第161話 世界で一番愛してる
母親にとって子供は、己の命よりも大切なかけがえのない宝だ。初めて産声を上げた子供の声は、今でも鮮明に記憶に刻まれている。
人類を導く神として生誕したユーリ・クロイスに対して、希望と確かな愛情を持ってセリナは育ててきた。
他の追随を許さぬ優れた身体能力と魔力を持ち得ながら、その精神性はとても気弱で繊細だった。
自己評価が低く、他人の心配ばかりしているような子で、セリナの出世街道を妬む名家の視線を常に気にしていた。
未だに色濃く残る、貴族優遇社会に嫌気が差したのが、ユーリを神として産み出した最大の理由。
何かを変えたくて、自分ではどうすることもできなくて、ヨーハンと同じく夢ばかり追いかけて――今思えば、何て自分勝手な理由で責任を押し付けようとしていたか痛感する。
けれど、当時のセリナも若く、自分の愚かさに気付いていなかった。息子が死にかけてようやく間違いに気付くなんて笑えない冗談だ。
夫を犠牲に総司令の地位に成り上がったセリナは、決して贖うことのできない罪禍を背負った。
ユーリは、母の目から見ても素直で、良い子で、純粋で、自慢の息子だった。
ミアリーゼ・レーベンフォルンと出会ってからは、あまり後ろ向きなことも言わなくなり、セリナは決して力を使ってはいけない、努力なんてしなくていいと言い聞かせたおかげか、無意識に加減を覚えるようになった。
制限解除の影響で記憶に障害が残ってしまい、ヨーハンのことを殆ど覚えていないのは悲しかったが、ユーリが普通の人間として生きていくには覚えていない方が都合がいい。
けれど、良かれと思ってしてきた事が悉く裏目に出るのは、彼女の運命だろうか?
ユーリの気持ちを何一つ慮らず、一方的に傲慢な考えを押し付けていたと自覚したのは、何の相談もなく息子が勝手に進路を変えて家を飛び出してからだった。
しかも正規の士官学校へ通う過程をすっ飛ばしていきなり最前線、戦場のど真ん中に配属ときた。
一体どんな伝手を頼ってそんな場所に行き着いたのか知らないが、セリナは持てる全ての権利を行使して連れ戻そうとした。最悪クロイス家がなくなってもいいと、手の内全てを晒して何とか西部戦線トリオン基地に辿り着いたが、そこには痛々しい包帯姿でありながら、確かな覚悟を持った息子の姿があり――。
◇
「私の罪は、ユーちゃんに自分の理想を押し付けていたこと。部下が殺されたのも、この状況を生んだのも、全部私の責任……。だから、泣かないでいいのよ、ユーちゃん」
べっとりと血の付いた手で、愛おしげに息子の頬を撫でるセリナ・クロイス。胸部を鎖で刺し貫かれ、致命傷を受けた彼女の命は風前の灯だった。
母の想いがユーリの中に伝わり、虚空を映し出していた瞳に生気が灯り出す。
「母、さん……」
その鎖を手に、自らの母を刺したユーリは震える声で泣いていた。
「――な、どうして!?」
セリナに続いて、ユーリまでもがシャーレの支配から抜け出したことに、本人が一番驚いている様子だ。
彼女を見る度に、ヨーハンとあの時のヴァンパイアの影がチラつくのは、やはりそういう事なのだろう。
全てが閉ざされたあの日、ヴァンパイアがセリナに執着して襲いかかってきた理由がようやく分かった。どこか他人とは思えないシャーレに向かって、セリナは言う。
「決まってるでしょ? 愛の力よ」
「は、はぁ!?」
心底意味が分からないと、狼狽えるシャーレからは、余裕が消えている。苦しそうに喘ぎ、自分が決して赦されざる過ちを犯してしまったと、絶望しているようにも見える。
「な、何で私……こんなに動揺して、あれ? あれ??」
本人も理解できない現象がその身に起きている。情緒不安定で、このままでは恐らく彼女は自滅する。
シャーレの内に潜む心の闇――懐く本当の願いを察したセリナは、全てをユーリに託そうと思った。
「ユーちゃん、あの子を――シャーレを救ってあげて。あの子を助けられるのは、ユーちゃんだけだから」
シャーレの望む本当の願いは、自分自身をも不幸にしてしまう。だから誰かが目を覚ましてあげなくちゃいけない。それができるのは、自慢の息子だけだと母は確信する。
「うん……ゔん! ぐすっ」
