第145話 執着
ミアリーゼ・レーベンフォルンと直接言葉を交わすのは二度目になる。疑似宇宙空間で会った時は、状況に流されるだけの世間知らずなお姫様くらいにか思っていなかったが――。
「お久しぶりですね、ミアリーゼ様。暫く見ない間に随分と雰囲気が変わられたようで」
「私は、あなたと世間話をするつもりはありません。前置きは結構ですので、用件を伝えてください」
姫の身に何があったのかは知らないし興味もないが、この変わりようは異常だ。ファルラーダとの間で何があったのか知らないが、このまま皮肉混じりに言葉のナイフで切りつけても返り討ちに遭うと察したシャーレは。
「失礼、では本題に移らせていただきますね」
と、本題を切り出した。
「用件というのは他でもありません。私を治安維持部隊と協力して異種族残党勢力、そしてテロリスト討伐に参加させていただきたいのです」
「「………」」
シャーレの発言の裏を測ろうと静かに見据えるミアリーゼとファルラーダ。
「何のつもりで? と、勘繰るのは結構ですが、無意味だと言っておきます。ミアリーゼ様といたしましても、厄介者の私が戦場へ出た方が安心するのではないですか?」
「確かに、グランドクロスであるあなたが戦場に出る事には価値があると考えています。未知数のそのお力を披露してくだされば、こちらも万が一の対策を立てやすい」
他のグランドクロスは戦場に出ている分、保有している魔術武装や、能力含めて開示されている。そんな中、シャーレだけは別。
まだ十五歳という年齢もそうだが、大規模な戦闘を経験していない分、彼女の能力は未知数。ミアリーゼとファルラーダが警戒するのも納得がいくというもの。
シャーレは、そんなミアリーゼたちを心の中で嘲笑う。顔に出ないよう、表面上は淑女然とした笑みを浮かべ彼女は言う。
「うふふ、少々警戒しすぎでは? そもそもミアリーゼ様に敵対するメリットは、私にはありませんよ。
それでも信用できないと言うのでしたら、私の体内に爆弾でも何でも仕込めばいいじゃないですか?」
少しでも怪しい素振りを見せれば、即爆破。そうすれば、いくらグランドクロスたるシャーレでも木っ端微塵になることは免れない。
とはいえ、自身に備わる忌まわしい特性のせいで死ぬことはないのだが、ミアリーゼたちはそれを知らない。
「シャーレ、あなたは何故そこまでして戦いたいのですか?
せっかくデウス様やお兄様の計らいで学院へ通わせていただいているのですから、相応に甘んじるべきだと思いますが」
要は余計なことはせず、大人しく学校に通ってろと、姫は言いたいようだ。
「ミアリーゼ様にもミアリーゼ様の戦う理由があるように、私にも戦う理由があるんですよ。
あなたは正義のために、私は解えを知るために。誓ってお二人の邪魔はしません、だから行かせてくれませんか?」
有無を言わせぬ笑顔の圧を放つシャーレ。ファルラーダは苛立った様子で拳を握りしめているが、ミアリーゼの手前故に場を弁えて静観している。
「それは異種族残党、テロリストの中にあなたの探す解えを持つ者がいるということですか?」
「えぇ、いますよ」
母に関する記憶は、あの日以来拝んでいない。彼に会って、実験体としてフリーディアに囚われた吸血姫の最期を見届けたい。そうすれば、シャーレという異物が何故生まれてきたのか分かる筈だから。
「名前は、ユーリ・クロイス。テロリストではなく、異種族残党勢力にいる異端の人間です」
「「!?」」
ユーリの名前を出した瞬間、二人は驚愕に目を見開き、動揺を露わにする。まさかここで彼の名前が出てくるとは思ってもみなかったのだろう。特にミアリーゼからは、不安や焦燥といった負の感情が色濃く滲み出していた。
