第153話 一方通行の愛
目的地であるカイエス邸に到着し、後はフリーディア治安維持部隊総司令セリナ・クロイスが囚われたイリスを連れて合流するのを待つだけ。
そんな矢先に、着いて早々とんでもない修羅場を見てしまったユーリ・クロイスは、廊下の隅で一人頭を抱えていた。
(今はそんなことしてる場合じゃないだろ――って言うのは簡単だけど、当人たちにとってこれは何よりも重要な問題なんだ。
俺も軽率すぎた……エレミヤとナギに何て言って謝ればいいんだ)
正直に言うと、ユーリは恋愛感情がどういうものかよく分かっていない。大切だと、守りたいと思う気持ちとどう違うのか? ユーリにとって、エレミヤたちに懐く感情は等しく平等なのだ。
「父さんと母さんも、あんな風に悩んで結婚したのかな……」
名家として名を連ねる家系は、結婚相手を選ぶことはできない。ミアリーゼ然り、ユーリ本人も当然将来結婚する相手は格式の高い家柄の女性に限られるのだ。例え恋愛したのだとしても、成就することはないため学生時代に遊び半分で片付ける名家の跡取りは沢山いる。
中等部に通っていた頃も、何度かお誘いを受けたことはあるが、丁重にお断りしていた。友人たち曰く、お前は真面目すぎるとよく言われていた。
「恋愛……か。俺には縁遠いと思って全然本気で考えたことなかった」
環境を言い訳にするわけではないが、恋愛をどうしても一歩引いた目線で見てしまう。ユーリとしては、恋愛よりも世界を変える方がよっぽど重要な事柄。
「俺は、神の視点で物事を見ている……ダリル・アーキマンはそう言っていたな」
"はは、君は本当に純粋で真っ直ぐな性格だな。綺麗すぎるよ、君の理想は。簡単なようでいて、一番困難な道だ。
失望を通り越して清々しいよ。どんな状況に陥ろうと君の精神は揺るがない、ブレない。けれどね、ユーリ・クロイス――そんなものは普通の人間が考えることではないのだよ"。
"君の思考は、神の視点から物事を見ているということさ。だから他の皆は君の理想に触発されていく――いや、信仰……かな?
神が存在しないこの世界で人は新たに誕生した神に魅入られていく。君は自分を普通の人間だと思い込んでいるのかもしれないが、それは大きな間違いさ。改めて言おう――君は普通じゃない。
自分がもっと選ばれた有能者であることを誇るべきだ"。
脳裏に過ぎるダリル・アーキマンのあの言葉。エレミヤもナギも、オリヴァーやサラだって自分の事で精一杯で――綺麗なままでいられない自分を受け入れて、それでも必死に足掻いて生きている。
「ミアリーゼ様も……そうなのかな。俺と同じで使命の奴隷になっているんだろうか」
フリーディア統合連盟総帥代行として、以前まであった暖かな笑みが完全に消えてしまっていた。多分彼女はもう、ユーリを見ても笑ってくれない。以前のように手を振ってはくれない。
"お前は感情ってもんを履き違えてる。このままじゃお前、使命の奴隷のまま一人で突っ走ることになるぜ?"
"振り向いた時には誰もいねぇ。後で後悔しても既に手遅れ。何処かの誰かさんみたくなりたくなけりゃ、愛してるって言葉にしてやれ"。
ナイル・アーネスト――神が別れ際に放った最後の言葉。彼は、ユーリ以上に人の感情について理解を示している様子だった。
「ふぅ――よし! ごちゃごちゃ考えても仕方ない。今しかできないことをやろう!」
そう言って両の頬を引っ叩き、改めて気合を入れ直すユーリ。ちょうどオリヴァーも部屋から飛び出してきたので「オリヴァー!!」と、叫んで呼び止める。
「ユーリ! すまないが今君に構っている時間は――」
「分かってる! けど闇雲に追いかけてもサラは簡単には見つからない。それにそんな状態じゃ、言葉も回らないだろ?
