学生時代
部活の時間は地獄だった。
最初はただの練習だったはずなのに、だんだんとエスカレートしていき、骨が軋みそうになるほど、強く殴打されているのだ。まるで拷問でも受けているかのような状況にまで発展していた。身体の弱い者なら、骨が折れてしまっているかもしれない。
当時15歳だった加藤は吐きそうになりながら、必死でそれに耐えていた。
この空手部には、工業高校入学と同時に、半ば強制的に入部させられてしまったのだ。
初日は本当に最悪で、「入部祝い」と称されて、山奥に連れていかれると、リンチのように、殴る蹴るを繰り返されていたのだ。新入生達全員が手当たり次第に投げ飛ばされて、泥まみれになっていた。この時点で、とんでもないところに来てしまったという感想しかなかった。
さっさと退部することも考えたが、例え部活を辞めたとしても、上級生たちは、親兄弟関係なく家にまで押し掛けてくるというのだから、逃げだすことも出来ない。
ある時など、自分から女子生徒に暴力を振るっておいて、教師から注意を受けるなどの大事になると、「あの女、よくも俺達のことを告げ口しやがったな!」などと逆恨みして、関係者全員に土下座を強要していたことさえあったのだ。逆らったら、どんなことをされるのか分かったものではない。
懸垂を強要されて、鉄棒にぶら下がったままの同級生がそのままになってしまっていたので、加藤は指でほどいてあげていた。鉄棒にぶら下がり続けたせいで、完全に指が動かなくなってしまったらしい。人間は限界を迎えると、このように硬直してしまうのだと、初めて知った。
「……ああ、今日も生きていられた」
夕焼けを見ていると、そんなことを呟いていた。
上級生達のしごきは激化しており、明日には耐え切れずに死んでしまうのかもしれない。
もっとも、身体が強くなったおかげで、この頃には、今まで虐待してきた兄も報復を恐れてか、加藤のことを避けるようになっていた。子供の頃から、いつか同じ苦しみを味合わせたいと思っていたので、リベンジには成功していたのだ。
加藤とは違い、優等生だった兄は、母親から可愛がられていたのだが、それに対する反発心もあったのだと思う。兄とは真逆のヤンキーファッションに身を包み、西城秀樹に憧れて、伸ばした髪の毛を金髪に染めていた。そんな荒れている自分のことが好きだったというのもある。
身体が強くなり、暴力を振るえば、周りから恐れられるようになる。
時に、何もしていないはずの父親にまで、暴力を振るうことがあり、ボールペンで背中を刺してしまったこともあった。
加藤が子供の頃から、暴力を受け止めてきた父だが、身体が大きくなった我が子には、さすがに身の危険を感じるようになり、耐え切れなくなると、「好洋が暴れているから助けてくれ!」と、親戚に電話をするようにまでなっていた。
そして、そのSOSを受けた叔父が止めるために、わざわざ遠方からやってくる。柔道黒帯のこの叔父だけが、暴れ出す加藤のことを止めることができるのだ。
この叔父にだけは、どうしても力では敵わず、投げ飛ばされてしまったのだが、叔父に抱いたのは、恐怖よりも、力に対する憧れだった。
本当は自分でも、柔道を習いたかったのだが、叔父からは「好洋に格闘家なんか教えたら悪事に使ってしまう!」と、無理やり引き留められる程だった。
高校二年生に進学する頃には、下級生には、スズメバチを捕獲するように強要したりと、やりたい放題だった。同級生の首を絞めてしまい、教師から軽トラックで追いかけ回されたこともある。
加藤は一度スイッチが入ると、手が付けられない程、凶暴化するために、時々、やりすぎてしまうことは多々あったが、仲間たちとは、概ね楽しく暮らしていたのだ。
そんな日々を過ごしていると、面談の時に、五十手前の教師がこんなことを話してきたことがある。
「……加藤、お前は本当のワルにはなれないんだよ」