「分を弁えず、よりにもよって異種族さんに加担する裏切り者――当然、知ってますよね? あ、けれど指名手配はされていませんし、報道もされていませんね。
おかげで治安維持部隊総司令は、引き続きセリナ・クロイス准将が担当されるようで。これは一体全体どういうことなんでしょうね?」
「…………」
表情を険しくさせ、無言でシャーレを睨むミアリーゼ。テロ組織ルーメンの内情や、ユーリたちの事情を把握しているシャーレからすれば、ミアリーゼやファルラーダなどグレンファルトの掌で踊るピエロにしか映らない。
誰が裏切り者なのか? 疑心暗鬼に駆られている姫に、ユーリ・クロイスの名は最も効果的だ。ニコニコと淑女然とした笑みを讃えるシャーレは、気に入らないミアリーゼに一泡吹かせたことで内心小躍りしていた。
シャーレがこの世で最も嫌いな人物は、この世に三人いる。一人は言わずもがなファルラーダ、次点でミアリーゼ。最後の一人は口に出すのも憚れる。
ハッキリ言って、彼女たちの創ろうとしている悪のない正道な世界など息苦しくて仕方ないため真っ平御免だ。
だから潰す。小生意気な態度の姫を、絶望と嘆き、恥辱を孕んだ表情に塗れさせたい。ファルラーダも同様に、さっさと消えて無くなればいい。
「分かりました。シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガー、あなたに異種族残党の討伐を命じます。グランドクロスとして、恥じぬ働きを期待していますわ」
「謹んで拝命いたしました、ミアリーゼ様」
ユーリ・クロイス個人の名前は伏せ、敢えて異種族残党と口にしたミアリーゼに野暮なことは言わず、粛々《しゅくしゅく》と一礼するシャーレだった。
◇
「――と、いうわけですのであなたもお兄さ……異種族残党殲滅に参加してください、クーリアさん」
その後シャーレは、級友のクーリア・クロウ・ククルウィッチの研究室に再び訪れていた。
「えぇぇぇー、何で今言ぅのぉー?」
心底タイミングが悪そうに顔を顰めるクーリアへ、シャーレは「今?」と、首を傾げる。
「あなた、以前私が相談した際、絶対付いて行くと言っていたじゃないですか」
だからわざわざ伝えに来てあげたというのに。
「いやさぁー、前にテスタロッサ卿が生け捕りにしたエルフいたじゃん? 私がずぅぅーっと、グレンファルト様におねだりしててさぁ、ようやく念願叶ってこっちに回ってきたばかりなの」
「あぁ、そういう……」
生きた異種族の被験体は、喉から手が出るほど欲しい代物。特にエルフは、フリーディア西部戦線を追い詰めたこともあり、被験体の希少性は極めて高い。
恐らく他の研究者たちも我先にとエルフの取り合いになって揉めていた中、グレンファルトという最強の伝手を頼り、クーリアが勝ち取ったのだろう。
「だから今日から徹夜! 正直行きたいのは山々なんだけど、こっちが優先だから!」
「そうですか。せっかくあなたが欲しがってた千里眼の姫巫女さんを生け捕りにしようと思ってたんですが、来てくれないなら仕方ないですね。
ミアリーゼ様の御命令通り、殺すことにしましょうか」
「え、ちょ、シャーレ!? それはズルじゃない!?」
慌てふためくクーリアは、傍から見ていて面白い。本当はエレミヤを殺せなどと命令されてないが、愉快なので嘘を貫き通すことにした。
「行くよ、絶対行く! 行きたいけど、こっちもなぁ……。ほら、分かるでしょ? 例の神遺秘装――終滅剣っていう最強の兵器を保有したエルフの希少さをさ!」
クーリアは、技術者だけでなく、異生物学者としての肩書きも持っている。だからこそ天才と豪語されており、彼女は主に魔術武装の開発設計や理論構築を得意としていた。
ヨーハン・クロイスのような遺伝子学ではなく、魔法を解析することをメインとしているため、同じ異生物学者でも取り扱うジャンルが異なる。