サラが本当に望んでいるのは何なのか、ちゃんと考えてから追いかけた方がいい」
「………あぁ、そう……だな」
ユーリに言われ、少しだけ冷静さを取り戻したオリヴァーは額を抑えて肯定した。
「というか、君にだけは言われたくないぞ! エレミヤといいナギといい、変に気を持たせた挙句!あの仕打ちはないんじゃないか!?」
「ご尤もで……」
エレミヤとナギに何て言って謝ればいいのか分からず、廊下で立ち往生しているユーリも、人のことは言えない。
ナギ、エレミヤ、サラ、フィオネ――その日の内に四人の女性を泣かせた男二人は、女心の複雑さを思い知ったのだった。
◇
不死の吸血姫――アリシア。久方ぶりに拝んだ母の記憶は、言語を絶する程に悲惨な有様だった。
フリーディアに捕らわれた異種族に、人権など有りはしない。麻酔もなしにメスを入れられ、身体の至る所まで弄られ、喉が潰れるほどに悲鳴を上げても、決して手を止めようとはしない。
なまじ血霊液の影響で傷口がすぐに塞がってしまい、それをさせまいと異生物学者たちは、機械を用いて傷の開いた部位を固定する。脳を切開し、特殊な機械を埋め込んで計測、検証、再計測と終わらない生き地獄を延々と繰り返していく。
ギシギシギシと、肉体の再生と固定された機械の反発力が鬩ぎ合い、激痛を超えたアリシアを、絶望より深い水底へと叩き落としていく。
毎日、毎日、飽きもせず、二十四時間三百六十五日を何度も繰り返した。常人ならばとっくに廃人になってもおかしくない状況でも、母は自分を保っていた。フリーディアに対して憎しみを懐くでもない、自身の現状を嘆くでもない。母の内に抱える感情は、娘の理解の先を遥かに超えていたのだ。
ハッキリ言って正気の沙汰ではない。何故ならアリシアは、あの人と会えるから――ただそれだけの理由でこの地獄を耐えているのだから。
「毎度毎度、君には驚かされるよ。君の未来は既に閉ざされている。だというのに何故笑っていられるんだい?」
ユーリ・クロイスの面影を残した一人の青年――そう、秘密裏にジェネラル計画を実行しているヨーハン・クロイスの言うように、拘束具で磔にされているアリシアは、穏やかな笑みを讃えているのだ。
本日の実験は終わり、研究室にはヨーハンとアリシアの二人だけしか存在しない。まるで世界に二人だけが取り残されてしまったような、そんな孤独を思わせる空間で母は言う。
「ヨーハンさん。前回の続きを……教えていただけますか?」
母の心は絶望とは縁遠い、光に満ちている。弱々しくも儚げな様相を漂わせる吸血姫の美しさは、人間ですらも魅了してしまうのか。
「…………」
母の言葉に従い、ヨーハンは無言で鼻を鳴らし、手にしているノートパソコンの画面を彼女へ向けた。
「わぁ……」
母の目に映されていたのは、焦がれて止まない光の世界の情景。眩く輝く太陽の下で、人間たちが生活する様子を、アリシアは目を輝かせて見つめていた。
「ここは、カーラと呼ばれる都市でね。今見せている画像は、有数の名家の令嬢が通うカーラ女子学院と呼ばれる学び舎さ」
画像や映像で映し出されたカーラ女子学院の様子を、アリシアは嬉しそうに微笑んで見ている。
「凄い、皆同じ服……とても可愛いらしいですね。うふふ」
毎日の拷問に等しい研究に疲弊しながらも純真無垢に笑うアリシアに対し、ヨーハンは何を思うのか? 与える筈の絶望と真逆の事をしていること、他の研究員に黙ってこんなことをしていると知られたら、彼の立場も危うくなる筈だ。
非合理的な異生物学者らしからぬ彼の姿は、とても弱々しく見えた。
「ヨーハンさんも、学校へ通ってらしたんですか?」
「あぁ。僕が通っていた学校は、異生物学専攻科だったから、殆ど勉強ばかりしていたけどね。画面に映っているような青春時代は送らなかった」
「私も……一度でいいから通ってみたい。お日様の光を浴びてヨーハンさんと、一緒に――」
アリシアは、ありもしない幻想に酔いしれている。ヴァンパイヤ王の娘として生まれた母に待つ運命は決まっているというのに。
「悪いが、それは不可能だ。君は永遠にこの研究室に囚われたまま、終わらない生き地獄を味わうしかないのさ」
冷酷に現実を叩きつけるヨーハンに対し、母は気にした様子もなく言う。
「そうですね……。でも、夢くらい語ってもいいじゃないですか。ここには今、私とヨーハンさんしかいないんですから」
外の世界に関する知識が増えていく度に、アリシアは沢山の夢を想い描くことができる。母にとって、城に閉じ込められていた時と今の生活に違いはなく、ヨーハンとこうして語り合うことだけに喜びを見出している。
「今日は、偶々《たまたま》僕が当番なだけさ。まさか君は、他の研究員たちにも同じ戯言を宣いているのかい?」
「他の方とは、口すら効いていませんよ。そもそも、こうして顔の拘束具を解いて話しかけてきてくれるのはあなただけ。だから私は感謝してるんです……」
母の言う通り、ヨーハンはわざわざ顔を厳重に覆っていた拘束具を外すという手間をかけている。普段は闇に閉ざされたアリシアが、唯一瞳を開けられる瞬間だった。
「感謝、だって?」
ヨーハンは、不可解さを隠せない様子で問いかける。
「はい。お城に閉じ込められたままじゃ、決して見る事の叶わなかった景色を見せてくれること……。ヨーハンさんは不思議に思っていらっしゃいますが、あなたが素敵な景色を見せてくれるから私は笑っていられるんです」
それを聞いたヨーハンは、終始理解できないと否定するが、アリシアにとって彼は希望を照らす光に見えるようだ。
「あなたがいるから、私はこの地獄を耐えられる……次はどんな景色を見せてくれるんだろうって、どんなことを教えてくれるんだろうって、そんな些細な楽しみを糧に今日を生きられるんです。
ヨーハンさんが会いに来てくれる……あなたのためなら私は、どんなことをされても――」
「――止めてくれ!」
悲痛なヨーハンの叫びが、アリシアの言葉を遮った。聞くに耐えない戯言を振り払うように想いを吐き出す。
「僕は、心を殺しきれない偽善者だよ。神を生み出すことは確かに僕の悲願ではあるが、それとこれとは話が別だ。
確かに君のおかげで、神の因子を造り出すことには成功したさ。だけど、毎日泣いている君を見て、僕の心が痛んで仕方ないんだ!