何故だか、しみじみとした様子で、そんなことを話してきたのだ。
当時の加藤からすれば、自分の父親とそんなに変わらない年齢である教師がそんなことを話していても、うざいだけだとしか思わなかった。
*
夜七時頃、加藤の家を訪ねて来るものがいた。近くでは原付のバイクが喧しい音を立てていた。
ドアを開けると、クラスメイトの男子がニヤニヤしながら待っていた。
「なあ、よっちゃん、こっちにすげえものがあるから、見に行こうぜ」
彼はクラスメイトなのだが、どちらかといえば、トラブルメーカータイプだったのもあり、関わるとろくなことが無いと、嫌な予感がしたのだ。
「……ああ、わかった、用意するから待ってて」
あまり乗り気では無かったが、友達付き合いもあったし、ノリが悪い奴だと噂にされるのも嫌だったから、仕方なく付いていくことにしたのだ。
町外れにある、夜の工場地帯は不気味で、さながら心霊スポットのような雰囲気を醸し出している。廃墟と化した工場一帯が不良連中の溜まり場になっているようだった。
その道端には、盗まれてきたであろう自転車が放置されており、ポルノ雑誌や、VHSテープなどのガラクタで埋め尽くされていた。
金属製のドアを開いて、無人のはずの建物の中に入った瞬間、汗と垢が混じったような、ひどい匂いがした。乾いた尿や便の臭いも漂っている、そのままそこで排泄しているようだった。天井に吊るされた、豆電球だけが光源になっているようだったが、酷い光景が映し出されていた。
「何だよ、これ……」
「へへ、すげえだろ?」
絶句する加藤に、友人はニヤニヤと笑っていた。
紐やベルトに繋がれた全裸の女性が、金属の棚に磔にされていたのだ。驚かないわけが無い。
その女性はクスリで意識が朦朧としているようだった。周囲の状況から察するに、無理矢理強要されたと言うよりも、自ら望んで自分にクスリを投与したのだろう。酩酊してしまっており、焦点の合わない目がこちらを見つめてくる。
その女性を取り囲んで、ズボンと下着を膝元までずらして、ついさっきまで、行為に及んでいたようだった。薬物を摂取した状態だと、性行為の快楽が倍増すると言われているが、それを本当に実行してしまうところに異常性を感じざるを得なかった。
床の上には、ビール缶やら、ポテトチップスの袋、タバコの吸い殻やらが散乱しており、ゴミ溜めのようになっていた。勤め先である建設現場から勝手に持ち帰ってきたのか、シンナーの缶が置かれており、それを使ってラリってしまっているようだった。もしかしたら、別の違法薬物も同時に使用しているのかもしれない。
「……おい、よせよ、お前までこんなのに加わろうとするなんて」
「いいじゃねぇかよ、やっちまおうぜ」
友人はそれを見ても、嫌がるどころか、寧ろ喜んでいるようだった。
無数の男達が一人の女を取り囲んで、代わる代わる性行為を繰り返しているようだった。こんなことをしていたら、妊娠のリスクだってあるだろうに、それを一切考慮することもなく、本能に任せて肉体をぶつけ合っているのだ。盛り合う二匹の獣が雄叫びを上げてよがり狂っているようだった。衛生環境も最悪なこの場所で、よく興奮できるものだった。その光景に、加藤は気分を害してしまい、背を向けていた。
「おいおい、もったいねえよなぁ、お前もやればいいのに」
友人は呆れた様子でつぶやいていた、彼自身はこの場に加わることを望んでいるらしく、自らズボンのベルトをカチャカチャやっていた。
「……俺は嫌だ」
出来るだけ相手を刺激しないように、やんわりと拒絶していた。そうでもしないとこのまま『闇の世界』に引き込まれてしまうと思ったからだった。
幸い、友人達は目の前の性行為に気を取られているから、加藤のことなどは気にも留めていないようだった。足音も立てずにその場を立ち去ることにした。
……お前は本当のワルにはなれないんだよ。
頭の中に、教師の声が甦る。