しかし、彼女たち異生物学者に与えられた課題は一貫している。それは、魔核を人工的に生成し、魔力というエネルギー資源を安全確実に確保することにある。
ミアリーゼが表立ってクーリアたちを罰さないのもそのためで、異生物学者たちが如何にフリーディアにとって重要な存在か理解しているためだ。そのため証拠隠滅も容易く、クーリアなんかは政府に提出するデータを改竄し、好き放題やっている。
とはいえ、彼女も余裕があるわけではなく、バレるのも時間の問題ではあるのだが。それを必死に誤魔化すべく、政府に対するゴマ擦りが凄まじい事この上ない。シャーレの中で気に入らない点の一つだが、ここで言っても仕方ない。
「だから、少し待ってほしいと?」
「端的に言って、イエス!」
魔法の上位互換ともいえる神遺秘装の解明は、全ての異生物学者にとって必須の課題の一つ。
異種族側は、神の力の一部と豪語しているが、それがどういう原理のもと成り立っているのか、理論的根拠で説明できない。
だからクーリアは知りたい、知るためにエルフを研究する。ゆくゆくは、魔法を魔術武装に落とし込んだように、神遺秘装を人為的に発動する術を見出そうとしている。
どうしようか悩むシャーレへ、クーリアはカタカタと軽快なリズムでキーボードを叩き、手招きする。
「ほら、見てよこれ」
「?」
言われるがままに歩み寄り、デスクに座るクーリアの後ろからモニターを覗き込む。そこに映し出された画像は、西部戦線で勃発した大戦の様子だった。
恐らくいけ好かないあの男――ナイル・アーネストが、クーリアが開発したドローンか何かを使って撮影したのだろう。画像はやや荒いが、それでも人の顔が認識できるくらいには鮮明だ。
「私がシャーレについて行きたいのは、千里眼の確保もそうだけど、実はもう一人気になってる異種族がいるからなんだよねぇ」
次々に切り替わる画像と共に、クーリアは敵指揮官たるエレミヤと、その隣に立つ小柄な異種族が、ファルラーダ・イル・クリスフォラスと対峙している場面で手を止めた。
「あら? この子、確か……」
ぷりちーなマスコットキャラを思わせる愛嬌さを兼ね備えた異種族を見て、既視感が過ぎる。
「そ、シャーレがやんちゃして派手にぶっ壊した融合型魔術武装を開発したドワーフの娘――ミグレットちゃんさ」
そうだ、確かそんな名前だったなと、シャーレは思い起こす。あの時は、ユーリ・クロイスの方にばかり熱が入っており、見向きもしていなかった。一体、彼女がどうしたというのだろうか?
「皆、千里眼を持つエレミヤばかり警戒してるけどさ、私からすればこの子が一番の脅威だよ」
「……へぇ」
これまで数々の特化型魔術武装を生み出してきたあのクーリアにそこまで言わせるとは珍しいと、シャーレは素直にミグレットへ感心を寄せた。
「知ってる? 今回の戦争で、異種族は通信機を使ってたって。未だかつてこんなことはない、それを開発したのがミグレットちゃんだっていうんだから、こっちとしては驚きさ」
「通信機なんてありふれた代物ですし、それを開発したことの何が凄いんですか?」
「私たちにとってはそうでも、向こうにとってはそうじゃない。何せ、異種族はまーだ、剣や弓使ってドンパチやってんだから。
銃も無い前衛的な時代に、いきなり近代兵器開発して投入してきたんだ。そう考えれば、ミグレットちゃんが如何に凄いか分かるでしょ?」
「確かにそうですね」
成る程。それならば、クーリアが警戒するのも納得がいく。
「魔術武装を奪われたのは失策だったね。上の連中は異種族を知能のない猿と捉えていたけど、本当無能の集まりだ。
ドワーフの融合型魔術武装を早めに潰せたのはラッキーだったよ。あれが戦場に出ていたら、もっと被害が拡大してた。
