第158話 追想
ユーリ・クロイスは、物心付いた時から足繁く父――ヨーハン・クロイスのいるアージア生物学研究所に通っていた。
ベッドに寝かされ、何らかの検査機と思しき装置を装着して魔力を注入する。一体全体何をやっているのかさっぱり分からないが、父の真剣な表情を見る限り、仕事に関わる大切な事なのだと理解していた。
「うん、魔核も問題なく安定している。変幻機装を使用した際に、違和感はあるかい?」
「ううん、ないよ!」
「そうか、ユーリは凄いね。ほんの少しでも違和感を感じたら、僕やお母さんにすぐに言うんだよ?」
「うん!」
優しく語りかける父の言葉に、ユーリは素直に頷いた。そう、これは過去の記憶。あの日見ることのできなかった真実の扉が再び開いた証。
(これは……?)
ジ、ジジ……と、浮かび上がる記憶に、ユーリは困惑を露わにする。
シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーの神遺秘装――血霊液が体内に溶け込んだためか、内包する神の因子に影響を及ぼしたらしい。
恐らくこの現象……肉体と精神がシャーレの魔力によって分離されてしまったために起きたこと。とすると現実世界において、ユーリはセリナ・クロイスと同じ状況に至ったのだと推測される。
(く、皆ッ)
景色も言葉も届かない精神世界では、シャーレの支配から逃れることは困難極まる。この状況でできることは、過去の流れに身を任せ、シャーレとヴァンパイヤの繋がり、全ての真実を垣間見ることだけ。
恐らく、これはシャーレの求めて止まない解えにも通ずる事柄。ナギたちを助けるためにも、全ての謎を解き明かし、本当の想いをぶつけて吸血姫と向き合う他ない。
そうして、ユーリは幼い自分と意識を同化させ、過去の記憶を追体験していく。場面が切り替わり、幼いユーリは父と手を繋いで研究所の通路を歩いていた。
「――それでね、ミアリーゼ様がこぉーんなに大きな熊のぬいぐるみをプレゼントしてくれてね、置き場所に困っちゃって父さんの部屋に飾ったんだ」
「そうか、確かこの間も貰っていなかったかい?」
「うん、会う度に渡される。お父さんとお母さんがあまり家に帰らないって言ったら寂しくないようにってくれたんだ。今度こっちに持ってきてもいい?」
「ははは、それはちょっとな……」
生物学研究所に、ファンシーな熊のぬいぐるみを置いても邪魔にしかならず、父は若干返答に困っている様子だ。
「ミアリーゼ様とは、仲良くやっているみたいだね」
しれっと話をすり替えたヨーハンだが、幼いユーリはその事に気付かず「うん!」と、素直に返事をする。
「ミアリーゼ様は、本当に優しいし、会う度に凄い人だなって思う。俺と同い年なのに、他の人たちよりしっかりてて心構えとかそういうの、色々参考にしてるんだ」
「それは良かった。ユーリ、分かっているとは思うけど、研究所に通っていることは他の人には言ってはいけないよ? 勿論、ミアリーゼ様にも内緒だ」
「うん! お母さんも口酸っぱく言ってたし、誰にも話してないよ。もし話したら、悪い異種族がお父さんとお母さんを食べに来ちゃうって」
「あぁ、そうなんだ。悪い異種族は、いつだって僕たちを狙っているからね」
「大丈夫! 何かあっても、お父さんとお母さんは絶対に俺が守るから! ミアリーゼ様みたいに、何事も立ち向かう勇気を持って頑張るって決めたんだ」
「そうか、それは安心だ。ユーリならきっと、世界を良い方向へ導けるだろうさ」
