第102話 人類の闇
閉鎖された無秩序が生み出す暴力の世界。その名が示す通り、ミアリーゼが足を踏み入れた瞬間に、その空気が一変した。
「何なのですか……これは」
鼻を劈くような異臭と腐敗臭、所々から聞こえる呻き声や断末魔、悲鳴、絶叫。映る景色は、人が住んでいる町とは呼べない廃墟ばかり。それも人間が造ったものではない、当時異種族が住んでいた物をそのまま利用しているのだろう。
「ふん、久々に顔を出したが、相変わらず辛気臭え場所だな。十年以上も経ってんのに一切変わり映えのしねぇ景色、昔よりは人が減ったようだがまだまだ問題は尽きねぇよ、なッ!!」
「え? きゃあっ!?」
愕然とスラム街の景色を眺めていたミアリーゼの頭上に、突如としてファルラーダの脚撃が勢いよく放たれる。
ブォンッ! と、空気を切り裂く音が頭上を通過し、ミアリーゼは慌ててその場で頭を抑え、屈み込む。一体何が起きたのか、ファルラーダの予期せぬ行動に動揺を隠せなかった。
しかし、ドコンッ! という衝撃音と「うぐぅっ!?」という見知らぬ男性が呻く声が耳に届いた瞬間、ファルラーダの行動の意味をミアリーゼは知ることになる。
「――愚物風情が、嘗めた真似してんじゃねぇぞ、ゴルァッッ!!!」
激昂するファルラーダと、怯えるミアリーゼの視線の先には、見知らぬ男性が廃墟の壁に大の字でのめり込んでいた。
背格好からしてスラム街に棲む暴漢らしい。ミアリーゼを殺して金品を奪うために襲いかかったのだろう。
恐らく暴漢は、ファルラーダの反応速度と力を甘く見ていた。隙だらけのミアリーゼは、暴漢からすれば恰好の獲物であり、それゆえに目が眩んだのだろう。
姫を守護する憤怒の獅子が、すぐそこにいるとも気付かずに。
「小娘、怪我は?」
「だ、大丈夫ですわ。助けていただいてありがとうございます」
ファルラーダの手を取り、何とか立ち上がるミアリーゼ。足下に落ちているナイフを見て、彼女が助けてくれなければ死んでいたという事実に恐怖が伝う。
「どうだ小娘? ここが軍事基地を巡っただけじゃ、見えなかった景色だ」
「こんな……何もしていないのに襲われるなんて、まるで戦場ではないですか!?」
死と隣り合わせの暴力が織りなす世界。弱者は容赦なく淘汰され、強者だけがこの世界で生き抜くことができる。女、子供など一切関係ない。ひとたび油断すれば強者の餌食となる、これこそがスラム街の日常。
「こんなもんまだ序の口だ。奥へ行けば行くほど、凄惨な光景が待っている。どうする? 引き返すなら今の内だぜ?」
「いいえ、進みます。人の悪感情を、私は知らねばなりません!」
「そうか。ちなみにここは治安維持部隊が匙投げるくらい悲惨な状態だ。
グランドクロスが動かざるを得ない何かが、此処にある。どんな闇が隠れてるか知らねぇ。充分注意して進め」
「はい」
匙を投げる。そして、グランドクロスであるファルラーダが出向かねばならない程に危険な場所。統合連盟軍の兵士たちは、目の前に広がる悲惨な光景に精神が保たなかったのだろう。
まさに無法地帯。政府が投げ出す暴力の世界は誰の目にも捉えられない。つまりそれは何をしてもいいということ。欲望のままに暴れても、咎める者はいないのだ。
「私が今までやってきたことは、何だったのですか……」
ファルラーダの背に守られるように歩いていくミアリーゼは絶望に苛まれていた。
呑気に軍事基地を巡っている間に、ここでは沢山の人が生活に苦しみ喘いでいる。死と隣り合わせの日常で、必死に生きているのだ。
ミアリーゼの目に映る光景は本当に同じ世界か? と、思うほど荒んでいる。どこにも安寧の場所などない。皆ボロボロで目に光を宿していない。明日の保証などどこにもない暴力の世界で淘汰されるのをただ待つばかり。
ふと視線を横に向ける。僅かに見える人影が二人。一人は筋肉質な三十代後半と思しき男性、もう一人は若い女性だった。
女性は服を着ていなかった。全身傷だらけで、大柄な男性に髪を捕まれ、容赦ない暴力を浴びせられている。
「止めなさいッ!!」
気付けば、ミアリーゼは叫んでいた。今まで出したことのない張り詰めた声。人はそれを怒りと呼ぶのかもしれない。
