第157話 血霊液の支配
ユーリ・クロイスが初めて体験する口づけの味は、酷く濃厚な死の香りの漂う血の味だった。身体中が激痛で悲鳴を上げる中でも、否応なく唇の感触だけは伝わってきて。
「ん……」
ゆっくりと、シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーの唇に付着した血霊液が、喉を通り体内へと侵食していく。
その瞬間、ユーリ・クロイスは意識と身体がバラバラに引き裂かれるような強烈な痛みに見舞われた。
「いやぁぁああぁぁぁッーーーー!?!?」
急いで駆けつけたナギは逢瀬を重ねる二人を見て、狂乱の悲鳴を上げており、他の面々も絶句して言葉を無くしてしまっていた。
「ぷはっ! うふふ、ご馳走様でした」
シャーレは唇を離し、恍惚に浸って舌舐めずりをする。煽情的かつ妖艶な仕草は、自分こそがメインヒロインだと主張しているかのよう。お前たちは、最厄の織りなす舞台の端役に過ぎないのだと。
「お前ッッ!!」
恋に敗れたナギは、当然シャーレを許す筈もなく、状況の分からぬままに神遺秘装を発動させて飛び出していった。
「ナギ! あいつがユーリの言っていたシャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーです、こんちくしょう!」
ミグレットの上げる声に、ナギは「グランドクロス!?」と、驚きの声を上げながら殺意を高めていった。
「寧ろ好都合、シオンとユーリを傷つけたお前は、絶対に許さない!!」
ナギの殺意の咆哮を前に、シャーレは動じる様子もなく、両手に手を合わせて興味深げに白雷を見つめており。
「わぁ! それがあなたの神遺秘装なんですね! 凄い魔力ですけど、確かクリスフォラス卿に瞬殺されていませんでしたっけ?」
「殺す!」
その減らず口を今すぐ叩けなくしてやるとナギは、容赦や微塵もなく白雷を帯びた魔爪を振り放った。シャーレは躱す素振りも見せずに、首をバッサリと抉られ致命傷を負う。
「何だこいつ、弱い……?」
この程度の奴が、本当にあのファルラーダ・イル・クリスフォラスと同じグランドクロスなのか? と、返り血を浴びながら、あまりにも呆気ない幕引きに面食らうも、次の瞬間シャーレが何事もなかったようにガッと、ナギの手首を掴み取る。
「なっ!?」
致命傷を受けた筈のシャーレが、未だに息があることにあり得ないと、ナギは動揺し硬直する。
「はぁい、また瞬殺です♪」
「白纏雷!!」
悪寒が背筋を這い、ナギは全力全開で身体全身に白雷を放出させる。そのおかげか、ドゴンッ! と、腹部に強い衝撃が奔るも、ギリギリのところで退避に成功した。
「あら? 思ったより硬いんですね。クリスフォラス卿のようにはいかなかったみたいです」
強烈な蹴りを放った脚を下しながら、残念そうに言うシャーレ。
ファルラーダのように雷魔法を遮断したわけでもない。白纏雷に触れた影響で、シャーレの手足が焼け焦げているにも関わらず、平然としているのはどういうわけか?