「世界は流石に大袈裟すぎるよ!?」
幼いユーリは自分が何者であるかの自覚がない。だからこの時の父が込めた想いに気付かない。
その後も他愛のない話を続ける親子二人だが、息子に対して違法な人体実験を何度も施している父親はとてもではないが世間に顔向けなどできない。それを知る他の研究員たち皆、良心をどこかへ置いてきてしまっているのかもしれない。
その笑顔の裏では、何の罪もない妊婦を拉致し、ユーリと同じ神の因子に適合する個体を生み出そうと躍起になっている。きっとそれ以外にも、多くの罪をヨーハンは重ねていることだろう。
「――ん?」
その時、幼いユーリは何か違和感を感じたようでその場で立ち止まってしまった。
「どうかしたのかい?」
ヨーハンは息子の様子を訝しみ、歩みを止めた理由を訊ねる。
「なんか今……変な魔力を感じたような? 悲しんでる? 何だろ、この変な感じ」
父から手を離し、ユーリは魔力の出所を探ろうと集中するが。
「ユーリ、君が気にする必要はない。お母さんも待たせてるし、早く帰――ユーリ!?」
父の言葉を待たず、その場で駆け出したユーリは、魔力の発生源と思しき場所を辿っていく。
「くっ、ユーリが帰るまで待てと、あれ程言っておいたのに(ボソッ)」
ユーリを追いかける父から何やら言葉が漏れ出すが本人に伝わる筈もなく。幼いユーリは、必死に魔力を辿り、研究所内を駆け巡っていく。
道中通りすがりの研究員たちが驚いた様子でユーリを見ては、ヨーハンから「捕まえてくれ!」と、指示が飛び交う。
大人ですら追いつけない速度で一心不乱に走るユーリは、やがて三人の研究員に囲まれ取り押さえられている一人の幼い少女の姿を視界に捉え――。
「やめろ!!」
勢いのままに研究員の一人を突き飛ばし、少女を庇うように前へ出た。
「き、君は所長の……」「所長、何故彼がここに!!」
やがて追いついた父と、他の研究員たちが何やら口論しているようだが、ユーリは自分と同じ年くらいの幼い少女へ向けて大丈夫? と、手を差し伸べた。
「……異種、族? あれ、でも人間だよ、な?」
何故、ユーリは少女を見たこともない異種族だと思ってしまったのか? 先程の魔力は彼女から発せられたものであることは間違いない。初めて会う筈なのに、何故か本能が彼女を知っていると囁いており、訳が分からなくなり混乱する。
「うっ、ぐす……」
怯えて泣いている少女は、一向にユーリの手を取ろうとせず、ただひたすら「ごめんなさい、ごめんなさい……いい子にしますから乱暴しないでください」と、懇願していた。
患者服姿の少女の周辺には、壊れた拘束具が散らばっており、幼いユーリは玩具か何かだろうか? と、疑問に思った。
泣き止まず延々と怯え続ける少女を安心させるために、ユーリは「大丈夫だよ」と言って、労るように優しく抱き竦めた。
その際、研究員の一人が「ユーリ君危険だ、今すぐ離れなさい!」と、叫ぶが無視した。
「安心して、俺は君に乱暴なんてしたりしない。もし他の人に乱暴されそうになっても俺が守ってみせるよ」
少女はビクッと肩を震わせ、恐る恐る言う。
「ほんと……?」
「うん。その証拠にほら、全然痛くないだろ? こうやって抱きしめてもらうと、安心してこない?」
「はい……暖かいです、とても」
大人しくなった少女を見た研究員たちは信じられないと言葉にしていたが、ユーリからすれば恐怖で抑えつけようとするのが間違ってる。
少なくとも、ユーリが憧れるミアリーゼは絶対に良しとしない。彼女がユーリの心を救ってくれたように、今度は自分が泣いている少女を救ってみせると想いを込めて言葉にする。