力が抜けて崩れ落ちるセリナの身体を、ユーリは必死に抱えて支える。そのすぐ側でショックを受けたように両手で口を塞ぎ涙を溜めるエレミヤは、すぐに思い出したように治癒スキルを発動しようとするが。
「ありがと、でもいいの。こういうの、自分で何となく分かってるから……」
「ユーリの、お母様ッ」
徐々に正気を失っていくセリナは、無駄に魔力は使う必要はないと嗜める。
セリナ、ユーリと続いて、シャーレの束縛から強引に逃れたナギとアリカが、シオンとミグレットを抱えて、倒れるセリナの側に駆け寄った。
シャーレが動揺したことで支配力が弱まった影響だろうが、今はいい。
セリナは、支配されている中でもずっと彼女たちの声は聞こえていた。異種族は穢らわしい存在だとフリーディアの常識に根付いているが、母の目には息子を想う可愛い女の子たちにしか見えない。
「エレミヤちゃん、ナギちゃん、アリカちゃん、シオンちゃん、ミグレットちゃん……」
ユーリを命懸けで助けようとしてくれた彼女たちへ、感謝の意を込めて名前を紡ぐ。
「本当は、あなたたちとちゃんと話がしたかったけれど……ユーちゃんのこと、よろしくね」
本当は、家に招待して沢山話を聞いてみたかったが、その夢はもう叶わない。彼女たちならユーリを任せても大丈夫だと、後を託すことにする。
「うぅ……ぐすっ、はい!」
エレミヤを筆頭に、全員が嗚咽を漏らしながら、何度も何度も強く頷いた。そんな彼女たちを見て、満足そうに微笑むセリナは、最期に最愛の息子へ向けて言う。
「ユーちゃん、ごめんね。最後まで、ダメなお母さんで。大人の都合で、あなたの運命を強引に捻じ曲げて……私、どうやって償えばいいのかなぁ……?」
徐々に声音が掠れていく母へ、ユーリは激しく頭を振って否定する。
「そんな事ないし、償う必要なんてない! 母さんは、俺にとって最高の母さんで――俺の方こそ我儘ばかりで碌な親孝行もできずにごめん! あの時、愛玩動物なんて心無いこと言ってごめん!!
俺、全部思い出したよ。父さんのこと、ジェネラル計画のことも全部! 母さんがどんな想いで育ててくれたか知って、ずっと、ずっと謝りたくてッ」
「そっか……全部思い出しても想ってくれるんだ……嬉しいなぁ」
ユーリが、自身の全てを思い出しているにも関わらず、それでもセリナを想ってくれることに安堵の涙を流す。
本当は、もっと恨んでくれてもいい筈なのに。普通の子供に産んであげられなかったことを後悔しない日はなかった。
だから、優しい息子に異種族であるエレミヤたちが慕ってくれているのが嬉しい。自慢の息子だって、声を大にして叫びたい。
本当は、もっと話したいことが沢山あるのに、死へのカウントダウンは刻一刻と迫っている。
ミグレットが身体の痛みを堪えながら治癒包帯を充がっているが、手遅れだと悟ると、悔しそうに嗚咽を漏らしていた。
「自分は、また救えねぇですか! シオンの時みたいに、奇跡起きやがれですよ、こんちくしょう!!」
ミグレットの力不足が原因じゃない。セリナ自身が、もういいんだと拒絶したのだ。
多くの罪を犯してきた自分は、きっと碌な死に方をしないとずっと思っていた。それが最愛の息子と、素敵なガールフレンドたちに囲まれて逝けるのは勿体無さすぎる幸せなのだから。
「ユー……ちゃ、ん。最後、にこれだけ、は言わせて――」
「ん?」
母が遺す最後の言葉に、泣きじゃくりながらユーリは耳を傾ける。
「生まれてきてくれて、ありがとう。お母さんの分まで長生きしてね。世界で一番愛してるわ、ユーちゃん」
暖かな愛に包まれたセリナの最期の魔法の言葉は、ハッキリと聞こえ、優しくユーリの心を包み込んだ。
「うん……俺も、愛してるよ母さん」
だから、ユーリも余すことなくその愛情を母親へ送った。世界で一番優しい魔法の言葉は、きっとセリナの胸に届いた筈だ。だって、こんなにも安らかな笑みを讃えているのだから。
「ねぇ、母さんは父さんのこと、愛してた?」
「勿論。あっちに行ったら、ヨーハンを……問い詰めなくちゃね……」
"残念だけど、僕にはもう一つ罪があるんだよセリカ。とても口では言えない、人して絶対に犯してはならない禁忌に手を出した。一時の気の迷い……なんて言わない。六年前……僕は、彼女に"
あの時、ヴァンパイアが逃走したことで有耶無耶になってしまったが、あの世できちんと言い訳を聞いておこう。
