第147話 エレミヤの独白
神遺秘装――千里眼。この瞳を宿し、世界に生み出されたその日から、エレミヤの運命は決まっていた。
王族に仕えない、謂わば神族の末裔として祭り上げられた姫巫女。数世代を跨いで、遂に神の瞳を賜ったエレミヤは、常人より違った視点で事象を観測していた。
瞳を開けると、本人の意志に関係なく発動してしまう神遺秘装。物心付くまでは理解が及ばす、終始泣き喚いていたという。彼女の瞳に映るは、世界の景色。
千里眼は全てを見通し、誰も世界の目から逃れることはできず、捉えることもまたできない。
加えて、千里眼には亡き神との交信能力まで備わっている。エルフの信仰の対象、死して尚、神は存在していると信じてやまない者たちからすれば、エレミヤを通して御声を賜る他ない。
ようやく物心が付いた頃、エレミヤは両親に、エルフ国首都アトナーデ郊外にある神殿へ連れられた。瞳は開けられないため、あくまで彼女の所感を述べるだけになるが、どこか寂寞とした墓標を想起させた。
祭壇の中心にエレミヤは立たされ、周囲には王含めた名だたる重鎮たちがずらりと並び立っていた。仰々《ぎょうぎょう》しくも重々しい、子供には些か酷な状況の中で、姫巫女はしっかりと己の責務を果たすべく立ち振る舞った。
そこには、エレミヤ個人の意志は必要ない。ただ瞳を開いて、あるがまま賜った言葉を述べるだけ。両親が固唾を呑んで見守る中、驚くほど冷静に千里眼を発動させた。
エレミヤが初めて神と交信したあの日は、今でも忘れられない。
脳内に流れる膨大な情報の奔流と、ノイズだらけの景色を掻き分けるように、亡き神の姿を探す。引き剥がされそうになるのを必死でくらいつき、使命を果たすべくその名を口にした。
「神よ、どうか私の声に耳を傾けてお応えください!!」
もし失敗すれば、姫巫女の立場が一気に揺らぐ。そうなったら両親はどうなる? エレミヤは? これまで信じてきたエルフの歴史、その根幹が揺らいでしまう。どれだけ時間が経とうが諦めない、そんな幼いエレミヤの懸命な声にようやく応えてくれたのか、何かが繋がったと確信した瞬間。
『――うるせぇな〜。ピーピー騒がなくても聞こえてるっつの』
「……え?」
突如としてノイズが消え去り、幻想的な美しさを湛えた森の風景が流れ出したかと思うと、男とも女とも区別が付かぬ粗雑な声が耳朶を打った。
「あなたは……」
木漏れ日と、揺らめく木々の垣根越しに揺らめく、正体不明の異質な影。もはや確かめるまでもない。エレミヤの本能が、遺伝子が、その影の正体を告げる。
「神……」
そう、彼の御方こそ不変不滅を司る神。自決し、肉体を失った神だが、精神まで亡くしたわけではない。世界と同化した亡き神は、今も種族を見守ってくださっている。千里眼を通して、その御声を賜れるのだ。
『ったく、呼ばれんのは数百年ぶりか? 今回はお嬢ちゃんがハズレ引いたわけか、可哀想に』
「あ、えと……」
想像の遥か斜め上をいく粗雑な言葉遣いに、エレミヤは何を話すべきか戸惑ってしまう。
『不便だろ、千里眼? うっかり瞳を開いたその時にゃ、本人の意思に関係なく魔力を世界中にばら撒いて、そこから得る情報の洪水に押し流されちまう。お嬢ちゃんだからこの程度で済んでるが、他の奴だったら脳がパンクして廃人直行さ』
「…………」
千里眼の危険性を、小さな子供でも分かるように大袈裟にジェスチャーして説く神の影。
『で? そんな危険を犯してまで、お前は俺に何の用があんだ?』
そうだ、儀式。終始呆気に取られていたエレミヤは、自らの使命を思い出し、姫巫女として相応き振る舞いをするべく一礼する。
「失礼いたしました、神。私は、エルフ王家より今代の姫巫女の位を賜りました、エレミヤと申します。
今宵は、神託の儀が挙行されました故、是非あなた様の御言葉を賜りたく存じます」
『ふーん』
「……シ、神?」
一切の興味を示さず、お茶の間で寛ぐ主婦のような返事をする神に、流石のエレミヤもあれ? と、思い始める。
「…………」
『…………』
それっきり会話が止まってしまい、お互い終始無言。もしかして失礼なことでも言ってしまったのか、徐々に不安に駆られていくエレミヤへ。
『え、と……頑張れ? でいいの?』
気まずそうに神託の言を述べる神。どういう言葉をかけるべきか悩んでいたらしい。それを聞いたエレミヤは。
「よくないわ!!」
と、盛大に姫巫女の仮面を脱ぎ捨て、キレ散らかした。
「ごめんなさい、神に向かってこんなこと言いたくないのだけど、どうしてそんなに軽々しいわけ!? なんかこう……あるでしょう!? 威厳とかそういうの!
