第152話 恋の歪
その後、フィオネ・クルージュが乗ってきたリムジンへ案内されるユーリ一行。オリヴァーの祖父の遺産の一つであるリムジンは、かなりの年季が入っており、それでも現役と変わらぬ生き生きとしたエンジン音を奏でながらカイエス邸へと向かっていく。
運転手は当然フィオネ、助手席にオリヴァーが座り、後部座席にエレミヤ、ユーリ(膝の上にシオン)、ナギ。向かいにサラ、アリカ、ミグレットがそれぞれ着席していた。
「え、カーラ女学院ってあの!?」
「はい。まだ半年ですが、坊ちゃまがいらっしゃらない間は、臨時講師として勤めておりました」
「そうか……フィオネは頭もいいし、勉強を教えるのも上手いからな。僕はぴったりだと思うぞ」
「ありがとうございます、坊ちゃま。そう言っていただけるだけで報われます」
車内は、主人であるオリヴァー不在の間、フィオネが何をやっていたのかという話題になり、彼女の口から教員という以外な事実が齎された。
オリヴァーは妾の子であり、カイエス家内では居場所が存在しなかった。フィオネも同じく同僚と上手くいっていなかったらしく、オリヴァーの祖父が亡くなるまでの間は、カイエス邸を離れていたようだ。
こうして傍目に見ても、二人は長年連れ添った姉弟のように仲睦まじい。義兄のランディに虐待を受けても耐え抜いていけたのは、祖父とフィオネの存在があったからなのだろう。
「フィオネ、もう一度言うが僕たちは荊の道を歩もうとしている。せっかく教職に就いたんだ。人生を棒に振ることはない。引き返すなら――」
「何度言われても私の意見は変わりませんよ。元々統合連盟政府のやり方には疑問を懐いていました。ランディ様もそうでしたが、古くからある家は未だに貴族優生時代の妄執に取り憑かれている節があります。
坊ちゃまが世界を変えるために荊の道を歩むというのなら、私も共にするまで。身分の差を無くして、私は坊ちゃまと――」
「フィオネ?」
「い、いえ! 何でもありません」
慌てて否定するフィオネに、オリヴァーはキョトンと呆けるも、追及するのは野暮だと思ったようで別の話題に切り替えた。
そんな二人の様子を、気が気がない様子で見つめるサラ。色々と察してしまったユーリは、膝の上に座るシオンの頭を撫でながら、両隣に座るエレミヤとナギを見やり苦笑いを浮かべる。
二人とも視線で牽制し合い、ユーリは自分のものだと主張している。やんのかんのと言い合ってる二人に挟まれつつ、多分こういう問題は第三者が口を出すと余計に拗れるだろうと自重した。それ故にユーリは何も言わず、自分のことを棚に上げ、心の中でオリヴァーを応援した――。
「で、ユーリはいい加減私とナギのどっちを選ぶの?」
――のだが、エレミヤが放った特大の爆弾発言に巻き込まれてしまった。いつまでも煮え切らないユーリの態度に業を煮やしたようで、ナギも顔を真っ赤にしながら、ジッとユーリの顔を見つめている。
「こ、ここで決めなくちゃダメか?」
「「(コクコク)」」
ユーリ本人としては、全てが終わった後にじっくり考えたいと思っているのだが、二人はそう思っていない様子。彼女たち曰く、いつ死ぬかも分からない状況で後悔を残すようなことはしたくないらしい。
ダニエル・ゴーンの死を間近に見て、ユーリ自身も嫌というほど実感している。
「うーん……」
とはいっても、エレミヤとナギどちらかを選ぶとなるとそれもまた決められない。ユーリの中で優先するべき事項が多すぎて、恋愛方面に思考を割く余裕がないというのもあるが、一番はエレミヤとナギ、二人のどちらかを選べば、必ずどちらかを傷つけることになると憂いているためだ。
だから、のらりくらりと話題を逸らし続けていたが、今思えば二人の想いから逃げていただけ。要は元来の臆病な性格が、優柔不断を招いてしまっているのだ。
「ねーねーユーリおにーちゃん、エレミィおねーちゃんとナギおねーちゃん――りょーほーとけっこんしちゃダメなの?」
