忍してなぁ」
「もう!だから、押さないでって!!」
「やって押さんと乗ってくれへんねんもん」
夜の喧騒を切り裂くような、つい先程聞いたばかりの女声と、なんとも胡散臭そうな関西訛りの声が大通りの方から聞こえてくる。
決して和やかとは言い難い、取り込んでいるようなやり取りに眉を顰める。一応、確認くらいはしておくかと、音を立てないようにそろりと声がする方へと近づくことにした。
現在、私がいる正面玄関の東面には国道が通っていて、その大通りはこの辺が繁華街なこともあるためなかなかに交通量が多い。
飲食店や不動産屋などが入っている雑居ビルが掲げる看板の内照がギラギラと輝き、車のヘッドライトが朧月ゆえに深い宵闇を明々と照らし出す。
一際明るくなっている国道にはタクシーがいくつか停まっていて、店前にも一台駐車してあった。
しかし、そのタクシーへと押し付けるように乗せられているのはちょっと前まで名乗りあっていたピンク髪のギャルであるスズちゃんで。
スズちゃんの背中をぐいぐいと押し込んでいる男は、明らかにその辺にいるチンピラ風にしか見えず。
(え、もしかして──誘拐!?)
それは素人目で見ても、何らかの犯行現場としか思えない様子だった。
湿り気を帯びた夜の風に吹かれて、男の柄シャツの裾がふわりと舞う。黒地に斑模様に散った花柄のシャツは、如何にもなアングラ感を漂わせており、私の警戒心に拍車をかける。
不意に男は何か気になることでもあったのか、徐にこちらへと振り返った。
(よ、夜にグラサンとかあっやしー!!)
男が此方に顔を向けたことで、顔つきが判明する。だが、男は夜にも関わらず、サングラスを掛けているのでどんな顔をしているのかの詳細までは分からなかった。
分かったのは掛けているサングラスが、詐欺師が好んでいそうな丸型だということだ。
男の視線に捕まってはいけないと、首を伸ばしていた壁から瞬時に引っ込める。
胸の中で三秒ほど数えてから恐る恐ると再び首を伸ばすと、丁度よくタクシーが二人を乗せて発進するところだった。
(いや! ぜんっぜん、なんにも丁度よくない!!)
勢いよく発進していこうとするタクシーに慌てて駆け寄るも、無常にも二人を乗せた車は目先で僅かに混みあってきている国道へと潜り込んでしまう。
あっと手を伸ばしたところで手遅れでしかなかった。
しかし、神はまだ此方にも構うつもりがあるらしい。
すぐ後方に現れた別のタクシーを見た瞬間、私は咄嗟に手を上げていた。鞄はおろか、財布も座敷席に置きっぱなしだったことをすっかり頭の中から落っことしていた私は、目の前で掻っ攫われた友達になったばかりのギャルの安否のことでいっぱいいっぱいだった。
運のいい事にタクシーは空車だったようで、私のすぐ傍に停ると後部座席の扉を開く。
それに早速乗り込もうとしたところで、肩を叩かれた。
肩を叩かれた方へと弾かれたように振り向くと、驚いたことにそこには普段通りの無表情を湛えた月光の男がいた。
「どちらへ行かれるんです?」
何故、男が店の外にいるのか。
そもそも、タクシーに乗り込もうとしている私をこうやって止めようとしている理由とは。
刹那の間に次々と浮かんでくる疑問への答えは生憎と浮かばない。なのに、疑問だけはどんどんと膨らんでくる。
私が突然の男の出現に固まっていると、僅かに鼻腔を煙草の匂いが掠った。
この煙草の匂いは、朧げだが記憶にある。