「俺、ユーリっていうんだ。良かったら、君の名前を教えてよ」
そんなユーリの一途な想いは、少女の心を溶かしたのか、ギュッと力を込めて――。
「"シャーレ"……です」
と、そう呟いた。
「よしよし、怖かったなシャーレ。落ち着くまでずっとこうしていてあげるからな」
ポンポンと、シャーレの背中を摩りつつ、ユーリは事情を知っているだろう父へ目を向ける。
「お父さん、この子……何でこんな酷い目に遭ってるの?」
「ッ」
息子には知られたくなかったのだろう。バツの悪そうに顔を背け、どうやっても言い逃れできないと判断したのか、やがて大きな溜め息を吐いてこう言った。
「ユーリ、彼女は少し特殊な生まれでね。君も感じたように、シャーレは普通の人間とは少し違うんだ」
「え……」
最初に見た時、思わず異種族だと口にしてしまったのを思い出す。けれど、それがどういう意味を齎すのか理解が及ばず、大人しく父の言葉を待った。
「シャーレはね、人間と吸血鬼と呼ばれる異種族両方の血を引く混血種――歴史上初めて誕生した半吸血鬼と呼ばれる種族なのさ」
半吸血鬼。初めて聞く諱に、幼いユーリはいまいち凄さが実感できない。
ただ異種族と呼ばれる存在については嫌というほど聞いている。人を襲う化け物、悪い子にしていると食べに来ると父と母はよく口にしていた。
「この子、角や羽なんて生えてないし、どう見ても人間だよ? なのに異種族なの?」
「あぁ、シャーレはヴァンパイヤと呼ばれる異種族の血を半分引いている。彼女は、体内で血球を生成することができず、定期的に血液を接種しなければ生きられない身体なんだ」
「血……けど、だからってこんな酷いこと……」
異種族の血が流れているのは理解したが、だからって怯えた女の子を泣かせていい理由にはならない。
「半吸血鬼として生まれたシャーレの内に眠る潜在能力は、他の追随を許さない。
今はまだ幼いから問題ないが、いずれ誰の手にも負えなくなる。だから今の内に僕たちに逆らえないように厳しく躾ける必要があったのさ」
「な、なんだよ……それ」
父の話は難しくて、当時のユーリには半分も理解できなかったが、要は泣いている女の子に酷い事をしているのは分かった。
「事情は何となく分かったけど、シャーレを泣かせるのは良くないよ。俺、これからここに来る時この子に会いに行くから。もし虐めてたりしたら、お父さんのこと絶対に許さないよ?」
「あぁ、僕もシャーレが泣いたりしないよう注意を払っておくよ。今回の件は、こちらのミスだ。異種族の特性を引き継いでいるとはいえ、この子はれっきとした人間。
だからユーリには……そうだな、シャーレの――《《お兄ちゃん》》になってあげてほしい」
この時、父がどういう気持ちを込めて「お兄ちゃん」という言葉を使ったのかは分からなかったが、ユーリとしてはもう二度とシャーレを泣かせなければ何でもよかった。
「だってさ、シャーレ。もう虐められたりしないって」
そう言って安心させるように微笑むと、シャーレは奇跡でも目の当たりにしたような面持ちで、恐る恐るヨーハンたちを見据え。
「ほんとう、ですか?」
「あぁ、検査は当然続けるが、その際はユーリに付いていてもらうようにするよ。拘束具も取り付けないと約束する。だからシャーレも、勝手に魔法を使うのは止めてくれ。
それと約束だが、ユーリに対して魔法は決して使ってはいけないよ? もしそんなことをすれば、僕は君を赦せなくなってしまう」