ユーリの膝上に座るシオンが、顔を上げて問いかける。
「どこかのお代官様ならまだしも、俺はそんなに器用じゃないし、甲斐性もないよ。
基本的に添い遂げる相手は、一人って決まってるんだ。シオンのお父さんやお母さんだってそうだったろ?」
「うん、そうだね。おとーさんとおかーさん、すっごいなかよしだったな……」
今は亡き両親を想い、シオンは少し寂しそうに俯く。
「シオンも将来、お父さんやお母さんみたいに素敵な男の子と巡り会えるといいな」
「ううん、シオンはもう出会ってるよ。ユーリおにーちゃん以上の男の人なんていないよ」
闇に堕ちたシオンを命をかけて救い上げてくれたユーリの胸に、頭を預けて彼女は言う。
「そんなことない。俺より素敵な人は、それこそ星の数程いる。まだシオンが出会っていないだけなんだ」
感情に振り回されるだけの典型的な世間知らずの子供。その癖、周りに影響を与えて巻き込んでしまうから質が悪いとファルラーダ・イル・クリスフォラスにも言われた。
実際、その通りだとユーリも思う。自分は決して善人ではないし、利口でもない。ただ誰かが悲しむのが嫌なだけなのだ。
「そういうわけだから……エレミィとナギには悪いけど、やっぱり俺には選べないよ。ごめんな、優柔不断で」
今までそれとなくはぐらかしてきたが、意を決して本音を告げることにした。
「「…………」」
瞬間、ナギとエレミヤの表情が強張ったが、ユーリは構わず続ける。
「俺は、ナギとエレミィのことは好きだけど、多分……二人が求めてる感情とは違うんだと思う。もし仮に今無理矢理選んでも、絶対に良い未来は訪れない」
親愛と恋愛は似ているようで、大きく異なる感情だ。ナギもエレミヤもユーリには勿体無いくらいに魅力的な女の子だが、親愛以上の感情は懐けないのだ。
「それに俺には恋愛する資格なんてないし、自分の幸せは諦めてる――二人とも、俺の事は諦めてほしい」
どちらかを選ぶのではなく、二人とも選ばない。そうハッキリとした拒絶したユーリに、これ以上何を言っても心には届かない。
ユーリは戦争を終わらせて、フリーディアと異種族が手を取り合っていける世界にしたいと願っている。自分の幸せなど二の次で、ただ大切な皆のために在りたいだけなのだ。
本当は、この場で言うつもりなんてなかった。全てが終わってきちんとした場を設けて告げようと思っていたのに。
泣きそうな顔をしているエレミヤとナギにかける言葉も見つからず、車内はしんみりとした空気が流れたまま、カイエス邸に到着した。
◇
恋愛感情は、誰もが等しく持つものであり、それは人間、異種族一切の例外はない。いつ訪れるのか、どういった理屈でそうなるのか、論理的思考を用いても答えを見出せない。
恋愛は自由と束縛、幸福と苦悩という相反する事象を同時に齎す。そんな曖昧かつ、非合理的な感情は、当然互いの関係性にも影響を及ぼし、大きな亀裂を生む切っ掛けにもなる。
当主亡き今、空き家同然となったカイエス邸に到着し、それぞれに部屋を割り当てられたユーリ一同は一旦荷物を置いて下に集まろう――ということになっていたのだが。
「ねぇ、いつまでも泣いてないで、いい加減元気出しなさいよ。こっちは気まずくて仕方ないんだけど?」
「うっ、うぅ……うるさい、ぐすっ」
部屋に入った途端にナギが泣き出してしまい、アリカ・リーズシュタットが見かねて慰めるという事態に陥ってしまった。
ユーリにフラれたのが余程ショックだったらしく、この世の終わりみたいな顔して泣き続けるものだから非常に居た堪れない。
多分、エレミヤも泣いてるんだろうな、と容易に想像でき、アリカは大きな溜め息を吐いた。
「ぐすっ、大体お前、だって……えぐっ、ユーリのこと……ひっぐ、好きじゃ、うぅぅぅうううぅぅ」
お前だってユーリのこと好きなんじゃないのか? と、ナギは言ったんだろう。アリカは「あぁ……」と、力無くそんな事もあったわね、と肩を竦めて口にする。
