第155話 純血の円舞曲
オリヴァー・カイエスと、サラが異変に気付いたのは、阿鼻叫喚に包まれた人々の逃げ惑う姿を視界に収めた時だった。
「な、何が起きたんだ……この騒ぎは一体!?」
「オ、オリヴァーくん! あれ見て!」
サラが、オリヴァーの腕を引いて指を指した方向――土気色の肌をした異形な人間の集団が、怨嗟を轟かせながら人々を襲っていた。
「た、助けてくれぇぇええーー!!!」
何がどうなってそのような状況に至ったのかは分からないが、助けを乞う人々を無視するという選択肢はない。
「魔術武装・展開――薔薇輝械!」
祖父の遺産、カイエス家に残された唯一の誇りといってもよい魔術武装を展開し、正体不明の敵の大群を薙ぎ払うべく白薔薇を振り翳す。
「サラ!」
「うん!」
敵の進路を防ぐべく、薔薇輝械の伸縮性を利用して、何十メートルにも引き伸ばす。更に加えて、網目状に絡ませていくと、即席の壁を生み出した。
何体か取りこぼしてしまったが、そこはサラがカバーする。逃げる人々を守るため、追ってくる狂気の骸へすかさず蹴りを放つ。
「何なんだ、こいつらは!?」
人々を襲う者たちは、どう見ても人間にしか見えず、まるで屍が鬼と化し本能のままに動き出しているかのよう。
オリヴァーが作り出した即席の網壁を突き破ろうと、荊に肌が食い込み、肉が裂けても尚、前進し続ける屍たちに戦慄が奔る。
こんなの、まともな人の死に方じゃない。一体何が原因でそうなったのか? 彼らはすでに死んでいるから、痛みを度外視で無茶ができる。
サラが取りこぼした屍と応戦しているが、倒しても倒しても立ち上がってくるため、彼女の表情にも焦燥感が滲み出ていた。
「オリヴァーくん、このままじゃマズいよ! 何とかしてユーリくんたちに――」
このままではキリがないと思ったのか、サラはユーリたちの助けを求めようと声を上げるも。
「――させると思いますか?」
「「!?」」
狂乱の悲鳴を上げながら逃げる人々の進行方向から、一人の女性の鋭い声がオリヴァーたちを突き刺した。
慌てて振り返ったオリヴァーとサラの視線の先には、逃げ惑う人々の合間を縫いながら、夢遊病のような足取りでこちらに歩み寄る一人の使用人と思しき女性の姿が。
「フィ、オネ……?」
――フィオネ・クルージュ。
オリヴァーの専属使用人で姉のように慕っていた大事な家族。叶わずも恋に敗れ、悲嘆に暮れていた筈の彼女が、何故この状況下で現れたのか?
オリヴァーたちの助太刀に来た? 否、断じて違う。彼女の表情からは憎悪がありありと浮かんでおり、逃げ惑う人々や屍鬼の大群など見向きもしていない。
「ようやく見つけた……そうだ、お前だ……お前が……お前さえいなければッ」
絶対に許さない。サラがいなければと、フィオネは憎き恋敵へ向けて、強大な怨念を声に乗せて解き放った。
「よくも坊ちゃまを拐かしてくれたな――異種族!!」
人類の仇敵である異種族が、土足でフィオネの心を踏み躙った。許されざる蛮行を働いたサラを殺すだけでは飽きたらない。この街全てを地獄に変えてでも後悔と苦痛を与えてやると、殺意の咆哮が爆ぜていった。
◇
"俺は、母さんの思い描く理想の愛玩動物なんかじゃない!!"
あの時、何であんな思ってもない言葉を言ってしまったのか……。
"もういい!! 俺はもう決めたんだ! 統合軍に入って戦果を上げて、皆んなに認めてもらうまで帰らないからな!!"