全体的にノリが軽いのよ! この日のためにどれだけ準備してきたか……夜も眠れず不安だった私の緊張を返してちょうだい!!」
『知らねぇよ! 俺は、元々こういう性分なんだっての! お前らエルフが勝手にそういう人物像に仕立て上げただけだろうが!!』
あるがままの自然を体現した幻想的な森の中で、言い合いになる奇妙な影と、小さな少女の構図は傍目にどう映っているのか?
幸いなのが、これが当人以外誰にも観測できないということ。王含めた重鎮たちは、今も神託を待っておられる。
そんな彼らに神の御言葉をそのまま伝える? え、頑張れって? 無理無理無理無理!! と、エレミヤはあろうことか神を引っ捕まえようとするが。
『つかそんなもん、お前が適当にはぐらかしとけば済む話だろ? 嘘の仮面付けるの得意そうじゃねぇか。他の奴には聞こえてねぇんだし、どうとでもなるって!』
ひらりと躱してみせた神の言葉に、ピタリとエレミヤは動きを止めて驚愕する。
「そ、それって!?」
嘘――神が、こんなに親しげのある陽気な性格だったなんて言い伝えはなかった。それはエルフの歴史含めた歴代の姫巫女の……気付いてはならない真実の一端が見えたような気がして。
『あとお前、俺と話す時は素だしてていいぞ。そっちの方が絡みやすい』
「え?」
『その年齢で本音すら出せないとか、ストレス溜まるだろ? 俺だけじゃなくて、外の連中にも何人か心許せる友達作っとけ。
それが息苦しい世を生き抜いていくための処世術さ』
「あ、ありがとう……ございます」
これまで姫巫女としての所作や振る舞いなど、エレミヤに偽りという名の化粧を塗りたくる者ばかりで、そんなことを言ってくれる人はこれまでいなかった。それが神の御言葉――しかも人生の先輩としてのアドバイスを貰えるなんて思ってもいなかったため、尚更戸惑ってしまう。
『ま、今日はこのくらいでいいだろ。また何かあったら呼べ。気が向いたら話くらいは聞いてやるからよ』
「よろしいのですか?」
『その代わり、俺のこと誰かに言いふらすんじゃねぇぞ? ここで見たこと聞いたこと、一切誰にも漏らすな。当たり前だが詮索もなしだ。俺とお前だけの秘密ってことで、よろしくな!』
神と邂逅し、ようやく自分自身を見い出せたエレミヤは「はい!」と、笑顔で頷いた。
◇
神は、一体何者なのか? 逸話の通り、彼が天地を開闢したというなら、何のためにそれを行った?