あの人のことだから一時の情に絆されたとか、何か事情があったに違いない。ヨーハンの抱える迷いや、葛藤を理解してあげられなかったことを謝って、また一からやり直せたらいいな。
◇
「…………」
気がつけば、セリナは安らかに息を引き取っていた。
母が亡くなったことで、シャーレが貸し与えていた魔術武装――無窮血鎖棺の鎖からようやくユーリは解放された。
「う、うぅ……ユーリ、ごめんなさい! 私、またッ」
エレミヤは、自己嫌悪に苛まれ、自分を強く責め立てていた。
「エレミィ、それに皆も。母さんのために泣いてくれてありがとう」
最期に笑って逝けたセリナは、幸せな方だろう。ナギ、サラ、シオン、エレミヤ、ミグレットの両親に比べたら何百倍もマシな終わり方だ。
「母さんの死は、誰の責任でもない。それにまだ何も終わってない、俺にはやるべきことが残っているから」
そう言いながらユーリは、ゆっくりと母の亡骸を地面に寝かす。本当はちゃんと供養してあげなくちゃいけないけど、戦いはまだ終わっていないから。
立ち上がるユーリは、涙を拭い去り、今も苦しみに喘ぐ少女の名を呼ぶ。
「――シャーレ!!」
――シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガー。最厄の饗宴を生み出した絶望の体現者と、最後の決着をつけなければならない。
「ハァ、ハァハァ……うふふ、お兄さん」
ユーリが名前を呼んだことで理性を取り戻したのか、再び妖しげに笑みを浮かべるシャーレ。
エレミヤたちが険の籠った眼差しで睨みつけるも、ユーリが手で制して一歩前に出る。
「シャーレ、俺は全部思い出したよ。お前が探し求めてきたもの。お前が何のために生まれてきたのか? その解えを教えてやる」
シャーレは、自分の存在意義をずっと見出せずにいた。望んで望んで仕方なかった解えが、今目の前にある。
滝のように滴る汗を拭いもせず、彼女は期待の眼差しを込めてユーリの言葉に耳を傾けている。
『シャーレ、今すぐ撤退した方がいい! その状態は非常にマズいよ!』
「うるさい、余計な口を挟まないでください!」
何かを感じ取ったのか、慌てて止めに入るクーリアへ一言で一蹴する。
「ごめんなさい、お兄さん。それでは、解えを教えていただけますか?」
ようやくだ、ようやくシャーレは自身の解えに辿り着く。セリナ・クロイスの犠牲の果てにユーリが掴み取った真実は、きっとシャーレの心を満たし、今度こそ普通の人間だと証明する事ができるだろう。
だから――。
「シャーレ、お前は父さんとヴァンパイア王の娘、アリシアの間に生まれた半吸血鬼だ。だからお前と俺は、正真正銘血の繋がった腹違いの兄妹ということになる」
刹那、何を言われたのか理解できず、シャーレは文字通り固まった。彼女だけではない、エレミヤ含めた他の面々の反応も同様に固まっている。
「嘘、あいつがユーリの腹違いの妹!?」
ナギからすれば、大切な同胞を陥れた元凶たる彼女に対する憎悪は計り知れないものとなっている。腹違いとはいえ、シャーレが最愛の人の妹なんて信じたくはなかった。
「うん。俺、小さい頃に交わした約束をずっと忘れててさ。本当、今思えば何でこんな大切なこと今になって思い出してるんだよって、自分自身に腹が立つ。
もっと早く思い出していれば、ナギたちが巻き込まれることなんてなかったのにッ」
「ユーリ……」
行き場のない後悔を抱えるユーリに、ナギは何も言えなくなってしまう。そして、全てを思い出したユーリは、残された血縁へ向けて、その解えを捧げる。
「シャーレ・クロイス――お前は幸せになるために、愛してるから生まれてきたんだよ」
その真実は、シャーレの心の奥底に眠る愛を呼び覚ます、切っ掛けとなるもので。
「あ、あぁぁ……あぁぁぁああああッッーーーーー!!!!」
シャーレは、壊れたように頭を抑えて、狂乱の悲鳴を上げる。
シャーレ・クロイス? 何だそれは何だそれは何なんだそれは!? 幸せ? 愛? 理解できないと切り捨てていたものが、シャーレの真実だって? ふざけるな! だとするなら、最厄を司るシャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーは、一体何だったのだ?