「(コクコクッ)」
脅しともとれるヨーハンの言葉に、シャーレは怯えた様子で激しく頷いた。
「何かよく分かんないけど、これから一緒に頑張ろうな、シャーレ」
「はい……本当に、ありがとうございます――ユーリ兄さん(ボソッ)」
儚くも繊細な鳥の囀りのような小さな声だったが、ユーリの心には確かにシャーレの言葉が届いた。
"兄さん"――初めて言われたフレーズだが、何だか胸がむず痒くて照れ臭い。妹を守るために、兄として全力で尽くしていこう、ユーリはそう思った。
◇
シャーレとの出会いは、ユーリにとって新たな希望を見出すものだった。父が母や外部には他言無用だと念を押し、ユーリ自身もシャーレの存在が世間にどんな影響を与えるのか何となく分かっていたため、秘密にすると固く心に誓った。
今はとにかく、シャーレを泣かせないよう兄として沢山の愛情を注いであげよう。そのためにはどうすればいいのだろう? と、必死に頭を捻り――。
「――シャーレ!」
その翌日、早速ユーリはシャーレのいる部屋へ遊びに行くことにした。父に案内された部屋は、無機質な白で覆われており、そこには簡素なベッドがポツンと置いてあるだけの寂しい様相をしていた。
シャーレ本人は、ベッドの上で行儀良くちょこんと座っており、ユーリの姿を見るなり嬉しそうに笑顔を綻ばせた。
「ユーリ兄さん! 本当に……来てくれたッ」
ぴょんっ、とベッドから飛び降り、ユーリに抱き着こうと駆け出すシャーレ。しかし、途中で何かに躓いたのか、転けそうになってしまうが――ガシッ! と、駆け寄ったユーリが受け止めたことで事なきを得る。
「シャーレは、おっちょこちょいだな。そんなに慌てなくても、俺はどこにも行かないよ」
「ごめんなさい、兄さんが来てくれて……凄い嬉しくて」
思わず顔を朱らめ謝るシャーレに対して、ユーリは安心させるように笑顔を覗かせて言う。
「これからは毎日来るから安心していいよ。あれから虐められたりしてない?」
「はい。兄さんのおかげで、今日はまだ何もされていません」
そう言いながら、シャーレは入り口付近でこちらの様子を見ているヨーハンへ目を向ける。
「二人とも、検査は午後から行うから、ここで大人しく待っていなさい。それからユーリ、このダンボールは、中に入れてもいいのかい?」
「うん! ありがとう、お父さん」
ヨーハンが大きなダンボール箱を抱えて部屋へ入室し、やや重たそうに「ふぅ」と、息を吐いて床に置いた。母が片手で持ち上げていたダンボールを重そうに抱える父は、息子の目からしても少し情けなかった。
「はは、僕は力仕事は苦手でね。ユーリには格好悪い所を見せてしまったね」
「うん、でもお母さん言ってたよ? お父さんは、力はないけどその分凄く頭が良いんだって。知らないことを沢山教えてくれるから、お話しするのすっごく楽しいって!」
「そうか……セリナには、本当敵わないな。強くて、格好良くて、誰よりも正義感が強くて……僕は、そんな彼女に――」
ユーリとシャーレを見比べながら、どこか懺悔しているような父に、何と声をかけてあげるべきか迷ってしまった。
「ごめん……子供に何言ってるんだろうね、僕は。それじゃ、また後で」
どこか逃げるように去っていく父の背中が、とても小さく見える。ヨーハンが何か大きな罪を抱えているのだとしても、この時のユーリには判断が付かない。
息子に対する優しさと、シャーレに対する非情さ、ある種の二面性を抱えた父の心は、一体何処へ向かおうとしているのか?