「悪いけど、もうそんな浮ついたこと考えてる余裕がないのよね。私はあの日以来、この気持ちを棄てて修羅になるって決めたの。
恋愛なんかにうつつを抜かしていたら、絶対にあの人には勝てない」
「それって……ぐすっ」
言わずもがな、あの人とはグランドクロス=テスタロッサのことだろう。結局リーズシュタット流剣術を扱う彼については何も分からないままで、アリカも一向に口にしようとしない。
けれど、アリカの覚悟は他の追随を許さず、己の獲物だから手を出すなと態度で示していた。ユーリが何も聞かないのは、そんなアリカを慮ってのこと。ナギもこの非常事態に、自分は恋愛でぐじぐじ悩んで何をやってるんだろう? と、自己嫌悪に陥ったが――。
「ナギと私じゃ戦う理由が違う。だから変に気を遣わなくてもいいわ。あんたはあんたの戦いをすればいい。恋愛だって立派な戦いよ」
「ぐすっ……ゔんッ」
まさか宿敵と認めたアリカに、こんな事を言われる日が来るとは。ナギは鼻を啜りながら感謝の意を示した。
◇
気まずい……そんな感情を懐いたのは生まれて初めてで、今まで誰とでもそつなく交流してきたサラにとって初めてのこと。
オリヴァーの専属使用人――フィオネ・クルージュ。一目見た瞬間に、この人とは合わないなと後ろ向きなことを思ってしまった。内面をよく知りもしないのにそんなこと考えちゃダメだと言い聞かせ、フィオネに手伝いを申し出た。
向こうも訝しむ様子を見せながら、断るのは失礼だと思ったようで一緒にお茶の準備をすることになったのだが。
「サラさん、ティーカップの位置が違いますよ」
「え、あっ、ごめんなさい!」
クロスの掛けられた立派なテーブルの上にそれとなく空のティーカップを置いたところ、間違いを指摘されてしまう。
正しい置き方を見ても、ちんぷんかんぷんで、否応にもオリヴァーとの身分差を実感してしまう。ユーリもそうだが、二人とも人間の中でも格式の高い家柄だという。
ビーストとして生まれ育ったサラとは、文化や価値観が大きく異なるため、戸惑いが隠せない。結局邪魔にしかならず、サラは一歩離れてフィオネを見つめることしかできない。
(何やってるんだろう、私……)
オリヴァーとの関係に亀裂が裂したわけでもない。あの戦争で想いをぶつけ合って、本当の意味で分かり合えた筈なのに……。
(ナギもエレミヤも、想いは繋がってる筈なのにユーリくんに振り向いてもらえなかった。
私、焦ってるんだ。オリヴァーくんもひょっとして、ユーリくんと同じなんじゃないかって。それが、凄く嫌で……)
恋愛感情ではなく、親愛といった気持ちでしか見られていないんじゃないか? それが怖くて、聞けなくて、だから同じ気持ちを懐いているであろうフィオネを牽制することしかできない。
(最低だ、私……)
自分に、こんな醜い感情があったなんて思わなかった。今は一刻を争う事態だというのに不純なことばかり考える己に嫌気が指す。オリヴァーもきっとサラの内面を知ったら幻滅してしまう。
「……あの」
「ッ」
自己嫌悪の悪循環に陥るサラへ、フィオネは貫くような視線で言葉を差し込んだ。
「失礼を承知でお尋ねしますが、あなた方はカイエス家の遺産目当てで坊ちゃまに近づいたのですか?」
「……え?」
「もしそうなら、今すぐここを出て行ってください。坊ちゃまの手前何も言いませんでしたが、正直私は素性の知れぬあなた方の存在を認められません」
「は?」
一瞬、確かに、本心から――この女を殺してやろうと思ってしまった。どの口がほざいているのだと、なにも知らないくせに勝手なことを抜け抜けと抜かすフィオネの喉を掻っ切ってやりたい。
「(ギリリッ)」
それをしないのは、僅かに残った理性が働いたから。彼女を殺せばどうなるかは容易に想像が付く。オリヴァーに迷惑をかけたくない。皆で懐いた夢を壊したくない。