この出来事が、『闇』とは、気持ちの悪いものだという認識をするきっかけになっていた。
『観る』ことはあっても、『交わる』ことは無かった。
今思えば、これがポイントだったのだろう。
もし、この場に引きずり込まれていたら、加藤は『指導者』には、なれなかったはずなのだから。
*
1970年代、日本は空前のオカルトブームに沸いていた。『ノストラダムスの大予言』がヒットし、テレビにはUFO、超能力者、UMAがひっきりなしに登場しており、子供たちはツチノコ探しやコックリさんに夢中になっていた。
当時は、漫画家、つのだじろう、梅図かずお、オカルト系コミックブームから、コックリさんをはじめとした怪談系作品が流行していたのだ。
加藤自身も小学生の頃は、スプーン曲げの真似事をしている同級生をよく見かけていたし、『デビルマン』や、『バビル二世』などの漫画作品から、超能力者というものへの憧れがあった。
また、この頃の日本には、海外からヒッピー文化やニューエイジ思想なども移入されていたのだ。この時代には、多くの人間がスピリチュアルブームにハマっていくのだった。戦後からの高度経済成長期によってカネや女、権威などの物理的な繁栄が推奨される一方で、精神世界への誘いが同時期に起こるという、アンバランスな時代だった。
高校生の加藤達もオカルト雑誌を読み漁っていたのだが、放課後の教室で一人の男子生徒が手を上げていた。
「なあ、俺達もコックリさんってやつをやってみようぜ」
コックリさんとは、「狐」、「狗」、「狸」の文字を当て『狐狗狸』と書くようになったという。また、「コークリさん」「お狐さん」とも呼ばれているらしい。海外では「ウィジャボード」とも呼ばれる、降霊術の一種だ。
彼はノートを切り取ると、シャーペンで「はい」、「いいえ」、「0〜9の数字」、「五十音表」を書き記した文字盤を用意していた。その用紙の一番上には、神社の鳥居が四本の線で描かれていた。
一つの机に、皆で取り囲むように座っていた。そして、言いだしっぺが10円玉を取り出すと、その場の全員が人差し指をそれに置いていた。しばらくすると、鳥居の部分に、10円玉が自然と移動していた。
「コックリさん、コックリさん、おいででしょうか?」
全員でタイミングを合わせるように質問してみると、再び10円玉が移動し始めた。
[はい]
この時、この場にいた誰もが、誰かのイタズラだと思っていたに違いない。みんな半笑いでそれを見ていた。加藤自身も、この中の誰かが勝手に10円玉を動かして、さもコックリさんが降臨したように演出しているのだろうと、気にも留めていなかった。
「へー、マジかよ、じゃあ、俺の好きな子を当ててみて!」
その問い掛けに、10円玉が激しく動き始める。
[あ・い・ざ・わ・み・ど・り]
「相沢って、お前、あいつのこと好きなのかよ!」
みんな、囃し立てるように笑っていたのだが、当の本人だけは、凍り付いたような表情を浮かべていた。それが、とても、ドッキリで演技しているような感じでは無いことに、普段から接していた加藤だけが、すぐに気が付いた。
「じゃあさ、相沢に脈があるか聞いてみようよ。コックリさん、コックリさん、こいつに脈はありそうですか?」
質問をしてみると、10円玉が動き出して、[いいえ]を選んでいた。
それを見て、場がますます盛り上がる。
「もしかして、アイツって彼氏でもいるのかもな、ちょっとそれも聞いてみようかな。コックリさん、コックリさん、どうしてコイツは選ばれなかったんですか?」
[ち・か・よ・る・な]
「えっ、『近寄るな』ってなんだ?」
回答の意図が分からず、顔を見合わせていた。
「……コックリさん、コックリさん、なぜ、彼女に近寄っては行けないんですか?」
[の・ろ・つ・て・や・る]
10円玉が指し示した、その回答に愕然となっていた。