「くっ、何なのそれは!?」
だがそれも一瞬のこと。先程の首の傷のように焼け焦げた皮膚すらも、見る見るうちに修復していく。そんなシャーレへ、不可解さを隠せずにナギは呻く。
「あなた、不用心が過ぎますね。私の血を浴びて無事でいられるとでも?」
「え?」
シャーレの血をその身に浴びる。それが何を齎すのか、彼女は嫌というほど思い知ることになるだろう。
「神遺秘装――血霊液」
軽快にパチンッ、と指を鳴らしたその刹那、ナギの身体に付着したシャーレの血が、ずりゅずりゅと蠢きながら肌を伝い、手脚に纏わりついていく。
「何だ!?」
肌を撫でられるような不快な感触がナギを襲うと同時に、何故か身体がひとりでに動き出し、あろうことに仲間へ襲いかかっていく。
「「「「「!?」」」」」
攻撃を仕掛けるナギ本人も、襲われる仲間たちも驚愕を浮かべる中で、唯一対抗できたのはアリカ・リーズシュタットだけ。
「魔術武装・展開――紅鴉国光!」
真紅を纏う刀で、すかさず応戦し、アリカとナギの視線が交錯する。
「違うっ! 私は、そんなつもりじゃ……」
意識はナギだが、身体は別人になってしまったかのように自由に動かせない。決して裏切ったわけじゃないと、ナギは悲痛な面持ちでアリカへ訴えた。
「分かってるわよ! どう見ても動きにキレがないし、操られてるか何かされてるんでしょ!?」
一連の攻防を見て、シャーレの能力が関係していることは把握済み。問題は、どうすればナギが解放されるのか? 囚われたユーリを解放できるかかだ。
「エレミヤ! シオンちゃんと、ミグレットちゃんを頼んだわよ!!」
「えぇ!」
「させると思いますか? セリナさん、出番ですよ」
一時退避しようとしたエレミヤとシオン、ミグレット目掛けて、これまで静観していたセリナ・クロイスが鎖を交差させて解き放っていく。
「ぐぅっ、止めろ、母さん!!」
血霊液の支配から全力で抗いながらも、必死な形相で叫ぶユーリの声に、エレミヤたちは全ての事情を察した。
「ユーリの……お母様ですって!?」
シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーが差し向けたセリナを見て、逃げるに逃げられなくなってしまう。援護に来たつもりが、一瞬で状況を塗り替えられた。
カイエス邸でユーリの母と合流する――それこそが最厄の罠だと、この場にいる皆もようやく気付く。ユーリがあそこまで追い詰められたのも、母親が人質に取られているからに違いない。
「じゃあ、イリスも捕まったままってこと……?」
ユーリの母が保護すると聞いて、すっかり安心しきってしまったエレミヤは、失恋に加えて更に心を深く抉り取られる。
話には聞いていたが、シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーは、これまで相手にしてきたフリーディアとは一線を画す存在。闇の中で、一際異彩を放つ夜の吸血姫の魔性の笑みに、意識が吸い寄せられそうだ。
エレミヤは魔法障壁を張り巡らせ、何とか鎖の脅威を凌いでいくも、状況は悪くなる一方で。
「うふふ。ミグレットちゃん、シオンちゃん、お久しぶりですね」
「「!?」」
エレミヤの魔法障壁の傘の中で護られるミグレットとシオンへ向けて、シャーレは手を振って場違いな程、暢気な挨拶を交わす。
「シャーレおねーちゃん……」
「オメェ、お父さんだけに飽き足らず、ユーリやユーリのお母さんまで!!」
シオンからすれば、自身を陥れた元凶との再会に言葉が浮かばず、ミグレットは父の仇に対して怒りを込めて吠える。
「シオンちゃん、本当に元に戻っているんですね。てっきり死んだとばかり思っていましたからビックリですよ、もう。
あなたを救ったのは、ミグレットちゃんのマジックアイテムのおかげですよね? 治癒包帯でしたっけ? あれはもう使わないんですか?」
「うるせーです、こんちくしょう! オメェとは口効かねーって、決めてんですよ!!」
父を殺した挙句、利用して数多くの同胞をシオンに殺させたシャーレは、ミグレットにとって赦されざる仇である。
「あらあら、うふふ。すっかり嫌われてしまっていますね、私。せっかく私のお友達を紹介しようと思っていたのですが」
「友達ぃ?」