オリヴァーの祖父とダニエル・ゴーンの意志を受け継いだサラは、ギリギリのところで堪る。唇を噛み締め、痛みで正気に引き戻す。
「――フィオネさんは、オリヴァーくんの目が節穴だって言いたいんですね」
「なんですって?」
サラの痛烈な返しに、今度はフィオネの表情に険が灯る。
「遺産目当て? オリヴァーくんがそんな賤しい考えを持つ人を見抜けないとでも? わざわざ怪しい人を家に上げるわけないじゃないですか。
今のあなたの発言は、オリヴァーくんと私に対する侮辱です。何も知らないくせに勝手なことを言わないでください」
口火を切ったサラは、もう止まらない。
「彼は弱くて、情けなくて、そんな自分を嫌ってて、それでも大切な人たちの為に命をかけられる素晴らしい人だって私は知ってます――申し訳ないですけど、今はそれで納得してください」
これ以上ここにいたら激しい口論に発展する恐れがある。フィオネの表情を見ないよう、サラは勢いよく頭を下げて部屋へ戻っていった。
◇
約半年振りの帰郷。タリアの街並みを歩いていたとき以上にオリヴァーの胸に感慨深さが募る。
「お祖父様、ただいま戻りました」
もぬけの殻となった亡き祖父の寝室で、瞑目し黙祷を捧げるオリヴァー。祖父の匂いをその身に感じ、様々な思い出が脳裏に浮かぶ。
義兄ランディ・カイエスの手によって病に伏せてしまったが、全てはオリヴァーの力の無さ故に招いた事態。自由に生きなさい、そう遺言を賜った自分にできることは何なのかを真剣に考える。
そう、全てはサラのために。フリーディアの異種族への偏見を無くして、新たな未来を紡ぐこと。家柄や身分の差といった偏見はもうオリヴァーの中には存在しない。
ただ純粋に好きな人と過ごしていきたい。その為にはまず――ハッキリとこの想いを口にしなければならない。
「サラ……僕は君のことが――」
だけど、その先の言葉が出てこない。心臓がバクバクと暴れ回り、身体が沸騰したように熱い。今すぐにサラを抱きしめたい、誰にも取られたくないと邪なことを考えてしまって――。
「坊ちゃま……?」
「!?」
そんな誰にも見せたくない自分を、あろうことか姉同然に慕う大切な従者に見られてしまった。フィオネは、様子を見にきたのだろう。先程の言葉を聞かれていないか不安に陥ったオリヴァーだが、彼女の尋常ならざる縋るような表情に何事だと駆け寄った。
「どうした? 何かあったのか、フィオネ?」
俯くフィオネの両肩に、手を置いて尋ねるオリヴァー。
「坊ちゃま……一つだけ答えて欲しいのです。もしも私がこのまま二人きりで静かに生きていこうと尋ねたらどうされますか?」
「え、あ……何だ、その質問は」
冗談ではない本気の想いが込められた問いに、オリヴァーは一瞬たじろぐも、すぐに真剣な表情へと変化させて言う。
「――当然、答えはNOだ」
「ッ」
顔を上げたフィオネの表情は、今にも泣きそうな程崩れかけており。
「僕は君のことを本当の姉のように大切に思ってる。だけどそれと同じくらい、サラたちが大切なんだ。僕は彼女と未来を――」
オリヴァーは、その言葉の続きを発することができなかった。何故なら、フィオネは――。
◇
「それじゃミグレット、私少し出てくるね」
「え、今戻ってきたばかりなのにもう出ていくです!? しかもこの状態のエレミヤを置いて!? 待ってください、行かないでほしいです、こんちくしょう!」
時を同じくして、ナギと同じくエレミヤも延々と泣いており、一緒にいたミグレットが心底困った様子で部屋を出ようとするサラを引き止めていた。
「ごめんね、私慰めてる余裕ないかも。ちょっとオリヴァーくんの様子見てくるだけだから、すぐに戻るね」
「サラ……」
サラ自身も、先程フィオネとの間に起きた一件以降、焦燥感が湧き立って落ち着かないのだ。オリヴァーに会いたい。彼を一人にしておきたくない。少し顔を見せて話すだけでいいのだ。