「『呪ってやる』って、なんだよそれ……意味わかんねえよ…………」
だんだんと雲行きが怪しくなっていた。さっきまで、大人しく質問に答えていたのに、突然、こちらに敵意を向けてきたのだ。困惑するに決まっている。
[わ・た・し・は・4・お・く・4・ひ・や・く・ま・ん・4じ・ゆ・う・4・ま・ん・ね・ん・さ・い・だ]
「はあ? 4億4百4十万歳? いや、嘘だろ……」
10円玉がせわしなく動いて、聞いてもいないことを打ち明けてくる。一体何が言いたいのだろう。意味不明だからこそ、得体の知れない恐怖を感じていた。これが普通の状況だったら、誰かがイタズラをしていると考えるだろう、しかし、この異様な雰囲気に呑まれてしまったのだ。
「……もういったん、やめにしようぜ。コックリさん、コックリさん、お帰りください」
仲間は不気味に感じたらしく、何とかして、お帰り願おうとしたのだが、10円玉はすかさず、[いいえ]を選択していた。だんだんと10円玉が移動する速度と力が増している気がする。紙との摩擦で熱を帯びる程だった。
「……まずいな、コックリさん、コックリさん、お帰りください」
[か・え・ら・な・い]
コックリさんは居座ることを決めたようだった。
また、すかさず、10円玉が動き出し、[いいえ]をハッキリと示していた。
あまりの恐怖に、指を離して逃げ出したくなるが、それをしてしまうと、どんな呪いが発動するのか分からない。不安げにお互いの顔を見回していた。
突然、教室の扉が開いて、飛び上がりそうになっていた。
「よう、久しぶりだな、この教室」
そこにいたのは、背の高い坊主頭の青年で、年齢は二十歳前後、この学校の卒業生だった。
このOBのことは加藤も何度か見かけたことがあった。卒業後も時々、母校を訪れては、下級生達のことを見に来ているらしい。最悪のタイミングだったのだが、同時に救いでもあったのだ。第三者の介入によって、コックリさんがリセットされたら良いのにと願っていた。
「おい、何やってんだ、おまえら?」
自分に対して、敬意を払わないOBが不機嫌そうな表情を浮かべていたのだが、誰も気に留めていなかった。突然、10円玉が浮かび上がって、空中を浮遊していたからだった。その場にいた誰もが唖然とした表情でそれを眺めていた。
10円玉はふらふらと空を舞いながら、教卓の上に落ちていったのだが、それでも、OBは気が付いていないらしく、そのまま教室の外へと歩き出してしまった。銅製のコインは太陽光を反射していたはずなのに、そんなことがあるわけがない。普通なら大騒ぎしていてもおかしくないのだ。
「何で、あの先輩には、10円玉が浮かぶのが見えてないんだ?」
仲間の一人が吠えていた。
加藤達は10円玉を再び、文字盤の上にセットしていた。コックリさんの降臨中に、中断してしまうと呪われてしまうと言われていたからだ。他の者達も、同じことを思い出したのか、慌てて10円玉に人差し指を押さえつけていた。
[と・な・り・の・へ・や・に・い・け]
再び、10円玉はひとりでに動き始めていた。もはや、コックリさんが降臨したことを、誰も疑っていない。
「『隣の部屋に行け』だって? でも、あそこって、空いてねえだろ」
「……行くしかなさそうだな」
その部屋は、普段は鍵が閉められて封鎖されている。みんなから『開かずの間』と呼ばれていた場所だったのだ。それがまるで観音開きのように、開きだしたのだ。自動ドアのような動作で、まるでコックリさんから手招きされているかのようだった。その場にいた誰もが、恐慌状態に陥っていた。
「何で開かずの間が開いているんだよ……!」
その部屋は誰も手入れしていないから、物置のようになってしまっていた。あちこちが埃塗れになっており、黒い制服が、灰色になってしまう。虫の死骸まみれの床に文字盤を置いて、10円玉をセットすると、やはり動き出した。
[い・な・り・じ・ん・じ・や・に・い・け]