後は、エレミヤとミグレットちゃんさえどうにかすれば、目先の脅威はなくなる。二人を捕らえた後は、悠々と研究に没頭できるわけさ!」
異種族が銃を手にする日が来れば、研究どころじゃなくなる。ミグレットの確保は、フリーディア統合連盟軍と反統合連盟組織ルーメンにとっても必須の課題となっているようだ。
「うふふ、分かりましたよ。興味深い話も聞けましたし、少しだけ待ってあげます」
「ほんと!?」
「えぇ、こちらも色々と準備しなければなりませんし。それと、私もミグレットちゃんについて一つ思い出したことがあるのですが、彼女は他にもマジックアイテムも開発しています。それも、私たちの技術を上回る代物を」
「は!? 何それ本当なの!?」
ガバっと勢いよく後ろを振り向き、驚愕の眼でシャーレを見つめるクーリア。しかし、シャーレの視線は依然としてモニターを見据えたままだ。一体何が映っているのだろうと、切り替わった画像を再び見やるクーリアだが。
「んー? 何かまたちっさい子がいるね。ケモ耳……ビーストかな? こんな子供を戦場に立たせるなんて敵も存外鬼畜――てかそれより、さっきの話について詳しく!!」
詰め寄るクーリアを無視してシャーレは、ボソリと「シオンちゃん、生きていたんですね」と、呟く。
「この子……シオンちゃんって言うんですけど、実は私が融合型魔術武装の素体に選んだ子でもあるんですよ」
「え、嘘!? アレって欠陥多いし、一度素体になったら、二度と元には戻らない筈だけど」
まだ法の定まっていない大昔に、禁忌として封印された異端の技術。今では名前を聞くこともない、一部の者しか知り得ない情報の中でも魔術武装と融合した素体は、遺伝子レベルで構造が組み変わるため、どうあっても元の姿に戻らないと伝えられていたというのに。
「えぇ、そこで一つ思い出したんですけど、融合型魔術武装を開発したドワーフさんの傷を、ミグレットちゃんが妙な包帯で治していたんですよねぇ……」
「それ、エルフが得意とする治癒スキル、ってわけじゃないよね?」
「うーん、あれはどちらかといえば再生、させていると表現した方が正しいのかもしれません」
シャーレは、必死に記憶を手繰り寄せながら答える。堕天使の爪撃で、根こそぎ削り取られた肉片が綺麗に復元していたのだ。
「再生……失った細胞すらも元に戻せるとか、完全にフリーディアの医療技術を上回ってんじゃん。何だよ、何なのさそれ! 私なんて目じゃ無い、有志以来誰も辿り着けなかった領域に彼女はいる……これが、これこそが魔法科学の神秘――にひ、にひひひひひひひひひ」
変なスイッチが入ったのか、クーリアは奇妙な笑い声を上げて画面を食い入るように見つめた。
「うん、決めた! ミグレットちゃんは絶対絶対絶っっっっっ対に手に入れる! 君は私の……私だけの獲物だ! 絶対誰にも渡さない、渡すもんか!」
最早、狂気の域にまで達したクーリアの執着を前に、あのシャーレでさえ、顔を引き攣らせてドン引きしていた。
◇
クーリア・クロウ・ククルウィッチの承諾を得て、ヴァイゼンベルガー邸の屋敷に帰宅したシャーレは、尾行する監視の目から逃れたことにようやく安堵する。流石の監視も家の中までは入って来れないようで、遠目でこちらを警戒する他ない。
(本当にしつこい、これではストーカーと変わりませんね。接触できれば楽なのですが、それをすればミアリーゼ様に怪しまれてしまう)
ミアリーゼ・レーベンフォルンが総帥代行の地位に就いてからというもの、シャーレの気が休まる時間が目減りしている。
今日一日は、大嫌いなファルラーダ・イル・クリスフォラスの殺気を浴び続けたこともあり、精神的な疲労が祟っていた。
「お帰りなさいませ、シャーレお嬢様」