ユーリとシャーレは、顔を合わせて苦笑いし、二人で一緒に父の運んだダンボールを開けることにした。その中身を見たシャーレは、ポカン……と首を傾げ。
「ユーリ兄さん、これは何ですか?」
「トランプ! 後は、ゲームとか塗り絵とか色々遊べる玩具持ってきたんだ。シャーレは女の子だから、本当はお人形遊びとかの方が好きかもしれないけど、今はこれで我慢してくれ!」
そう言ってユーリは、次々にダンボールから玩具を取り出して、床に並べていく。
「わぁっ、凄いです!」
無機質で何もない部屋で過ごしてきたシャーレからすれば、どれも初めて見る物ばかりで目がキラキラと輝きを放っていた。
「何でしょう……これ。胸が暖かい……私っ、何でこんな」
無機質な白が様々な玩具によって彩られたのを見たシャーレは、涙を流しながら初めて懐く感情に戸惑っている。
「ごめんなさい、ユーリ兄さん! 私、何で涙が出てくるのか全然分からなくて……ぐすっ、この気持ちが何なのか、初めてで……言葉にできないんです」
「簡単だよ。きっとそれは、嬉しいって感情なんだ」
そう、考える必要なんてない。分からないなら、お兄ちゃんが全部教えてあげる。彼女はきっと、悲しいとか、辛いとか、寂しいとか、そんな負の感情しか懐いてこなかったのだろう。
「嬉、しい……?」
「うん。ありがとう、とか。大好きだよって言われると、胸が暖かくなる感情のこと。俺の想いが、シャーレに伝わった証さ!」
本当の兄妹ではなくても、兄と慕ってくれるシャーレへ沢山の大好きを伝えたい。半吸血鬼とかそんなもの関係なく、彼女個人の優しい想いを大切にしてあげたいから。
「兄さんが、私にくれた……想い」
それは、ひとえに"愛情"と呼ばれる家族の絆を象徴とする感情。これを与えていけば、いつかシャーレが堂々と外に出られる日が来るかもしれない。
「ありがとうございます、兄さん。この想い……大切にしますね」
兄の愛情を受け取った妹は、日々の毎日に希望を見出すことができた。ユーリは照れくさそうに笑みを浮かべ、シャーレとどれで遊ぼうか楽しそうに相談していった。
◇
ユーリがシャーレへ齎した影響は、非常に大きく、研究員たちも素直に従う彼女に驚いていた。どこか実験動物的な目線で見ていた彼らも、ユーリの計らいにより、シャーレを人として扱うようになった。
気がつけば、無機質で何もないシャーレの部屋は、沢山の玩具で溢れ、寂しさとは程遠い立派な子供部屋の様相へと変化していた。
――さーて、今日は何して遊ぼうか?
ユーリとシャーレは、毎日の楽しみに胸を躍らせる。今日は、自分が好きな人や物の絵を描いてみようと、二人は色鉛筆を使い、画用紙に書き込んでいた。
「見てください、兄さん!」
完成した絵が描かれた画用紙を掲げて、シャーレはこれ幸いにとユーリに見せつける。ユーリもシャーレがどんな絵を描いたのか楽しみにしていたため、興味津々に覗き込む。
「おぉ、俺だ!」
そこに描かれていたのは、ユーリ・クロイス自身。年相応の画力しか持たぬ故、やや歪な形をしていたが、それでもハッキリ自分だと分かった。
「えへへ、頑張って描きました。どうですか?」
「うん、凄く上手に描けてる! けど、何だか照れるな」
シャーレの絵に込められた大好きという想いが伝わり、兄として嬉しいやら恥ずかしいやら。
「うふふ、照れてる兄さん可愛いです」
ユーリの反応に満足したシャーレは、とても嬉しそうだ。
「むー、可愛いより格好いいって言われる方が好きなんだけどなー」
「勿論、兄さんは格好いいですよ? 可愛いと格好いいが合わさって、とっても素敵だと思います!」
ユーリをべた褒めするシャーレに、恥ずかしさがいっぱいになり、まともに顔を見せられない。
「ダメだ、俺の妹が可愛すぎる!!」
内なる兄心が刺激され、ついに本音が漏れ出してしまうユーリ。純真無垢な妹を全力で可愛がりたい、甘やかせたい。
「シャーレ、欲しいものがあったら何でも言ってくれ。お兄ちゃんが全部叶えてあげるからな」
「私、これ以上ないくらいに貰ってますよ? それに、何もなくても兄さんがいてくれたら充分幸せです」
「シャーレ、お前ってやつはもう!」
ユーリはとうとう堪えきれなくなり、ガバッとシャーレを抱きしめて全力でよしよしする。
「もう、兄さんってば」
されるがままとなるシャーレも、満更でもない様子で兄の抱擁を優しく受け止めた。
「次は、兄さんの番ですよ? どんな絵を描いたのか見せてください」
「そうだ! シャーレが可愛すぎて、すっかり忘れてたよ」
肝心の自分の絵を見せることをすっかり忘れていたユーリは、シャーレを離して画用紙を手に取った。
「じゃーん!」
そう言って画用紙を見せるユーリは、何を描画したのか?