「……今度は『稲荷神社に行け』かよ」
コックリさんのメッセージ通り、ここからさほど遠くない場所に、稲荷神社はあるのだ。この部屋の窓からでも、赤い鳥居が確認出来る。しかし、すでに陽は傾いており、周囲は薄暗くなっている。
「夜の稲荷神社とか、コックリさんにとっては、自分の島みたいなもんだろ? そんなところに俺は行きたくねえぞ」
「でも、行かなかったら行かなかったで、もっと恐ろしい呪いが待っているかもしれないぞ」
結局、夜の稲荷神社に足を運ぶ勇気は無かった。加藤達は人がいるギリギリの時間まで、商店街でたむろしていた。夜は怖くて一人で居られないから、誰かが、誰かの家に行って、寝泊まりすることにしていたのだ。
翌日、公園でコックリさんを実行していたメンバーが集まると、みんな寝不足から、青い顔をしていた。目の下には隈が出来てしまっている。
「……なあ、このままだと、やれ、『人を殺せ』だとか、『ビルから飛び降りろ』とか、とんでもないことを言い出すんじゃないのか?」
あり得ない話ではないだけに、みんなが静まりかえっていた。
しかも、いつもどこかに、あるはずの無い視線を感じていたのだ。
「…………」
コックリさんへの恐怖心から、その中の一人は、完全におかしくなってしまい、ベンチに腰掛けると、呂律も回らない状態で、支離滅裂な言動を繰り返していたのだ。このままだと、病院送りにでもなって、まともに生活するのは不可能になるだろう。
一体、どうすればいいのか分からない。すっかり途方に暮れてしまっていたのだが、思わぬところから救いの手が現れたのだ。
「……あの喫茶店のマスターなら何とか出来るかもしれないだろ」
仲間の一人がボソッと呟いた。
加藤の仲間達の間で、行き着きの喫茶店があるのだが、そこのマスターが霊能力を持っており、悪霊を祓うことが出来るかもしれないと話しているのだという。さすがに怪しいとは思ったのだが、他に頼れる人もいないので、藁にも縋る思いでお祓いを受けることにした。
友人達と向かったのは、駅前にある、小さな喫茶店だった。普段は、営業のサラリーマン達が一息つくのに使っているのだろう。
加藤達は、おかしくなって、フラフラになっている仲間を介助しながら入店することになった。ドアを開くとベルが鳴る。カウンター奥にいたのは、50前後のアロハシャツを着た男性だった。憑依された友人を見るなり、そのマスターは怪訝な顔をしていた。
「おいおい、ずいぶんと酷い有様だな、お前ら何をやらかしたんだよ?」
マスターの問い掛けに、加藤達は俯きながら答えていた。
「……学校でコックリさんをやっていたんですけど、突然おかしくなってしまったんです」
「馬鹿だよなぁ、ほら、治してやるから、こっちにこいよ」
そういうとマスターは、憑依された彼のことをソファに座らせていた。顔の前で手をかざすと目を瞑り、何かを強く念じているようだった。
意識が朦朧としていた彼は、しばらくすると、青白かった肌に赤みが差していた、どうやら、こちらの世界に戻って来れたらしい。
不思議なことに、その身体からは、腐ったゆで卵のような異臭がしてきたのだ。
「うわ、くっせえなぁ、これ。除霊すると毎回、硫黄みたいな臭いがするんだよ。なんでだろうな?」
マスター自身も理屈はよく分かっていないらしく、窓を開いて換気すると、迷惑そうに手を振っていた。
加藤にとっても、目に見えないはずのそれを祓うことで、物理的に臭気がする、というのは不可思議な現象であるように思えた。
後から聞いたのだが、マスターは、とある宗教団体に所属していたらしく、簡単な除霊なら行うことが出来たのだという。この時の出会いは、今後の活動に繋がってくるのだが、この時の加藤には知る由も無かった。
*
このように、少年時代を振り返ってみると、この頃の出来事は、後の活動に大きな影響を与えていることが多かった。