今思えばくだらない。自分のことでいっぱいいっぱいで、周りのことなんて気遣ってる余裕もなくて、勢いのままに家を飛び出して軍に入隊したこと。もっと他にやりようはあった筈で――母を悲しませた挙句に、心配までかけて自分の事情に巻き込んで……。
セリナは、神として生み出されたユーリが普通の生活を送っていけるよう自分の人生全てを捧げて守ってくれていた。そんな母を傷つけた自分は、なんて親不孝者なのだろう。
だって、仕方ないじゃないか。あのやり取りが直接対面して母と交わす最後の言葉になるなんて思ってもいなかったのだから。
謝りたい、だけどもう謝れない。物言わぬ最厄の傀儡と成り果てた母にはもう、ユーリの言葉は届かない。
「シャーレェェッ!!!!」
――グランドクロス=シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガー。
シオンを陥れた時と同じく、再び最厄の饗宴を引き起こしたユーリの仇ともいえる存在。
彼女が何故ここにいるのか何も分からない状態のまま、ユーリは慟哭の叫びを上げながら変幻機装を展開し、機械仕掛けの剣に換装させて斬りかかった。
「!?」
しかし、母がシャーレの前へ躍り出て庇ったため、寸でのところで勢いを殺し刃を止める。
「ユー、ちゃん……そんな危ないもので斬りかかったら、駄目でしょ?」
生気のない瞳で、母は穏やかな笑みを讃えながら注意する。後一秒でも止めるのが遅ければ、今頃セリナの身体は真っ二つに斬り裂かれていた。
「あ、あぁッ……」
母を斬る――その行為がどうしようもなく恐ろしくて、狼狽を露わに踵を踏んだ。更に、そのユーリの脚へ手を伸ばす、治安維持部隊兵士の成れの果て。
「なっ!?」
シャーレの魔法により、屍鬼へと変貌した元人間は、四つん這いの状態で、足を掴んできた。まるで墓を破って出てくるホラー映画の演出を思わせる様相だった。
「うわぁぁああぁぁッーーー!!」
呪詛と怨念を滲ませた呻き声は、悲しさよりも悍ましさが勝ち、ユーリは一心不乱に剣を振り回した。訳の分からぬまま、強引に屍の腕を斬り落として、必死に退避する。
「ガァ……アァ」
腕を斬り裂かれても、頭の半分を損壊し、脳髄を撒き散らしても尚、動きを止めようとしない。地べたを這いながら迫る屍鬼へ向け、今度は銃形態へと換装させ、何度も何度も原型を留めなくなるまで魔弾を撃ち放った。
「ハァハァハァ……」
何だ、これは? 何なんだ……。理解の追いつかない光景の数々に、ユーリの精神力が加速度的に摩耗していく。
「お兄さん、どうですか? あなたに会うために、相応の舞台を用意したのですが、気に入っていただけましたか?」
月明かりに照らされた夜の吸血姫は、無邪気かつ純真無垢な、どこか妖艶さすら兼ね備えた微笑みを浮かべていた。
「シャーレ……お前は、誰なんだ? 何で、この状況で笑っていられるんだよ……こんなのまともな神経でできる人間なんて存在しない――お前は一体、何なんだ!?」
シャーレは、人の皮を被った悪魔か何かだ。彼女の正体は何だ? 絶望と嘆きの怨嗟を蜜の味とする絶対悪は、何故この世界に生まれてきたのだ?
「さぁ、私は一体何なんでしょうね? クリスフォラス卿も、テスタロッサ卿も、皆人間の紛い物と蔑みますが、私からすればこの行為の何がいけないのかさっぱり分からないんですよ」
惚けた事を言いながら、シャーレは無窮血鎖棺から禍々しい血色の鎖を幾重にも解き放ち、あろうことかセリナの身体へ巻き付けていく。
ジャラジャラと、不規則なリズムを刻みながら、されるがまま囚われた母の表情は、今も虚で何の景色も映し出していない。
「シャーレ!!」
「安心してください。他の方々と違って治安維持部隊総司令さんはまだ生きています。
彼女の地位を利用すれば、異種族さんだけでなく、人間も纏めて絶望を与えることができるんです! 誰が大人しくミアリーゼ様の指示に従うものですか、私は私のしたいようにする。世界全てを闇に染め上げる! そうすることで、ようやく私は私になれるんですよ!!」
「狂人が! 今すぐに母さんを放せ!!」
母は操られているだけで、屍鬼になったわけじゃない。それが分かっただけで、少しは希望を見出せる。つまり、元凶たるシャーレさえ殺せば、セリナは解放されるということ。