他者の絶望と、怨嗟の嘆きを糧に生きてきた、これまでの人生全てを否定され、荒ぶる感情が抑えられずにいる。
「シャーレ、約束を守れない情けない兄でごめんな。俺にはもう、お前を恨めないよ。母さんは救えって言ったんだ……家族を救えって。だから他の誰に言われようとも、俺はお前を助けるよ」
「くっ」
意味が分からない。そもそも母親の死の原因を作ったのは、シャーレ自身だ。いくら血が繋がっているとはいえ、仇を助けるなど正気の沙汰ではない。
「世迷言を……何が救うですか! そんなこと微塵も望んでいませんし、私はお兄さんが絶望に堕ちた顔が見たいだけなんですよ!! そんな慈しむような眼差しを、私に向けるな!」
荒れ狂う衝動を、強靭な自我で抑えつけながら、シャーレは吠える。黙って聞いてれば、妹だ家族だなんだとくだらない。期待した解えが碌でもない物だと知ったシャーレは、怒りに震えている。
「俺はあの日、お前を救うことができなった。無茶して勝手に自滅して、本当の本当に大切な想いさえ忘れてしまって……」
「兄、さん……ッ!?」
シャーレの脳内に洪水のように襲いかかる情報の本流。自分自身が違う何かに犯されて書き換わっていくような。
「くっっそぉぉッーーー!! 何なんですか、この記憶は!?」
シャーレは必死に抵抗して、己の内なる衝動に抗っている。今ようやく理解した。この衝動はただの吸血衝動なんかじゃない――在りし日のシャーレ・クロイスの自我が目覚める兆しだったのだ。
「もし、世界中の人たちがお前を恨んだとしても、俺は……俺だけは、お前を愛してる! だから戻ってこい、シャーレ!!」
手を差し伸べるユーリの手を振り払うように、嫌嫌と激しく頭を振る。
「黙れ!! 私は、私です! こんな光景知らない! あなたの求める妹なんて、とっくにいないんですよ!!
私は、シャーレ・クロイスなんかじゃない――最厄を司る絶対悪の化身、グランドクロス=シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーだ!!」
ユーリ・クロイスが求めているのは、シャーレ・クロイスであって、シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーではない。
奴は自身を脅かす外敵、だから殺す。このまま全部思い出して、ハーピーエンドなんてくだらないご都合主義展開は認めない。徹底的に、塵も残さずこの世から消し去ってやる。
「魔術武装・展開――血刎大魔鎌!」
都合、二つ目の血の滴る呪詛を帯びた巨大な大鎌型魔術武装――これこそが、シャーレの主力となる火力特化武器だった。
シャーレが好む、狂気と絶望を孕んだ架空の童話から命名した血刎大魔鎌は、兄アルバが人喰いの化け物になった最愛の妹アリスの首を大鎌で刎ね飛ばしたことが由来とされている。
皮肉にも、ユーリとシャーレの関係はその架空の童話とよく似ていた。
グランドクロスであるシャーレ専用に調整が施された、吸血姫の真価を発揮する唯一無二の獲物。
身の丈を超えるその大鎌を、意のままに軽々と振り回し、最厄の暴威がユーリたちを突き抜けていく。
「愛や祝福なんて要らない、あなたたちが奏でる絶望と怨嗟の嘆きがあればそれでいい!」
だから死ね。己の自我を塗り替えようとする過去ごと、この世から葬り去ってやる。