父親の書斎に蔓延していたものだ。
確か、キャスターという銘柄だったはず。
母は煙草の匂いが苦手だったので家での喫煙はご法度だったが、一部屋だけ例外の場所があって、それが父の書斎だった。
懐かしい匂いに追い立てられるように我を取り戻した私は、こうなっては仕方が無いと男の腕を引っ張る。
「ひ、姫様?」
咄嗟に呼ばれた呼称に眉が寄ったが、訂正するのは乗ってからでいいだろう。今は時間が無い。
「急ぎなの。車の中で説明するから椿屋さんも乗ってくれる?」
真剣な私の口振りに男──椿屋さんも緊急性を感じ取ったのか、ぐいぐいと引っ張る私のなすがままになってタクシー内へと入ってくれた。
椿屋さんが乗り込むと、扉がパタリと締め切られる。
私達のやり取りをルームミラーで面白そうに伺っている壮年の運転手が操作したのだろう。ミラー越しに見える、興味深そうに丸くなっている運転手の目と合わせて、私は目的地を告げる。
「あの前を走っているタクシーを追ってください」
「·······は?」
だが、彼の面白がる雰囲気は私の注文によって胡散した。
途端にタクシーの運転手は愉しそうな面から一変して怪訝な表情になる。よもや、映画の中でしか聞かない台詞を言われるとは思わなかったのだろう。
訝しそうに問い返す運転手と問答している間にもスズちゃん達が乗ったタクシーが徐々に遠くなっていくのが気になって、私は急かすように声を尖らせる。
「早く!!」
「わ、分かりましたよ」
運転手は渋々といった様に頷くと、エンジンブレーキとサイドブレーキを上げるや、指示器を出して追っているタクシーと同じ車線へと入ってくれた。
私達がモタモタとしている間に二台ほど間に入られてしまったが、この辺はまだ信号も等間隔であるし、スズちゃんのいるタクシーの前にも車が走っているのでそこまで速度が出ていない。
色んなラッキーが重なったことで、追跡は順調に行えそうだった。
「そろそろ状況を伺ってもよろしいでしょうか?」
なんとか事は思惑通りに進みそうだとホッとしていると、時期を見計らったように椿屋さんが何が起きているのか話せと問うてくる。
タクシーで状況を話すと言った手前、本当のことを話すしかないだろう。
それに、彼には共犯者になってもらう方が色々と都合が良さそうだ。
「たぶん、多分ですよ。今、スズちゃんは誘拐されている所だと思うんです」
「ゆう、かいですか?」
不穏な単語に椿屋さんの空気がピリつく。
ぐっと眉間に皺を寄せて先を無言で促してくる彼に、私は店の壁から盗み見た光景を語って聞かせた。
一通り話し終えたところで、椿屋さんが思案げな表情で黙り込んでいる様を伺う。
顎の下に指を折り曲げて、私の話を吟味しているようだ。
彼の邪魔をしないようにそっと視線を外すと、またもやルームミラー越しに運転手と視線が合う。
「お客さん、それ警察とかに話した方がいいと思いますよ」
至極最もな運転手からの提案に、私も確かにと再考する。
「もしよろしければ、無線でタクシー会社に連絡を入れましょうか。幸いにも追っているタクシーはウチの所のですし。犯罪に巻き込まれているのでしたら、此方でも対処した方が無難かと思います」
「はぁ、そんなことも可能なんですね」
「勿論です。最近は何かと物騒ですからね。その辺は個人タクシーよりもよっぽどしっかりしています」
若干、タクシー業界の苦労も見え隠れしているが、運転手の申し出が有難いことには変わりない。