「これ……兄さんと、私と、ヨーハンさんと、知らない女の人?」
目を丸くして驚くシャーレに、ユーリは「うん!」と、頷く。彼が描いたのは、父ヨーハンと母セリナの間に挟まったユーリとシャーレ――四人で仲良さげに手を繋いでいる様子だった。
「この人はね、俺の母さんなんだ。シャーレとこうして家族皆で暮らしていければいいなって思って描いたんだ!」
「家族……?」
シャーレがユーリの妹なら、ヨーハンとセリナは両親になる。例え血の繋がりはなくても、ユーリにとって彼女は家族同然。だからこの輪の中にシャーレが交ざるのは自然なことだ。
「俺、どうにかしてシャーレを家に住まわせてもらえないか、父さんに掛け合ってみるよ。ずっとここに閉じ込められたままじゃ、駄目だと思うから」
シャーレには異種族の血が半分流れている。だけどユーリの目の前にいる妹は、どこにでもいる普通の人間なのだ。
「……ヨーハンさんや、他の人も言ってました。私は血を吸う化け物だって。外に出たら殺されてしまうって」
「血を吸いたいなら、俺のを吸えばいい。シャーレは俺が守る、だから殺させなんかしない!」
何があってもシャーレを守る。この時秘めた誓いは、決して偽りなどではない。
「私が兄さんから血を吸ってしまえば、本当にただの化け物になってしまいます。だから血は吸いません、何があっても。
普通の人間でいるためなら、私は嫌いなお注射だって我慢できるんです」
襲いかかる吸血衝動に抗ってみせる。例え何があっても、この誓いだけは果たすと、シャーレから本気の覚悟が伝わってくる。
「兄さんと一緒に生きていきたい、家族になりたい……その為に私、頑張って普通の人間になりますね」
決して紛い物なんかじゃない、周りの人達にシャーレは普通の人間だと認めてもらえるその日まで。
「うん」
ユーリは、今一度自身の描いた絵を見て強く頷いた。それと同時に、シャーレの本当の父と母は今どうしているのか脳裏に浮かんだ。
彼女の父か母、そのどちらかが異種族でどういう経緯でシャーレを産むことになったのかは預かり知らないが、いつか再会した時にはお互い笑顔でいられたらいいなと、希望の夢を描いた。
「いつか、シャーレの本当のお父さんとお母さんにも会えるといいな」
「そうですね。外に出られれば会えるかもしれません。けど、私には兄さんがいますから。顔の知らない両親のことよりも、兄さんと本当の家族になる方が大切です」
「ありがとう。そう言ってくれるのは嬉しいけど、シャーレのお父さんとお母さんは寂しがると思うぞ?」
「……そうなんでしょうか?」
そう告げるユーリへ、シャーレは疑問を返した。
「私は、ユーリ兄さんに出会う前まで、どうして私は生まれてきたんだろうってずっと考えてきました。お父様とお母様は、何を思って私を産んだのか? 考えれば考える程に分からなくなるんです」
何もない虚無の空間の中で一人、彼女はそんなことを考えていたのか。自分自身の存在意義すら分からずに生きてきたシャーレに、強く心が痛み。
「そんなの簡単さ」
「?」
そう、シャーレが生まれた理由なんてユーリには一つしか思い浮かばない。人として当たり前の理由――誰もがその祝福を受けて生まれてくるのだから。その想いがどうか、彼女にも伝わりますように。
「シャーレは幸せになるために、愛してるから生まれてきたんだよ」
――シャーレ・クロイス。
それが、彼女が本当の家族として迎えるために、ユーリによって与えられた新しい名前だった。