「換装・黎切!」
紅鴉国光をベースに、漆黎の刀へと再現させたユーリのオリジナル魔術武装。
血鎖に絡まれた母は動かず、シャーレは一歩前へ詰め寄る。今度は、彼女が応戦する気のようで、ユーリからすれば好都合だと、こちらも距離を詰め、黎切を振り抜いた。
「あら?」
アルギーラ戦で行った時と同じように、指だけで止めようとしたシャーレだったが、人差し指と中指が野菜のようにスパンッと、寸断されてしまう。
「以前の俺と同じだと思うな!」
切断面から噴き出す血を物珍しげな表情で眺めているシャーレは、完全なる無防備だ。隙だらけの吸血姫へ向け、今度は下段から黎切を斬り上げた。
クレナ・フォーウッド、ダリル・アーキマン、ファルラーダ・イル・クリスフォラスといった強敵との戦闘を経て、以前よりも格段に戦闘能力は増している。
胸を裂かれ、致命傷を受けたシャーレは戦闘続行不可能だろう。後はこのまま母を救い、この場を離れるだけだ。そう思った瞬間――。
「痛いじゃないですかお兄さん。私も一応女の子なんですから、もう少し労ってください」
「な!?」
シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガー。ユーリは知る由もない、彼女は他の人間たちとは違う、唯一無二の特性を持っている。
「私、この程度の傷じゃ死ねないんです」
それは不死性――裂かれた胸も、寸断された筈の指も、何事もなかったかのように綺麗に元に戻っている。彼女は決して死なない。どんな傷も本人の意志に関わらず、瞬時に再生してしまうのだ。
「まさか、血霊液!?」
ユーリは、記憶遡行で目にした、ヴァンパイヤの少女が保有していた神遺秘装が脳裏に浮かび上がる。
あの日垣間見た、ヴァンパイヤと全く同じ特性を持つシャーレの存在に、愕然とするユーリ。その隙を付いて、先程まで静観していた母が、血鎖に巻かれた状態のまま、すかさずユーリへ向けて鋭い蹴りを穿った。
「がっ」
生気のないセリナの足先が、鳩尾にめり込み、呼吸困難に陥ったユーリは、勢いのままに吹き飛ばされる。その間もぐるぐると思考は回転し、シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーという未知の存在の正体を探ろうと必死だ。
「お兄さんじゃ、どうあっても私を殺せませんよ? 勿論、他のグランドクロスでも不可能です。不死の呪いに見舞われた私を殺せるのは老い――時間という概念しかありません」
時間……つまりは寿命こそがシャーレを殺せる唯一の理。頭が吹き飛ばされようと、身体がバラバラに引き裂かれようが、血霊液の前では全てが無為となる。
「ぐっ……答えろ、シャーレ! お前は、異種族――ヴァンパイヤなのか!?」
痛みを堪えて立ち上がったユーリは、シャーレの真を問いかける。
「先程も申しましたように、私が何者であるかは私にも分かりません。私の真実を解き明かす鍵は、お兄さんにあると思っています。解えを知るために、だからこうして会いに来たんじゃないですか」
「解え……くっ」
この悲劇は、シャーレ流の最上位の饗。そう理解した瞬間、彼の魔術機仕掛けの神の言葉が脳裏に過ぎった――。
"ユーリ、あなたはシャーレにとてもよく似ていますね。あの子も私に問うていましたよ、何故人は悪を忌避するのか? 悪は誰もが持ち得る感情だというのに、曝け出すことの何がいけないのかと"。
そう……あの時、人類の祖たる魔術機仕掛けの神が言っていたように、シャーレには最厄の饗宴が悪い事だとは思っていないし、根本的に物事の道理を理解していない。
「お兄さんと殺し合えば、お母様が懐いた愛を理解できる――在るべき本当の私を取り戻せるんです!」
シャーレが戦う理由は、酷く利己的だが、ある意味では最も人間らしいともいえる。ユーリ自身、欠けた記憶のピースを埋めるためには、シャーレの存在は必須だと考えてしまう。
ヴァンパイヤと同じ特性を持つシャーレは、父が推進していたジェネラル計画と、どう関係しているのか?
「呪法・屍鬼隷属感染爆発」
人間である筈のシャーレが、異種族しか与えられない恩恵である魔法を扱える道理とは?