敬虔な信徒として、その後も遺憾なく手腕を発揮し、姫巫女の地位を守り続けてきたエレミヤ。
神の御言葉に従い、時には本音を見せたり、お茶目な一面を晒すなど親しみのある振る舞いをしたおかげか、近衛騎士のイリスや、同い年の友人など徐々に自分を慕う人たちが増えていった。
戦争で多くの兵士たちがエレミヤを救おうとしたのも、彼女の人柄によるものが大きい。今の人格を構成できたのは、ひとえに神のアドバイスがあってこそ。
だから、何故あなたは自決したのですか? と、尋ねるのは失礼極まりない上に、決して詮索はするなと言われたので、口にはせず、代わりに自身の身の周りで起きた出来事を仔細に語って聞かせた。
楽しかったこと、悲しかったこと、ムカむいたこと、驚いたことなど毎日日記を綴るように、いつしかそれが当たり前となり、エレミヤの日常に刻まれていった。
そして、気になる男の子ができたことも当然――。
『ユーリ・クロイス?』
「えぇ、初めて神以外にも千里眼が通じる殿方がいて、ずっと呼びかけてたのだけれど、ようやく応えてもらえたの」
『へぇ、そいつはまた(ボソッ)』
相変わらず、揺らめく影として揺蕩う神は、珍しく神妙な反応を見せていた。
「神?」
『あ、悪りぃ悪りぃ、何でもねぇよ。そっかぁ、エレミヤちゃんにも遂に好きになった野郎ができちまったわけか……』
「言い方!」
気になると言っただけで、好きになったとは一言も言っていない。
「でも、そうね。ユーリは優しい殿方だったわ。性格は全然違うのだけれど、どこか神に似た雰囲気を感じたの」
『そうかい。お前が言うんなら良い奴なんだろうな、きっと』
「えぇ! けど、問題は彼がフリーディアだということ。彼らは程なくドワーフ国の領域まで攻めてくる。この状況をうまく利用すれば、彼らの侵攻を止められるかもしれない」
心苦しいが、利用できるものは利用させてもらう。ユーリからより多くの情報を引き出し戦況を有利に運んでいく。
「ま、あんま根をつめんなさんな。愚痴くらいしか聞いてやれねぇが、今後も何か分かったら教えてくれ。アドバイスくらいはしてやるよ」
「えぇ、ありがとう神」
神に、ユーリの存在を話したこと。これがどういう結果を齎すのか、当時のエレミヤに知る術はなかった。
◇
(今思えば、他にもっとやりようはあったんじゃないかって、そう思うわ)
何度後悔しても現実は変わらない。種族会談は失敗し、戦争で多大な犠牲者を出して敗北。挙げ句の果てに祖国を潰され、近衛騎士のイリスまでフリーディアに連れ去られてしまった。
(ユーリたちがいなかったら、間違いなく心が折れてた。私は、誰かに依存しなければ何もできない弱い女。これまでは神に依存して弱さを誤魔化していた……だけど、今は)
神の言うことは全て正しいと信じ込み、疑うことなく呑み込んでしまっていた。それは信仰、フリーディアが忌避している宗教の概念にどっぷりと浸かってしまっていたということ。
イリスや、他のエルフ程ではないと一歩引いていたあの頃の己を引っ叩いてやりたい。本当は誰よりも神に依存していた癖に、共存共栄を成し遂げたいなどよく言えたものだ。だけど――。
(今は違う。イリスを連れ戻して、戦争を終わらせて、今度こそ本当の大円団を迎えたいって思ってる。そして知りたい、神……あなたのことを)
一度溢れ出してしまった疑問の渦は、決して止まらない。
(あなたは、何処から来て何処へ行こうとしてるの? 悠久の時を生きたあなたが、自死を選んだのは苦しかったから?
なら何故、私とお話しした時は楽しそうだったの? 私にはあなたが分からない。神は何も語らない、聞くことも許してくれない――だけどもう、そんなことは言わせない!)
神と、もう一度正面から向き合うために。だからこの力を使うのだ。
「神遺秘装――千里眼!」
もう何度訪れたか知らない、千里眼が創り出した幻想精神世界。ここへ来られるのは、神と神の因子を内包している者だけ。
一人は、人工的に生み出された神――ユーリ・クロイス。そして、もう一人は言うまでもなく。
「よう、姫巫女ちゃん。種族会談の前に会って以来だな。
だからあの時忠告したろ? ミアリーゼ・レーベンフォルンは、殺しておけってよ」
以前までの朧げな影ではない、今はもう、ハッキリとその姿と声を捉えられる。
向こうに隠す気がないのか、端正な整った顔立ちの青年は、悪戯っ子のような笑みを浮かべてこちらを見据えている。
「全部、あなたの思惑通りってことかしら? 神――いいえ、"ナイル・アーネスト"!」
姫巫女の翠玉色の瞳に迷いはなく、視線で射抜くように神の正体を看破した。