第144話 吸血姫
これは多分、母の記憶だ。そう思ったのは、彼女の記憶にない世界の光景が映っていたから。己の身に宿った忌まわしき血に、母の記憶が刻まれているのだろう。
今までこんなことはなかったのに。きっかけがあるとすれば、ユーリ・クロイスと接触したことか。彼を見た瞬間、自身の中にある何かがざわついたのを覚えている。
だから、この光景はユーリ・クロイスと自身のルーツを知る手掛かりになると、彼女は大人しく見に徹することにした。
闇の世界しか知らない母は、光の世界に憧れを懐いていた。名のある王族として生まれ、あらゆる自由を制限されていた母は、猛烈に外の世界を憧れていたのだ。
娘に言わせれば、くだらない柵に捉われず、抜け出すなり何なりすれば良いのだが、母は致命的な弱点を抱えていた。
それは太陽光。母が求めてやまない光こそが、死に至らしめる猛毒だったのだ。
――そう、母は吸血鬼だった。
曰く、エルフに成りきれなかった欠陥種族ともいわれ、もしもヴァンパイヤが太陽を克服していたなら種族の頂点に君臨していたやもしれないと噂される程に強大な力を有していた。だからこそ、太陽の克服は全てのヴァンパイヤの悲願でもあった。
勿論、不死の特性を司る神遺秘装――血霊液を宿した母も例外ではなく、太陽光を浴びた瞬間、血の一滴まで残らず蒸発してしまう。
加えて、ヴァンパイヤは体内で血球を生成することができず、他者から定期的に血を摂取しなければ飢え死にしてしまう。彼女から見れば賤しいことこの上ない行為だが、ヴァンパイヤからすれば普通の食事と変わらない。
だから、母も当然のようにそれを受け入れ、臣下のヴァンパイヤの首筋を噛んで血液を補給していた。城に囚われ、他者の血を啜ることでしか生きられない哀れな姫君――まさに吸血姫の名に相応しい、と皮肉混じりに彼女は思った。
物語のように、城に囚われた哀れな吸血姫のもとへ、都合よく王子様が現れるわけでもない。昼間は、日光の届かない特殊な棺桶の中で眠りに就き、夜になれば目を覚ます。母は城から出られず、部屋で大人しく夜空の月と星々を眺めているだけの、くだらない毎日を過ごしていた。
ヴァンパイヤの末路を知っている身としては、これ以上見ても得るものはないと、早々に場面を切り替えた。
母の願いや、ヴァンパイヤの悲願などどうでもいい。何故なら、彼女たちはフリーディアに滅ぼされるのだから。昼間は強固な魔法結界に覆われ、誰も突破することは叶わないとされてきたヴァンパイヤの大地が、火の海に包まれたのだ。
魔法科学の発展したフリーディアの手にかかれば、ヴァンパイヤなど赤子の手を捻るようなもの。寝ている間に死んでいましたなんて笑い話にもならない。二日とかからず、全ヴァンパイヤを駆除したフリーディアは、そこで一つの奇跡を目の当たりにする。
唯一不死の特性を司る血霊液を持つ母だけが生き残れた――生き残ってしまった。
母も、他のヴァンパイヤと同じように死ねたらどれだけ幸せだっただろう。どれだけ身体に銃弾の風穴が空けられても、頭を吹き飛ばされても、彼女は死ねず生き残ってしまったのだから。城の中で大事に育てられてきた母が戦える筈もなく、抵抗虚しくフリーディアに被験体として捕らえられるのは当然の結果だった。
激痛に耐えきれず意識を失い、その間にどこかの研究室へ運び込まれた。磔刑台にも似たベッドに寝かされ、手脚を拘束された母。これから自分がどんな目に遭わされるのか想像してしまったのか、恐怖で身体が震えている。
そこへぞろぞろと白衣を着用したフリーディアたちが入室し、その中でも一際若い二十代の男性が母の横に立ち静かに見下ろした。
「君がヴァンパイヤ、神遺秘装を宿した異種族か。生きた被験体は初めて見る。君には悪いが、僕の計画に協力してもらうよ」
「計、画……?」
母は、震えた眼で男性を見やり尋ねる。
「人類の新たな進化の可能性――神を産み出すための計画さ。
怖がってくれていい、恨んでくれていい、呪ってくれていい。僕はこれから人様に顔向けできないことを、永遠の生き地獄を君に与えるのだから」
それが母――不死の吸血姫と呼ばれたアイリスと、異生物学者であるヨーハン・クロイスとの出会いだった。
◇
そして彼女、フリーディア最高戦力を有するグランドクロス=シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーは、微睡みの淵から解放された。
「――はい、終わったよシャーレ」
「………」
どこか軽快な少女の声音が耳朶を打つも、寝惚けた眼は無機質な天井を見つめたまま離さない。彼女は現在、都市カーラにあるFEC本社内にいる。そこの研究室に備え付けられたベッド上で、横になっている。
右腕には、一本の管が刺さっており、そこから更に視線を上に向けると、空になった輸血パックが、輸液スタンドにぶら下がっていた。