私としても、逃がしてたまるかと勢いのままにタクシーに乗り込んでしまったが、果たして追いついたところで何か出来ることはあるだろうかという問題が浮上してきていた。
一息ついたことで、頭が冷えたからこそ出てきた悩みだ。
もしかしたら、椿屋さんならばあの不審者を追っ払うことは出来るかもしれない。
あの廃病院で出会った時、彼は何故か日本刀を腰に携えていた。
立派な銃刀法違反だと思うけれど、あの常識が通じない異様な場面に颯爽と現れた彼ならば、この緊急事態をどうにかする手立てくらいならば持っているかもしれない。
「警察への連絡は機を見てからにしましょう。先ずは錫子様を攫ったかもしれない男を見なければ」
黙りこくっていた椿屋さんが出した答えは様子見だった。
警察やタクシー会社への連絡を保留にすると言外に告げる彼の真意が分からず、つい険しい顔をしてしまう。
しかし、こういう緊急事態に慣れているのは間違いなく私よりも椿屋さんに違いはないので、大人しく彼の方針に従うことにした。
何を考えているのか相変わらず伺い知れない椿屋さんを気にしているのも時間の無駄なように感じて、フロントガラスの向こう側から少しだけ見える二人を乗せたタクシーのルーフを見据える。
(流石にタクシーの中で何かされたりってことは無いはず。乗っている間は運転手さんの目を気にしてあの男も迂闊なことは出来ないはずだよね)
無事であって欲しいと祈るように膝の上に両手を組み、額につける。今日は本当に色んなことがいっぺんに起こりすぎだ。
「ところで、此方の手の傷は如何なさいました?」
これ以上の椿屋さんとのやり取りは無いだろうと密かに確信していたのだが、私の期待通りとはいかないらしい。
それも何故か今日の全ての始まりともいえる例の傷の話を振ってきた。
椿屋さんが気にしているのは、手首の腹に貼られた絆創膏のことだろう。今日は良いお天気だったので上着を持ってこなかったこともあり、絆創膏を貼った手首を隠すことが出来なかったのだ。
勿論、馬鹿正直にあの家に関わりが深そうな黒ジャージ男に傷つけられたとは間違っても言えない。
特に、糸乃家の中心にいそうな椿屋さんは尚更だ。
「ちょっと転んだ時に受身が取れなくて掠っちゃったんです。大学生にもなって恥ずかしいですよね」
無難に傷の原因を自損事故にすることにした。
代償として、大学生になっても元気よく転ぶ腕白娘という印象を抱かせる羽目になったが、まだこちらの方が傷は浅い。
これ以上はあんまり興味を持って欲しくないという気持ちを隠すように愛想笑いを貼り付ける。笑顔で押せ押せ作戦だ。
しかし、有耶無耶にしたがっている私の思いは椿屋さんには全く届かなかったらしい。
彼は「失礼します」と急に断りを入れてきたかと思うと、信じられないことに私の手首を取ってくるや、じっと絆創膏の貼られた腕の腹を見てくる。
彼の眼差しは興味深そうな熱視線というよりかは、遺体を検分する法医解剖医のような探る色を乗せていた。
そこまでして何をそんなに気にすることがあるのかが理解できず、腕を取られている方は妙な緊張を強いられる。
しかし、椿屋さんは見るだけに飽き足らず、唐突に絆創膏の上を親指の腹で撫でてきた。
するりと傷の上を摩られた私は、あまりの不思議な事態に見舞われて一瞬だけ頭の中が真っ白になる。
(な、なんで私、椿屋さんにこんなことされてんの!?)