ヴァイゼンベルガー家の使用人が恭しく頭を垂れ、シャーレを出迎える。当然であるが、使用人含めてシャーレがグランドクロスであると知る者はいない。彼女はあくまで養子として引き取られた身の上。なので使用人に接する時も、名家の令嬢として相応しい態度のままで、素の自分を曝け出すことはしない。
「いつも、ご苦労様です」
名前すら知らない使用人へ、労いの言葉をかけつつあしらい、自室に戻ろうとしたシャーレへ。
「あの、お嬢様」
「はい?」
珍しく使用人から声がかかり、つい振り向いてしまう。
「実はその……急なお話ですが、先程お嬢様を訪ねに見えたお客様がおりまして、現在応接室でお待ちいただいているのですが、いかが致しましょう?」
「お客様、ですか? お義父様は何と仰っているのです?」
ヴァイゼンベルガー家当主は、シャーレの養父だ。訳アリのシャーレを引き取った物好き、何不自由ない暮らしを与えてくれるので、彼女個人は重宝している。
「ご当主様とは深い縁のある方でして、快く滞在を許しておいででした」
「そうですか、分かりました。すぐに伺うと伝えてください」
「かしこまりました」
使用人は、携帯用端末を取り出し、応接室の外で控えている他の使用人と連絡を取り出した。シャーレは若干面倒くさそうな表情で、そのまま応接室へと向かう。
本当は、今後の予定を組み立てようと思っていたが、養父と縁の深いお客様を無碍にはできない。まぁ、軽い挨拶程度だろうと考えていたシャーレは、応接室前に立つ使用人が開く扉を堂々と潜った。
そして、中にいる人物の姿を捉えた瞬間、シャーレは文字通り固まった。
「――よう、お帰り」
血のような赤いワインが注がれたグラスを手に、豪奢なソファに腰掛け、あろうことか脚を組んで不適な態度でシャーレを出迎えた一人の男性。他人の家だというのに、無遠慮に寛ぎ、ニヒルな笑みを浮かべて出迎えた。
「あなた……」
普段の淑女然とした態度の面影はなく、シャーレは露骨に不快感を滲ませていた。
「こうして会うのはいつ振りだ? そんな嫌そうな顔されたら流石の俺でも傷つくよ」
言葉とは裏腹に、男性はシャーレの嫌悪を肴にグラスを煽る。
「知りませんよそんなこと。それより、何故あなたがここにいるのですか? ――ナイル・アーネストさん」
今すぐ殺してやりたい衝動に駆られながらも、必死にそれを抑えつけて、シャーレは来訪者のナイル・アーネストへ問いかける。
彼は、反政府勢力組織ルーメンの主犯格で、謂わばクーリア・クロウ・ククルウィッチと同郷だ。現在、指名手配中でありながら、堂々とヴァイゼンベルガー邸の敷地を跨いだナイルに苛立たない方がおかしい。
もし、ミアリーゼやファルラーダにバレたら、シャーレはひとたまりもない。せっかくユーリと会う算段を立てようとした矢先に現れたナイルは、一体何を考えているのか。
「なに、お前が陰で何やら企ててるようだから、こうして直接確かめに来てやっただけさ」
「はぁ?」
言葉以前に、まるでこの屋敷の主人は自分だと言わんばかりの態度は何なのか? いちいち癪に障る言い方にシャーレの心が掻き乱される。
「安心しろ、外の監視の目は誤魔化してる。お前が暴れない限り、見つかることはねぇよ」
「…………」
ナイル・アーネストという男について、シャーレにも分かっていない部分が多い。軽快な瞳の奥にあるどこか真理を悟ったような色が垣間見え、己に流れる忌むべき血を湧き立たせる。
ナイルを絶望に叩き落としても、全く嬉しくない。寧ろ不快で、シャーレ自身も何故こんなことを思うのか不可解さを隠せない。
「それより聞いたぜ? お前、お姫様のとこかち込んで治安維持部隊に配属されるよう取り計らったそうじゃねぇか」
「何で、そんなこと知ってるんですか……。クーリアさんが話すわけないですし、本当に不愉快な男ですね」