これまで大人しく傅いていた屍鬼たちが、強制的に飢餓状態へ追いやられる。彼らが求めしは、生者の生き血。噛まれた者は、シャーレの魔力が感染し、死よりも恐ろしい屍へと変えられてしまう。
ユーリの血肉を求めて、屍鬼たちは本能の貪るがままに一斉に襲いかかる。
「換装・風弾!」
しかし、所詮は意志のない化け物。四大魔弾を属性変更して解き放った小さな台風には抗えず、この世のものとは思えぬ絶叫を上げながら吹き飛ばされていく。
「――流石、クリスフォラス卿と戦って生き残っただけはありますね」
「!?」
いつの間に接近していたのか、シャーレの拐かすような甘い声音が耳を掠める。
「うふふ、掴まえました」
優雅かつ大胆にユーリの手を取るシャーレは、華麗に舞うように棒立ちするセリナ目掛けて投げ飛ばした。
「ぐあっ」
華奢な身体からは想像付かない程の膂力に動揺しながらも、何とか母にぶつかる前に体勢を整えなければならないと、瞬時に思考を切り替える。
「無窮血鎖棺、ユーちゃんを捕まえて」
刹那、母に絡みついていた鎖が意思を持ったかのように蠢き出す。あれの危険性は、アルギーラ戦で嫌というほど体験した。一度捕まれば、決して逃れることはできない。
「風弾完全解放!!」
それだけはさせまいと、ユーリは渾身の魔力を込めて直下へ撃ち放ち、その勢いを利用して上空へと逃れていく。ジェット機顔負けの速度で急速転換したため、内蔵が弾け飛びそうな程の負荷がかかる。
「くっ、けど距離は稼いだぞ。このままシャーレを圧し潰して、母さんと引き離す!」
上空へと躍り出て、夜空が照らす星々の海に囲まれる中、ユーリは渾身の魔力を込めて、地表でこちらを見上げるシャーレへ狙いを定める。
「換装・千術魔閃斬々剣――」
あの千術姫の有する戦略破壊兵器の力があれば、シャーレを圧倒できる筈。
無理して殺す必要はない、母を気絶させて撤退すればいいだけだ。後のことはそれから考える。今はとにかく最厄の饗宴が織りなす舞台から降りることが最優先。そう思ったユーリだったが――。
(違う、俺は何を!?)
寸前で換装をキャンセルしたユーリは、根本的な問題に気付いてしまった。
「………ここは、戦場じゃない。オリヴァーの故郷――戦争とは無縁の人々が暮らす街だ」
そう、ここはドラストリア荒野じゃない。千術魔閃斬々剣を解き放ってしまった場合、墓所一帯が消し飛ばされてしまう。それ以前に、この墓地にはオリヴァーの祖父も眠っているのだ。
墓所周辺には、大きな公園や舗装路があるだけで、幸いにも人気はない。民家からも離れており、余程のことがない限り巻き込まれることはない筈。
「駄目だ、できない……」
しかし、自分勝手な都合で街を破壊してしまえば、あのクレナ・フォーウッドが憎んだテロリストそのものになる。それは駄目だと、残った理性が溢れ出る魔力を押し留めていた。
重量に従い地表へ落下するユーリの瞳に、都市タリアの街灯りが映る。遠目故に状況は分からないが、建物が至るところで炎上しており。
「あれは、まさか!?」
シャーレが開演した最厄の饗宴は、ここだけに留まらず、都市タリア全体を舞台にしているというのか。とすれば、オリヴァーやサラ、カイエス邸にいるナギたちにも危険が迫っているということに。
「お兄さん、どうしちゃったんですか? せっかくの反撃のチャンスを棒に振るなんて……うふふ」
「ッ」
愕然とするユーリの前に、シャーレが踊るように跳躍し、接近していた。空中という身動きが取れない状況の中、最善手は――。
「換装――」
眼前まで迫ったシャーレは、何故かそっとユーリの手を取った。
「いちいち武装を切り替えなければならないのは、面倒じゃないですか? 私が先導しますので、一緒に円舞曲を踊りましょう」
足場のない空中を舞台に手を取り合う二人の少年少女。最早、戦いという概念すらも無に帰すような摩訶不思議な状況に、ユーリは焦燥感を漂わせ、シャーレから逃れようとするも。
「うふふ」
「がっ!?」