相手の意図を汲み取ろうとするも、椿屋さんの顔は相変わらずの無表情だ。
僅かに伏せられている切れ長の双眸を縁取る睫毛の長さに見惚れてしまうくらいの感想しか出てこない。我ながらミーハー過ぎるのも考えものだ。
頬がとんでもない熱さを帯びているので、間違いなく首から耳まで真っ赤に染まっていることだろう。
こんな場面を由威なんかに見られた日には「やっぱりひまちゃんも顔とスペックと実家の太さが揃った男が好きなんだー!!」と嘆かれることだろう。いや、嘆くというよりかは逆ギレだ。
奴の裏切られたような顔を思い出したことで我に返る。
慌てて私の腕を掴んでいる椿屋さんの手に手を被せて引き剥がし、これ以上は触られないように胸元に引き寄せる。
「あ、あの!そんなすっごい気にしてもらうような怪我じゃないんです!もうほぼ塞ぎかけというか、明日には絆創膏も取れそうなぐらいのかすり傷っていうか!!」
「消毒はされましたか?」
「勿論ですよ!萩野先輩が狂犬病になったらいけないからってめちゃくちゃオキシドールをぶっかけてきました」
「······狂犬病?」
「違います。破傷風でした」
危ない。あまりに取り乱しすぎて言わなくてもいいことを言ってしまった。
確かによくよく考えたら、人に舐められたのに狂犬病の心配をされたのも不思議な話である。
でも、確かに萩野先輩はこう言ってたはず。
『しっかり消毒してキレイキレイしなきゃ!狂犬病になったら大変だもんね』と。
多分、萩野先輩なりのブラックジョークかな。
そういうおふざけを言うような人柄ではないと冷静なもう一人の私が首を傾げているが、多分黒ジャージに翻弄されてテンパっている私を落ち着かせようと、敢えて慣れないユーモアを披露してくれたのだろう。
椿屋先輩は私の土壇場で出てきた誤魔化しで納得してくれたらしく、それ以上は言い募ってはこなかった。
だが、何かもの言いたげな目でまだこちらを見ている。
私としてはこれ以上掘り返されたくはないので、話題の転換は早急に必要だ。
何か他に椿屋さんの興味を惹ける話題はないかと脳を絞り切った所で、なんとか絞りカスを得る。
「あの、椿屋さん。ずっと気になってたことがあるんですけど、椿屋さんって私よりも年上ですよね?」
「えぇ。由威と貴方が同い年のようですので、僕の方が上なのは間違いないですね」
「ちなみにお年って?」
「今年の12月に21になります」
真面目くさった顔で披露された年齢は、私よりも二つ上のものだ。完璧なスーツの着こなしに20半ばぐらいだと思い込んでいた私は舌を縮こませる。
下手に此方から予想していた年齢を言わなくて助かった。流石に20代になってばかりの人に20代半ばに見えると告げるのは、デリカシーが無さすぎる。
「もしかして、椿屋さんも大学生だったりします?」
そして、もう一個の大勘違いをしていそうな社会人疑惑を確かめるために恐る恐ると尋ねてみる。
「・・・・・・そうですね。お二人と同じです。学部は医学部ですが」
「あ、あ〜確かお家が医療法人を営んでらっしゃるんでしたっけ」
案の定だった。
今年21歳で、三日月大学の医学部生らしい椿屋さんはかなり意外なことに私と近い所にいらっしゃったらしい。
文学部と医学部の偏差値は天と地ほどの差があるので一緒にするなと言われそうだが、元より同じ大学生ですらないと思っていた私にとってはかなり衝撃的な事実のオンパレードだ。
「ってことは、私の先輩ってことになりますよね。だったら敬語はいたたまれませんので外していただいて結構ですよ」
「いえ、流石に姫様に気安い口を叩くわけには──
」
「その!姫様っていうのもやめてください。なんでそう呼ばれているのかは分かりませんけど不相応だと思います。呼ばれることに納得していませんのでやめてください」
椿屋さんに対して悶々と思っていたことを折角の機会なのでしっかりお伝えする。
私は小心者なので年上から敬われるように敬語を使われたりすることにあまり慣れていない。また、プリンセス願望も小学校低学年の時に卒業したので『姫様』と連呼されると背中がムズムズしてしょうがないのだ。
しかし、出会ってからこれまでの椿屋さん態度を見る限りに感じ取れた頑固さはここでも遺憾無く発揮される。