お前みたいな性格の悪い女に、友達なんているのか? と、ミグレットは怪訝な視線をシャーレへ注ぐも。
『――ミーグレットちゃーーーん!!』
ナギとアリカが、エレミヤがセリナの猛攻から必死にミグレットとシオンを守る中、場違いな程テンションの高い少女の声が、夜の墓所に響き渡った。
『やぁーーーーっと来てくれた! もう来ないんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたよ!』
質の悪いことに、その声は幾多もの屍鬼の口から発せられており、より一層不気味さと不可解さを募らせていく。
『直接会えなくてごめんね! 私は、クーリア・クロウ・ククルウィッチ。なぁに、心配はいらない、怪しい者じゃないよ。しがないただの天才女子中学生さ!』
「…………」
屍から発せられるクーリアの声に、ミグレットは顔を引き攣らせている。他の者たちも唖然とした様子で固まり、シャーレだけが柔和に微笑んだまま。
最早、戦いという概念すら無くした、混沌を生み出すこの状況の終着点を、誰も見出せずにいる。そんな異質な空気を、その場にいないクーリアだけが気にせず、屍鬼を通してミグレットへ語りかける。
『ずっと、会いたかったよ! あのさ、ミグレットちゃん。ものは相談なんだけど、よかったら私と一緒の研究チームに入ってみない?』
「は、はぁ!? いきなり現れて何トチ狂った事言ってやがるです、こんちくしょう!」
異種族を目の敵にしている筈のフリーディアから勧誘を受けたこと、加えてクーリアが本気でミグレットをスカウトしようとしていることに困惑する他ない。
『狂ってなんていないさ。君の持つ潜在能力は、この場にいる誰よりも凄いものなんだって、私は知っている』
「な、何を言ってるですか……」
『シオンちゃんを元に戻したのって、君だろ? 通信機を独学で開発したことといい、本当に凄い技術者だ。そこらの塵芥と一緒に葬られるなんて勿体無い。だから私のもとに来て存分に腕を奮ってほしいのさ』
「えらく自分のこと買ってるようですが、そんな注目するような腕してねーですよ」
あの時、シオンを救った奇跡の神遺秘装。その力が、あれ以降発動する兆候はなく、苦心していることは仲間にも秘密にしている。
『そんなことないさ。君の造るマジックアイテムは、我々フリーディアすら目を見張るほどの価値がある。
もし、私に協力してくれるなら、いつでもミグレットちゃんの力を引き出せるようにしてあげるよ』
「…………」
ミグレットの潜在能力を、誰よりも理解しているのは己だとクーリアは自負していた。そんな彼女の誘いに乗る程ミグレットは愚かではない。
僅かに逡巡してしまったのは、自分でも未知な神遺秘装の力を引き出す術を得ることができれば、皆を助けられるのではないかと思ったから。
「有り得ねーです、馬鹿にすんのも大概にしやがれです、こんちくしょう!」
しかし、その選択肢を選ぶことは天地がひっくり返っても有り得ないと、ミグレットは高らかに豪語する。
『なら、お願いが駄目なら取引しよう。ミグレットちゃんがこっちに来てくれるなら、ユーリ・クロイス含めた全員の命を助けてあげる。もし断れば、君とエレミヤさん以外は皆殺しだ』
「!?」
最早、検討の余地すらない脅しにも等しい取引内容に、今度こそミグレットは言葉を失ってしまう。
「ミグレットせんせー! 考えちゃダメ!」
「で、ですが……」
戦況はどう見てもこちらが不利。ミグレットが身を差し出すことで、皆の命が助かるなら……。
『じゃあ更にオマケして、イリスさんも付けてあげる。どう? こっちとしては、かなり譲歩してるつもりなんだけどねぇ』
「なっ!? イリスですって!?」
クーリアの言葉に反応したのは、当然エレミヤだ。
「クーリアって言ったわね、あの子はどこ!? イリスに酷いことをしたら只じゃ置かないわよ!」
『今、ミグレットちゃんと話してるから、外野は黙っていてくれない?』
「何ですってッ」
エレミヤが何を言ったところで、クーリアが口を割ることはない。
『で、どうするのミグレットちゃん?』
「あ……」
そんなことを言われたら、頷く以外の選択肢がない。足手纏いのミグレットにできることは、クーリアの要求に従い、大切な仲間たちの命を救うこと。手厚く歓迎してくれるようだし、敵の懐に入り込んで、撹乱するのも一つの手ではないのか?