サラは、ミグレットの制止を振り切って何処にいるかも分からないオリヴァーを必死に探し回る。本当は大きな声で呼びたいが、フィオネに聞かれたらと思うと声が上げられない。
広い屋敷ではあるが、迷うほどではないため、ビースト持ち前の嗅覚で痕跡を辿っていく。すると、僅かに扉が開いたままの豪奢な扉の向こうに、オリヴァーの気配を感じた。
「!?」
そして、同時に最も遭遇したくないと思っていたフィオネ・クルージュの気配も。二人で何を話しているのだろうと、気配を殺してそっと扉の向こうを覗き込む。
「ッ」
するとそこには、言語に尽くし難い想像を絶する光景が広がっていた。
「う、そ……」
絶句するサラの視線の先には――。
「「ッ」」
オリヴァーの唇が、フィオネの唇と重なっていた。それは恋愛において相手に対する最大の愛情を伝える際に用いられる行為。
一体どういう経緯でそうなったのか? サラは夢でも見ているのか? 何もかもが裏切られたような気持ちになり、自然と涙が頬を伝う。
「ッ!? サラ!?」
そして、オリヴァーもサラの存在に気付き、動揺を露わにフィオネの身体を無理矢理引き剥がした。
「違うんだサラ、これは!!」
何をどう言い繕ったところで、起きてしまった結果は変えられない。
「…………」
サラもオリヴァーの尋常でない様子から、何か事情があったんだなと理解した。けど、理解はしても感情が止められない。喉元まで迫り上がる言葉は、呪いを帯びてしまっている。
ギュウウウウッ、と締め付けられる胸が苦しい。今口を開けば、思ってもいない罵詈雑言を飛ばしてしまうかもしれない。痛い……どうしようもなく心が痛い。
「ッッッ」
サラはもう何も考えられなくなり、胸を抑えながら逃げるようにその場から立ち去った。
◇
「サ、ラ……」
対するオリヴァーも、去っていくサラの背中を呆然と見つめることしかできなかった。自分が好きな女の子の前で何をしていたのか、思い出すだけで胸が苦しくなる。違う、違うのに。きっと、今のオリヴァーが何を述べても言い訳にしか聞こえない。油断していたとはいえ、唇を合わせてしまったのは否応ない事実なのだから。
「フィオネ、どうして……」
「ッ」
オリヴァー自身も、状況が全く分かっていない。できることは、フィオネが今しがた行った行為についての理由を問うだけ。
「坊ちゃま! どうか冷静に、あの女だけを選ぶのはお辞め下さい!」
「…………」
「西部戦線で何があったのかは存じ上げませんが、あんな素性の知れない女はテロリストの手先であるかもしれないのです! 純粋な坊ちゃまを利用して、それこそ――」
フィオネからしたら、とても軍人には見えない怪しい集団を引き連れてきたオリヴァーが騙されているんじゃないかと疑うのは必然。サラという怪しい女に絆され、目を覚まさせる意味も込めて――否、それは違う。
「ごめん、フィオネ。君の口からこれ以上……僕の大切な人たちを侮辱する言葉は聞きたくない」
「……あ」
内心で言い訳していたフィオネの目を覚まさせたのは、初めて激怒する主人を見てしまったから。義兄にどれだけ暴力を振るわれようとも、周りに妾の子だからと虐げられようとも決して怒りを見せなかったあのオリヴァー・カイエスが。
ただ健気にカイエス家に尽くすオリヴァーを、ずっと傍で見てきたフィオネが閉じ込めていた想い。主人と使用人は決して結ばれることはないと分かっていたから表に出すことはなかったのに。
「……僕はお祖父様に誓ったんだよ。サラを決して泣かせない、彼女を笑顔にしてみせると」
「ッ」
だって、仕方ないではないか。オリヴァーが、フリーディアの理念と敵対する道を選んだ……つまるところそれは、フィオネの想いが成就する可能性もあるわけで。
「悪いけど、今後君と話すときは誰かに付いていてもらうことにするよ。サラをこれ以上悲しませたくない」
そう言って去っていく主人の背中を、フィオネは見送ることしかできなかった。