私の言いたいことは分かっていそうだが、それを是とはしにくいようで困ったような顔をしている。
若干首が傾いているので、この分だと「ちょっと何言ってるのか分かりません」とか言い出しそうな雰囲気さえある。こういう有耶無耶にすることに慣れていそうな所が余計に学生らしくないんだよね。
私としてもこれは絶好の好機なので、なんとしてでもここで椿屋さんには私に対する態度を改めて貰いたい。
よって、攻めの手は緩められない。
「私の名前、分かりますよね?」
「勿論です。沙倉 陽葵さんと以前に名乗ってもらっていますので」
「じゃあ、名前で呼んでください。私はそっちの方が嬉しいです」
たった私の呼び方を変えるだけなのに椿屋さんは苦虫を何匹も噛み潰したような重々しい顔になって、渋々のように「承知しました」と頷く。
ついでにとばかりに、脊髄反射で「敬語もですよ」と釘を刺す。一拍してから、いやに重々しい「分かった」が返ってきた。
命を賭けた契約書にサインしろと言われた時にする返事と同じ重みがありそうだ。
なんとか此方の要望を椿屋さんに飲んでもらったが、私としてはここまで頭を使って得た成果があまりにもしょぼ過ぎて釈然としない。
彼が此処まで私に対して慇懃な態度を取り続ける理由は、きっと糸乃邸で聞かれた不思議な質問に関わっているのだろう。
母親のこと、父親のこと。
それは全て、私の血筋に纏わることで。
ただ、私は彼等から問われてしまうと何も答えることは出来ない。
「お客さんも大変ですねぇ」
疲れたというように目を伏せると、このタイミングで運転手が話に掛けてきた。
私達の異様な会話を聞いて割って入ってくるとはなかなか肝が座っている。普通の感性をしていたら、間違いなく関わりたくない類の客だろう。
「いや、本当にですよ」
ちょっとザワついた気分を変えたくて、運転手を相手にする。
私達が騒いでいる間もずっとスズちゃん達が乗っているタクシーを追いかけてくれているのだが、まだ停車しそうな気配は無い。
繁華街は既に抜けており、車窓から見える景色は地元企業が構えているオフィスビルが目立つようになっていた。
地場の信用金庫やビジネスホテルも疎らに聳え立っている。タクシーを追っているうちに、三日月島に点在する数少ないオフィス区画へと入ったらしい。
すっかり変わった辺りの様子にも目を向けていたところで、運転手は気遣わしげに言い連ねる。
「最近のホストっていうのはここまでするんですね。まるで本当にお姫様と従者みたいで、お客さんのプロ魂には感嘆しますよ」
·····ん?
あまりにも自分には縁のないことを投下されたせいで、運転手の発言を咀嚼するのに時間がかかった。
「いや! 私達そういう関係じゃないですよ!!」
十分に時間をかけた瞬間、とんでもない誤解をされていることに恥も外聞もなく声を張る。ここが車内じゃなかったら、雛壇に座っているリアクション芸人のようにその場から立ち上がっていた。
しかし、私の熱烈な否定が響いていない運転手は意外だというように器用に片眉を上げる。
「おや、そうなんです?姫様ってホストがするお客さんの呼び方のことじゃないんですか? 私はてっきりお客さんがその辺の客と十把一絡げに姫って呼ばないでと言ってて、やっと名前で呼んでもらえることになったんだなと感動までしてましたよ」
運転手の中で勝手にホストと姫による感動的なラブストーリーが出来上がっていたらしい。想像力が逞しすぎる。
まさかの『姫』違いだが、確かに椿屋さんはその辺のリクルートスーツではなく、仕立てられたという言葉が似合いそうなスーツを着ているのでホストに間違われても仕方ないような気もしてくる。
しかし、このまま否定し続けて「じゃあ何の姫なんですか?」と聞かれてしまったら、それもそれで非常に答えにくい。
正直、私も何故に『姫様』と呼ばれているのかを分かってはいないのだが、だからといって椿屋さんに答えられたら新しい悩みが増える予感がする。
結果、私が運転手に返せた言葉といえば、「色々あるんですよ」という女子大生にあるまじき哀愁に満ちた玉虫色の発言だった。
次回の更新は明日の21時ぐらいを予定しております。
校正が間に合えば、しれっと本日の夜に更新してるかもです。