「自分は……」
今も必死に鎖の束縛に抗うユーリの表情は、苦悶に満ちている。シャーレの血を取り込んで、支配から全力で争って逃れようとしている。ナギも同様に、シャーレにいいように支配され、アリカが必死に彼女を抑えていた。
そんな彼らを救えるとしたら、ミグレットのマジックアイテムだけ。腰に付けたポーチの中を弄り、かつて奇跡を起こしたマジックアイテム――治癒包帯を取り出した。
『へぇ、抵抗するんだ』
クーリアからすれば、従おうが争おうが結果は変わらないと余裕の声音だ。
「オメェ、自分一人だけ高みの見物決め込んで恥ずかしくねーですか?」
『ん?』
ぷるぷると震えながら包帯をギュッと握りしめるミグレット。皆が必死に争っているのに、自分だけ楽な方へ逃げようとしてしまった事を恥じながら声を絞り出す。
「自分、オメェらにだけは意地でも負けたくねーですよ……」
今も余裕の態度で微笑んでいるシャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガー、そして自分だけ安全な場所でこちらを見ているクーリア・クロウ・ククルウィッチ。
「見てやがれです! 自分が皆を助ける――オメェたちの思い通りにはさせねぇです、こんちくしょう!!」
「ミグレットせんせー!」
ミグレットの意志を受け取ったシオンが、一目散に彼女を抱えて駆け出していく。
「シオン、先ずはナギを救うです! エレミヤ! フォロー頼むですよ、こんちくしょう!」
「うん!」「え、えぇ!」
ミグレットには分かっている。そう都合良く神遺秘装は発動してくれないと。ご都合主義なんかに期待せずに、今自分ができることをする。
要は心の持ち様だ。ミグレットの言葉に触発されたシオンとエレミヤの表情から希望の光が灯り出す。
「アリカ! ナギ、抑えていてくれですよ!」
「無茶言ってくれる……ッわね!!」
そう言いながらも、アリカは巧みに剣技を繰り、回り込んでナギの身体を羽交締めにする。
「技能術・解析――ナギは、シャーレの血を取り込んだわけじゃねぇです、肌に付着しただけですから意志までは奪えず抵抗力は弱い!!」
解析スキルを伴った瞳で、ナギの皮膚に付着した血霊液の特性を看破していくミグレット。
その間も、シオンとエレミヤが必死になって、セリナの繰り出す鎖から守っている。問題はシャーレだが、彼女はこちらにあまり興味を示さず、今も抗うユーリの方ばかり見ている。
今に見ていろ、その余裕の表情を変えてやる。
「治癒包帯!!」
そして、ミグレットはナギの皮膚に付着した血を治癒包帯で綺麗に拭っていく。
「あ……」
痕すら残らず、血が綺麗に消え去った瞬間、ナギの身体は驚くほど軽く、自由意志のもと動くようになった。
「あら? その包帯凄いですね。私の魔力が切断されてしまいました」
血に残留したシャーレの魔力が消えたことで、最厄の支配から逃れたナギは、今度こそユーリを助けるべく再び白雷を解き放った。
「ありがとう、ミグレット。今度はあいつの血を浴びないようにするね――アリカ!!」
「えぇ!!」
ナギとアリカ・リーズシュタットが、本格的に参戦し、グランドクロスとの戦闘が本格的に激化する――筈だった。
「残念でした! ちょっと遅すぎましたね」
「「!?」」
「支配完了――後はお願いしますね、お兄さん♪」
シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガー。彼女は、ファルラーダのような自分の力で他者を捩じ伏せることを好んでいない。
ナギやアリカのような戦士の気質を持つ者たちと正面から力比べをしても疲れるだけで、そんなものは野蛮人のすることだと思っている。それは淑女の生き方ではない。
彼女はただ混沌と絶望を生み出す最厄として君臨していればいい。邪魔者の掃除は、眷属の務め、吸血姫はただ純血を与えて支配するのみ。
「「!?」」
攻勢に移ろうとしたナギとアリカは、シャーレの身を守るように前へ出るユーリ・クロイスを見て、動きを止めざるを得なかった。
先程まで抗っていた彼は、驚く程静かな虚無に満ちており、ジャラジャラと鎖の音叉を奏でながら、虚な眼差しで彼女たちを見据えていた。