円舞曲などとは程遠い、華麗かつ苛烈な暴力の嵐が容赦なくユーリの身体へ降り注いでいく。華奢な見た目からは想像できない、あのファルラーダ・イル・クリスフォラスに匹敵する程の破壊力に抗う術を見出せない。
(強さだけじゃない、場所といい状況といい、とにかく戦り辛いッ)
ユーリはこれまで、格上相手に自分の全てを曝け出して全力で戦ってきた。それこそ、周囲の被害など頓着したことは一度もなく、憂いなく全力を行使してきたのだ。
それが今度は、周囲に被害が及ばぬよう配慮しなければならないことに加えて、母の置かれた状況や、シャーレの奸計に翻弄され続け、戦闘に集中できていない。
ナギ、クレナ・フォーウッド、ダリル・アーキマン、ファルラーダ・イル・クリスフォラスとの戦闘を経て得た筈の経験値が、何一つ活かせずにいる。精神状態も相まって、著しく戦闘能力が低下したユーリは、そこらの雑兵と変わりない。
「ぐはっ!」
一方的にサンドバッグになりながらも、シャーレは決して手を緩めずに、夜空の円舞曲を刻んでいる。
「これで、終演です!」
墜落するまであと僅かというところで、シャーレは強烈な回し蹴りを放ち、ユーリを地表へと叩きつけた。
「ごはっ!?」
受け身を取る暇さえなく、大地に激突したユーリは、見るも無惨なボロボロの姿だった。並みの生物であれば即死していたであろうに、人工的に神として生み出されたユーリは、皮肉にも健在であった。
一方のシャーレは、スタンッと華麗に着地し、スカートの裾を掴み、一礼する。観客として、二人の円舞曲を眺めていた亡者たちから、怨嗟の喝采が沸き起こる。
「くっ、悪趣味な……あぐっ」
徹底的に死者を陥れるやり方に、怒り任せに立ちあがろうとするも、セリナから放たれる鎖に身体を絡め取られてしまう。
「母さ、ん……お願いだから、目を覚ましてくれよ」
されるがまま宙に固定されるユーリには、一縷の望みにかけて母に懇願するしか手段を持ちえない。
「抗うことすらできずに絶望へ堕ちたお兄さんのお顔……とっっっても、素敵です」
混沌とした夜を支配する吸血姫は、蕩けるような笑みを讃えてユーリへ歩み寄る。
「これが、愛なんですね。お母様が、ヨーハンさんに懐いた気持ちがようやく理解できました」
「な、何で……お前の口から、父さんの名前が……」
思わぬところで父の名が出た事に驚愕するユーリは、そこで一つの真実を見出した。瞳に映るシャーレの御姿が、記憶にあるヴァンパイヤの姿と重なっていく。
愛? 彼女は、異生物学者を憎んでいたわけではない? シャーレが知りたがっている真実は、自分が何者で、どうして生まれてきたのかという未知の根源を見出すこと。
"残念だけど、僕にはもう一つ罪があるんだよセリナ。とても口では言えない、人して絶対に犯してはならない禁忌に手を出した。
一時の気の迷い……なんて言わない。六年前……僕は、彼女に――"
アージア生物学研究所で、ヨーハンがセリナへ向けて言おうとしていた言葉。ヴァンパイヤの起こした騒動により、最後まで聞けず有耶無耶になってしまったが、もしそれがなかったら一体どんな真実を明かしていたのだろうか?
その時――。
「「「「「――ユーリ(おにーちゃん)!!!」」」」」
異常事態に気付いたであろう、ナギ、エレミヤ、アリカ・リーズシュタット、シオン、ミグレットの五人の姿が視界に映るも、全てが手遅れ。
「お兄さぁーん……」
シャーレは、見向きもせず小指を噛み切り、付着した朱を唇へと塗り重ねていく。どこか煽情的かつ蠱惑的な魅力を放つシャーレに、ナギたちは魅入られるように足を止める。
徐々にユーリの顔に近づいていくシャーレは、一体何をしようとしているのか?
「……やめ、て」
いの一番に察したナギは、わなわなと震えながら懇願する。彼女にとって、その行為は特別な意味を持つもので。絶対、誰にも譲りたくないものでもある。
「うふふ」
シャーレは、戦慄するナギたちを横目に、純血に染まった唇を見せつけるようにユーリの唇へと重ねていった。