何の罪滅ぼしにもならない偽善行為に、生き甲斐を見い出さないでくれよ」
「ヨーハンさん……」
なるほど、他の異生物学者たちとは違い、ヨーハン・クロイスという男は存外まともな神経を持っていたらしい。中途半端に優しいから、罪悪感を消化しきれず、偽善行為に身を費やし、贖罪するしかないのだろう。
既に精神が限界だった。今日、この日、この時、この場所で、偶々《たまたま》心の均衡が崩れただけ。ヨーハンは、見るに耐えない情けない表情で母へ向かって叫ぶ。
「もっと僕を憎んで罵倒してくれよ! 奴隷以下の扱いをされて感謝するんじゃない!」
ヨーハン・クロイスは罪の意識に苛まれている。その苦悩は外の世界を知らない母には計り知れない。けれど彼女から溢れ出す想いは、留まるところを知らずに迫り上がるばかりで。
「それに僕は、あろうことに自分の子供に神の因子を埋め込もうとしている。計算した結果、妻が最も適合率が高かった。後は母胎を通して胎児に埋め込むだけで、悲願は成就する……」
自分がこれから行う行為の恐ろしさを実感しているのか、ヨーハンは持っていたノートパソコンをガシャンッと床に落とし、ブルブルと震える両手を自身の頭に強く叩きつけ叫んだ。
「だけど、最後の……最後の一歩がどうしても踏み込めない! 誰でもいい、誰か僕の良心を殺してくれよ!!」
ヨーハンが胸の内に抱える葛藤、慟哭をアリシアだけに曝け出している。伴侶には絶対に知られるわけにはならない、心の闇を――言い換えればそう、アリシアにだけ彼は心を開いている。ヨーハンにとって、母は人形に語りかけているのと同じ心境なのかもしれない。
こうしてストレスを吐き出さないと、自分を保っていられない。中途半端な優しさが、計画の足を引っ張ってしまっている。だから壊してくれと。殺してくれと必死に懇願しているのだ。
「――私が、殺しましょうか?」
そんなヨーハンの力になってあげたいと、母は愛を捧ぐように手を差し伸べる。身体は拘束されているため、実際に手を差し伸べているわけではないが、この時のヨーハンにはアリシアが救いの女神に見えたのかもしれない。
「……あ」
顔を上げたヨーハンは、どこか魅入られるように、縋るように母を見つめている。
「……ッ」
そして、母は唇を噛み切り、芳醇なワインを思わせる濃厚なヴァンパイヤの血を搾り取った。血霊液の力により傷口はすぐに塞がったが、ツツゥーっと口端から流れる朱は依然として残ったまま、妖艶な輝きを放っており。
「キス……してください。私の血を飲めば、あなたは苦しみから解き放たれます。私は、ヨーハンさんを救いたいんです」
「何故、君をこんな目に遭わせた僕を……」
ヨーハンの視点から見れば、アリシアの不可解な行動に疑問を持つのは当然だ。だけど、母からすればそんなの当たり前で……彼女の胸の内から溢れる想いの正体は。
「――好きだから。あなたを愛しているから。理屈とかそんなの関係ない……私は、あなたに全てを捧げたいんです」
異種族から人間へ向け放たれた一世一代の大告白。ジェネラル計画の根幹には、異種族との戦争を終わらせたいという願いがある。だからこの時、ヨーハンには希望の光が見えてしまったのだろう。
「……気持ちは有り難いが、僕には妻がいる。不貞を働くことはできない」
と、最後の理性を振り絞り答えるヨーハンだが。
「浮気くらい誰でもしますよ? ヴァンパイヤだって当然します。私のお父様にも愛人が何人かいましたしね」
王家の娘として生まれたアリシアにとって、男が側室を抱えるのは当然のこと。
「ヨーハンさんに奥様がいようといなかろうと、私の想いは変わりません。
尽くしたいんです、だから利用してください。あなたの夢のために。私の一方通行の愛を受け止めてください」
罪悪感を――心を殺すために。母の持つヴァンパイヤのスキルだけが、それを可能にする。そうすればヨーハン・クロイスの計画は、次の段階へ移行できる。適合した子供を研究し、誰にでも神の因子を宿せるようにする。
「分かった……」
こうして、ヨーハンはアリシアの愛を受け入れてしまった。彼女ですら手に余る愛という名の感情は、たった一度の口づけで満足できる筈もないというのに。
◇
(分からない……お母様のお気持ちが。何一つとして理解できない。
分からない……ヨーハンさんの気持ちが。何故、彼はあんなにも苦しんでいたの?)