「あれ、まだ寝惚けてる? 君の大嫌いなご飯の時間は終わったよ、シャーレ」
「言われなくても分かっていますよ、クーリアさん」
上体を起こしながら、シャーレは白衣を着用した知的な印象を思わせるクーリアと呼ばれた美少女へ顔を向ける。
ポニーテールに結った灰金色の髪が豪奢に靡き、その端整な顔立ちと黒いフレームの眼鏡が知的な印象をより高めていた。最も特徴的なのは、白衣の下に学生服を着用していることか。
彼女――クーリア・クロウ・ククルウィッチは、シャーレと同じカーラ女学院中等部に通っており、若干十五歳でありながら天才技術者として名を轟かせている異端児。
魔術武装製造の総本山といわれるFECの社長令嬢という立場に加え、シャーレ専属の輸血係であり、他者の絶望を喰い物にする最厄の数少ない理解者だ。
「んじゃ、今日はもう上がりだし、さっさと着替えて帰ろうよ。せっかくだし、どこか寄ってく?」
患者服姿のシャーレへ、学生服を手渡しながら言うクーリア。
「寄りませんよ。私は調べたいことがありますので、このままお暇します」
「それってあれ? 例のジェネラル計画のこと?」
ジェネラル計画――かつてアージア生物学研究所にて違法な遺伝子操作と人体実験を施し、人工的に神を生み出すための計画。シャーレにとって、全ての解えを知るための重要な手掛かりだ。
何故、己だけが他と違うのか? 何故、己はこの世界に生まれてきたのか? 内から湧き上がる悪性の根源を解明し、本当のシャーレを――自分が本物の人間だと証明したい。もう誰にも紛い物だなんて言わせたくないから。
「えぇ。ダリル・アーキマン大佐は戦死してしまったようなので、お兄さんに関する情報を得る手段を失ってしまいましたから」
シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーにとって、何よりも優先すべきことは、ユーリ・クロイスの足跡を追うことだ。戦争の被害や、テロリストの襲撃、世間がどうなろうと知ったことではない。
「ここ最近、本当ユーリ・クロイスにお熱だねぇ。私を捨てて、別の男に靡くなんてシャーレの浮気者!」
「うふふ、殺しますよ?」
シャーレを揶揄うクーリアへ、笑顔で殺意を向ける。最厄を知る者が見れば、命知らずかと言いたげな発言だが、クーリアにとってはただの戯れ。浴びる殺気を、そよ風のように流し「冗談だよ」と、言って笑う。
患者服を脱ぎ、学生服に着替えるシャーレは、とても人類最高戦力を有するようには見えない。どこにでもいる普通のお嬢様に映る。
けれどシャーレの抱える歪みは、余人には計り知れない程深く濃い。闇を愛し、光を忌避するこの世界唯一の異端児は、一体何処へ向かおうとしているのか?
「てかさ、ユーリ・クロイスについて知ってどうするの? シャーレの知的好奇心が満たされるのは分かるんだけど、君の大好きな絶望的状況を差し置いてまですることかな?」
種族連合との戦争で亡くなった兵たちの家族、テロリストの脅威に怯える市民の嘆きと絶望は最厄にとって蜜の味ではないのか? それを啜らず、何故シャーレはユーリ・クロイスに固執しているのか?
「さぁ、どうしてでしょうね。私にとってお兄さんは特別な人――何故かそう確信しているんです」
そう答えたシャーレの表情はどこか儚げで……そして美しかった。
「ふぅん……ま、いいけどさ。あんま無茶やらかさないようにしなよ。
特に今のミアリーゼ様に見つかったらヤバそうだしさ。警戒されてんでしょ?」
「えぇ、二十四時間監視されてますね。おかげで表立って動けなくなってしまいました。だからクーリアさんの研究室にいる時だけが、唯一の安息なんです」
「統合連盟総帥"代行"――ミアリーゼ・レーベンフォルン様。本当参っちゃうよねぇ。特に私らみたいな後ろ暗いこと、いーーっっぱいしてる研究者たちは、皆いつバレて処刑されるのかって、ビクビク怯えてるよ」
ミアリーゼ・レーベンフォルンが、統合連盟総帥代行の地位に就いてから早一ヶ月。見た目の清廉さとは裏腹に苛烈な政策により、クーリアのような一部の者たちからは反感が寄せられている。
僅かでも証拠が示されたなら、反論の余地なく即極刑に処される。例えそれが些細な気の迷いで起こしたことだとしても、改心の余地なく――極端に言えば、万引きしただけで極刑に処されてしまうのだ。
一種病的と思えるほど徹底して悪性を排除しようとするやり方に、一部の市民はどことなく怯えてしまっている。半面、全く後ろ暗いことをしていない善良な市民にとっては、希望の光と言われ期待されており、ミアリーゼを支持する者が多いのもまた事実。
「あなたは殺されて当然のことをしてるじゃないですか。何せ、レーベンフォルン卿率いる反政府勢力組織――革命軍ルーメンの幹部なんですから」
この場で、シャーレだけが知る事実をさらっと口にする。