グツグツと煮え立つ最厄の殺意をぶつけても、ナイルは軽くあしらっている。
「そいつはどうも。んで、今度はどんな悪巧みしてんだ?」
「言うわけないじゃないですか」
「そうかい。言わないなら、お姫様に言いつけてやろうかな」
「ッ」
先生に言いつけてやろう、と軽々な態度でシャーレの生死を握るナイル。常に余裕の態度で相手を絶望と混沌に陥れる立場の最厄が弄ばれている。その事実だけでも、シャーレにとって憤懣もの。
「お前程度の小娘が、俺を出し抜けると思うな。統合連盟軍だけならともかく、グレンファルトの邪魔をしようってんなら容赦はしねぇぞ?」
シャーレが行動を起こすとなれば、敵味方関係なく全てが絶望の怨嗟に呑み込まれる。現時点でそんなことをされれば、ルーメンの活動に支障をきたす恐れがあるため、わざわざ危険を犯して足を運んだのだろう。
不遜な態度とは裏腹に、存外職務に忠実な男だ。どうやら、グレンファルト・レーベンフォルンの目指す理想の道なりに、ナイルの野望があると見て取れる。
「別に、レーベンフォルン卿の邪魔をするつもりはありませんよ。監視生活に辟易していましたので、ミアリーゼ様とクリスフォラス卿の目から逃れようとしているだけです。
治安維持部隊を掌握すれば、簡単でしょう?」
本来の目的であるユーリ・クロイスの名は口にせず、如何にもシャーレらしい理由を述べると。
「本当かぁ? 他にも理由があるんじゃねぇの?」
彼は勘が鋭い――というより分かっていて聞いているといった様子だ。
「ありませんよ」
だからといって馬鹿正直に告げる必要性もないので、これ以上の会話は無駄だと言葉を切る。
「「…………」」
僅かの無言の間が生まれ、ナイルは再びワインを口に含んだ。いい加減帰れと言いたいが、向こうはその素振りすら見せずにテーブルに置かれた茶菓子に手をつける。そして――。
「手、貸してやろうか?」
「はい?」
今思い付いたと言わんばかりの態度のナイルに対して、状況に追いつけていないシャーレは困惑を露わにしている。
「お前が派手に暴れてくれるなら、こっちとしてもやりやすい。統合軍でもなく、ルーメンでもない、ましてや種族連合含めて何処にも属していないお前は、謂わばジョーカーだ。
お前そそっかしいし、下手なミスされたらこっちが困るから、こっちでサポートしてやるよ」
この男、最初からそれが目的で屋敷に訪ねてきたのか。
「……ふぅ、分かりました。では、クーリアさんを私と同じ部隊に入れるよう手を回しておいてください。本人の承諾も得てますし、本当はレーベンフォルン卿にお願いしようと思っていたのですが、あなたがいるなら手間も省けます」
グレンファルトとコンタクトを取るには、いくつかの関門を突破しなければならないので、手間がかかる。腹立たしいが、手を貸すというなら骨の髄まで利用尽くしてやろうと、シャーレは前向きに考えることにした。
「あぁ、いいぜ。お前がどんな絶望の華を咲かせるか楽しみにしてるぜ」
「…………」
これ以上、彼の顔を見たくもないと踵を返してシャーレは応接室を出ていく。次からはナイルを勝手に家に上げるなと、養父や使用人にも強く言い聞かせておこう。
(本当に不愉快な男。一体何を企んで……)
ナイルは世界を遊戯と捉えて楽しんでいる節がある。彼は、シャーレの与える絶望すらもきっと喜んで受け止める。それが気に食わないのだ。
神出鬼没で、のらりくらりと統合軍の監視の目から逃れて自由に生を謳歌しているナイルに、嫉妬心すら沸き起こる。翻弄されて、気が付けば彼の手の平で転がされている。
(私は、この世界で一番、あなたが嫌いです)
ナイル・アーネストと対面するだけで、血が沸騰し、根源にある何かがざわつき出す。この感情の名が何なのか、シャーレはまだ知らなかった。