一連の過去を垣間見たシャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーの感想は、ただ単につまらないラブロマンスを見せられた……ただそれだけ。
肝心のシャーレ自身の事について何一つ分からず、己の内に流れる忌まわしき血は、今も憎悪と怨嗟の悲鳴を求めていた。
(世界全てを黒に染め上げる。お母様もきっとそう思っていらっしゃると思い込んでいましたが、実際には違った。
愛? 尽くしたい? 何故そうまでしてお母様は……じゃあ、私は何のために生まれたの?)
闇に閉ざされた世界の中で揺蕩うシャーレには、決して理解できない感情。
分からない、分からない、分からない。内から湧き出る疑問と同時に、謎の衝動にも似た発作を持て余し、落ち着こうと一人外へ出る。
タリアという純白の街が、夜という名の闇に彩られ、煌々《こうこう》とした月明かりが世界を照らす。街全体は、ミアリーゼ・レーベンフォルンの声明により未だ騒ついているが、明日には収まるだろう。
月光の下、優雅に歩を進めながら散策に興じるシャーレ。母が嫌いな夜を、シャーレは好む。シャーレが嫌いな陽を、母は好む。
「永遠に、夜が明けなければいいのに」
孤独の異端児は一人、ポツリと言葉を零す。誰にも理解されず、誰のことも理解できない。何故、母は愛に溺れてしまったのか? シャーレの中には愛が一滴たりとも存在しないのか?
今もそう。何も知らず、世論に翻弄される愚者を絶望へ陥れてやりたい。衝動が疼く、渇きを潤せと己の血が叫んでいる。
「……?」
夜の吸血姫が、獲物を求めて闊歩していると、そこに一人の使用人服を着用した女性の姿が視界に映る。
慟哭しきったその表情は、すっかり憔悴しており、瞳には何ら希望も灯していない。ふらふらと覚束ない足取りで、通行人にぶつかっては「気をつけろ!」と、怒鳴られていた。
そんな可哀想な使用人と思しき女性に歩み寄ったシャーレは言う。
「こんなところで奇遇ですね、"先生"」
声をかけられたことに気付いたのか、カイエス家に残った最後の使用人――フィオネ・クルージュが、我に返った様子でシャーレの登場に驚愕していた。
「ヴァイゼンベルガーさん……どうして、ここに」
フィオネは、シャーレの通うカーラ女子学院の臨時講師を務めていた。当然二人は顔見知りで、事情を知らぬ両者とも何故こんなところに? という疑問が渦巻いている。
「先生こそ、どうしてこちらへ? そんな世界が終わってしまったような悲壮感漂うお顔をして、何かあったんですか?」
シャーレとしては、何ら意図のない偶然の再会に過ぎないが、純粋な好奇心から事情を伺うことにした。フィオネはそんな最厄の相貌に気付かず、その場で泣き出す始末。
何故かフィオネの懐く感情と、母の感情が重なって見えて、内心苛立ちを募らせるが、淑女として穏和な笑みを保ちつつ、そっと肩に手を乗せた。
「ここでは何ですから、私の泊まっているホテルに移動しましょう。せっかく再会したんですし、私でよければ話を聞きますよ?」
どうせなら、彼女も巻き込んで盛大に最厄の饗宴を披露してやろう。都市タリアを、恐怖と絶望の怨嗟で全て埋め尽くしてやる。
開演まであと僅か。ユーリ・クロイスを引き摺り出し、今度こそシャーレは忌々《いまいま》しいこの渇望の根源を――その全てを解き明かすと誓った。