加藤は、大人になった、ある時期から、『闇』に関する情報収集を行うようになっていたのだ。
中世ヨーロッパの拷問方法から始まり、軍隊で行われていた人体実験、心理学を用いた尋問方法、人里離れた村で行われていた因習的な人肉嗜好や、近親相姦から生まれた奇形児など、人間の持つ『闇』を掘り下げていくことになる。
これらは、アングラ系の雑誌や、実話を元にした映画を参考に片っ端から集めていたのだ。元々、本人に残虐性・猟奇趣味があったのもあり、興奮に滾りながらそれらアングラ系の書籍を読破していった。その中で一番興味深かったのは、連続殺人犯による、異常な事件の数々だった。
加藤は事件そのものよりも、そこに至るまでの経歴や、心理状態の方に注目していた。そういった殺人者に共通するのは、幼少期に虐待を受けていたことだったのだ。
そして、幼いころから残虐性の片鱗を見せており、殺害する対象も、虫→魚→鳥→犬猫→猿→人間へとエスカレートしていくのが共通点であり、ある種のお決まりコースであるのだが、加藤自身も、途中までは同じような道を歩んでいたことになる。
そこには、かつての自分と重なるものがあったのだが、一つだけ異なる点があるとすれば、親や教師などの存在がブレーキとなっていたのだろう。自分の性質なら、ついやりすぎてしまうがために、どこかで道を踏み外してしまっていたはずだ。そういう意味では、環境が守ってくれていたことになるのだった。
親兄弟、教師、同級生、上級生達の理不尽さなども、「人間を知る」ということにも繋がってくる。そして、その先にあるのが、悪魔であり、神だったのだ。加藤自らも闇の中にどっぷりと浸かることによって、悪事を体験しながら、それを乗り越えていくことになっていくことになったのだ。
加藤の上級生達は、還暦を迎えた今もなお、「若いもんには舐められねえんだ」とばかりに、身体を鍛えて喧嘩を繰り返しているようだった。
学生時代と何も変わらず、同じことをしているらしい。彼らにとっては喧嘩の強さ、腕っぷし自慢だけがアイデンティティーなのだろう。完全に心の成長を止めてしまっていたのだ。暴力団に入団してしまった挙句、敵対組織に銃弾を撃ちこまれて殺されてしまった者までいる。もし、叔父が柔道を引き留めなかった場合、そちら側に引きずり込まれてしまったかもしれない。
加藤は、SNSでは同級生のことは認知していたのだが、ある時を境に、画面から全く表示されなくなってしまっていた。なぜこのようなことが起きたのか推測してみたのだが、暴力的な人間は、自分の世界から排除されてしまったのだろう。つまりは完全に縁が切れてしまっていたのだ。
ある時、加藤の親戚の叔母が、夫、子供達を病気で失って大泣きしていたことがある。
葬式の時に聞いたのだが、夫側が稲荷神社で狐の力を借りることで、事業に成功したのだが、せっかく繁栄させてくれたのに、感謝もせずに、蔑ろにしてしまったことから、裏切ったとして、始末されることになったのだろう。
子供達には何の非も無いはずなのだが、父親が狐を粗末に扱ってしまったために、会社が倒産、病気で衰弱していくなど、次から次へと不幸に見舞われていき、無残な最期を遂げたのだという。最終的には、旦那側の血を受けついでいない叔母だけが助かる結果になってしまったのだ。
そう、精霊には『感情』というものが存在しない。だからこそ、面白半分に目に見えない力・存在に触れようとするのは、実はとても危険なことなのだ。
この頃の出来事を振り返ってみると、やはり、自分には「伝える」という役割があったからこそ、このような経験をしてきたのだろう。
決してきれいごとだけでは、語ることが出来ない、この悪魔の世界を生き抜くための、秘訣を伝えるため。この世とあの世を繋ぐ、本当の仕組み。つまりは『真理』というものを追い求めていた加藤にとって、幼少期の経験は必要不可欠なことだったのだ……。