「まぁね! グレンファルト様からお声をかけていただいた時のことは今でも忘れられないよ!! あの御方は私の唯一の理解者にして――」
「――しつこいくらいに聞きましたので、もういいです。正直私に言わせれば、レーベンフォルン卿のどこが良いのかさっぱり分かりませんが」
見ての通り、クーリアは異常なまでにグレンファルトに心酔している。元々変わり種で周囲から疎まれていた彼女に目をかけたからだというのは分かるが、シャーレ本人は辟易していた。
極光の英雄グレンファルト・レーベンフォルン率いる革命軍ルーメンのメンバーは、軍や研究者の中にも多数在籍している。
ダリル・アーキマンを筆頭に、クーリア・クロウ・ククルウィッチ含めた者までもテロリストの一員だというのだから笑えない。
シャーレ個人は、ルーメンのメンバーではないが、内情は詳しく把握しており、絶望へ堕とす最厄の饗宴を披露するために、時々協力していたりする。
グレンファルト個人とも秘密裏にシャーレは何度か接触しており、互いに利用し、利用され、持ちつ持たれつといった間柄だ。彼自身は、シャーレのことを酷く毛嫌いしているが、ファルラーダとは違い目的のためなら手段は選ばない。
そういった意味では、グレンファルトは合理的でやり易い。
英雄の目的が果たされた暁には、シャーレは間違いなく殺されるだろうが、その時は殺し返せばいいと本人は考えている。
「グレンファルト様の魅力を語ったら、一日じゃ足りないなぁ……よし、それじゃ今からファミレス行って朝まで語り明かそう! 監視してる人にも聞かせて、こっちに引き込んじゃえばいいんだよ!」
「絶対に嫌です♪」
鼻を大きく鳴らす英雄好きへ向けて、淑女然とした笑みを浮かべて即答した。
◇
シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガーは、人が当たり前に感じる幸せを享受することができない。仲睦まじく手を繋いで歩く恋人、友人たちと楽しく談笑しながら帰宅する学生たち。仕事終わりに同僚や先輩と飲みに行き、馬鹿騒ぎしている会社員たち。子供を連れて幸せそうに歩く夫婦――全て絶望の怨嗟に叩き落としたくなる。
何故、シャーレだけが他と違う? 遍く悲劇を愛し、闇が渦巻く汚泥の心を抱えた異物は、何故この世に生まれたのか? 何故、自分だけが普通の人間とは違うのか? シャーレは知りたい。何を? 解えを。それはきっと、世界全てが闇に覆われた際に判明するのだと彼女は信じて止まない。
無関係な人達からすれば、彼女は傍迷惑な厄介者以外の何者でもない。誰からも忌避されて然るべき彼女だが、止まるつもりは毛頭ない。答えを知るためなら己の命すらも平然と賭けられる。
数日後――学院を欠席し、首都エヴェスティシアの総本山たる議事堂へ足を運んだシャーレ。当然政府に警戒されているため、監視とお供する。
その監視を務める女性から湧き出る殺意は、エヴェスティシア議事堂そのものを軋ませていた。
「おいゴミ屑、少しでもおかしな真似をしてみろ――生まれてきた事を後悔するまで、ぶち殺してやる」
「それ、何度目ですか? 今日はただお願いしに来ただけですし、いい加減その端ない殺気を沈めてくれませんか? 議員の方々が怯えてしまっていますよ、クリスフォラス卿?」
統合連盟軍総帥代行の職務室へシャーレを案内しているのは、天敵ともいえる同じグランドクロスのファルラーダ・イル・クリスフォラスだった。
当然といえば当然で、シャーレが謀反を働いた際に止められるのが千術姫しかいないためだ。
別にそのつもりはないのだが、こう露骨な態度を取られると気分が悪いし、本当に殺してやろうかと思ってしまう。
「いいか? くれぐれもミアリーゼ様の前で失礼な態度を取るんじゃねぇぞ? あの御方はお忙しい中、貴様のような紛い物に時間を割いてくださるんだ。そのことをよく理解して――」
「あなた、以前に増してめんどくさくなりましたね」
「んだと、ゴルァッ!!」
シャーレとファルラーダの相性の悪さは言わずもがな。一言交わす度に一触即発の空気になる彼女たちは、水と油のような関係だ。
その後も、殺気が入り混じるやり取りが続き、従来の倍程の時間をかけてようやく本命のいる部屋へと辿り着く。
ファルラーダは内心苛立って仕方ないだろうに、それを表に出さず気品ある所作で扉のロックを解除した。自動で扉が開き、ようやく部屋へ足を踏み入れたシャーレは、新たな人類を率いる姫君へ一礼する。
「――予定より少し遅い到着ですが、まぁ良いでしょう。それで、私にお願いしたい事とは何ですか? グランドクロス=シャーレ・ファンデ・ヴァイゼンベルガー」
現統合連盟総帥代行――ミアリーゼ・レーベンフォルン。
以前会った時とは比べ物にならない程、圧倒的な威圧感を放つ姫君へ、シャーレは柔和な笑みを返した。