ミアリーゼは目の前で繰り広げられる光景に、怒りを懐いたのだ。
「あぁ? 何だテメェは」
ミアリーゼの叫びに筋肉質な男性は反応を示す。
「今すぐその行いを止めなさい! ご自分が何をなさっているのか、分かっているのですか!?」
男性の足元にいる女性は、ボロボロの身体になりながら涙を流している。そんな女性に暴行を加える男を、ミアリーゼは黙って見過ごすことはできなかった。
女性の痛々しい姿に同情したのか、それとも単純な正義感からか、理由は分からないが、ミアリーゼはその行為を許せなかったのだ。
男は苛立ちげにミアリーゼを睨みつける。鋭く尖った殺意が込もった眼光を受けても尚、怯まずに毅然と立ち向かう少女の姿がそこにはあった。
「あなたのその身なり、その体格……。スラム街出身の方ではありませんわよね?」
スラム街にいる住人は食うにも困っており、皆一様に痩せ細っていた。ラフなタンクトップという出で立ちだが、この男だけは身体付きからして明らかに裕福層の住人、放っている雰囲気がまるで異なる。
加えて女性も同じく、スラム出身ではない。何処からか攫って来たとしか思えない。
「お嬢ちゃんこそ、小綺麗な格好からして外の住人だろ? 大方、興味本意で観光に来た、どこぞの名家様って雰囲気だな」
「ッ」
佇まいや雰囲気で、相手はミアリーゼの素性を見抜いた様子だった。
「その方を今すぐ解放しなさい!」
「嫌だ、って言ったら? ほら、おいどうすんだ?」
大柄な男は、女性の髪を引っ掴んだままミアリーゼへ差し向け、問い掛ける。
「ファルラーダ様! 今すぐあの御方を――」
と、ミアリーゼが告げた瞬間に気付く。
「………え?」
振り返ると、そこに誰もいなかった。ずっと側にいてくれたファルラーダ・イル・クリスフォラスが忽然と姿を消していたのだ。
混乱冷め止まぬ中、突如としてミアリーゼの身体に衝撃が襲った。何が起こったのか、理解するまで数秒の時間を要した。そして理解した頃にはミアリーゼの身体は、被っていた帽子と伊達眼鏡ごと吹き飛び、ハラリと艶やかな透明感漂う白色髪を、宙へ舞わせながら地面へ倒れていた。
ミアリーゼの視界に映ったのは、自分を蹴り飛ばしたであろう男の姿。ニヤニヤと笑みを浮かべたまま、女性の髪を引き摺り歩いてくる。
「うぐッ……ゴホッ」
「おいおいさっきの威勢はどうしたよ? なぁ、おい、お嬢ちゃん!!」
男が笑いながら何度もミアリーゼを蹴り飛ばす。その行為に躊躇いはなく、むしろ楽しんでいる様子だ。
「……ぐッ、今すぐその方を解放しなさい……あぐっ」
「しつこいっつの!! この女は俺が見つけた俺の獲物だ。何もできねぇお嬢ちゃんに従う義理はねぇな! それとも何か? お嬢ちゃんがこの女の代わりに俺の慰み者になってくれるのかい?」
痛みに堪えながらも、ミアリーゼは視線だけは逸らさないと男を睨み続ける。問いには答えず、ミアリーゼは自身の要求を伝え続ける。
「もう一度言います、その方を解放しなさいッ」
「だったら力尽くで止めてみろや!!」
男はそう叫ぶとミアリーゼの顔面を勢いよく踏みつける。鼻骨が折れ、鼻血が噴き出るが、それでもミアリーゼは諦めない。
何度も何度も踏みつけられ、意識が朦朧とする中で、ミアリーゼは男の足を掴み、ひたすら同じ言葉を繰り返す。
あぁ、自分は何て無力な存在なのだろう。目の前の女性一人救うことすらできない。戦争を終わらせるという胸に懐いた誓いは、たった一つの暴力で潰えていく。
「チッ、中々しぶといな。それじゃ、これはどうかな? お嬢ちゃんが必死に助けようとしたこの女が死ぬところを見れば流石に折れて泣き叫ぶだろうぜ!」
そう言って男は、女性の首を強く絞め上げる。
「ッ、止めなさい!!」
必死に声を上げるミアリーゼだが、全てが遅い。女性の頚椎からゴキリ、と鈍い音がしたと同時に、糸が切れた人形のようにダラリと腕を下げた。
「あ、あぁ……」
女性の身体が崩れ落ち、地面へと横たわる。その光景を見たミアリーゼの瞳からは、大粒の涙が流れ落ちていた。
「くっくく。ようやく見たかった顔が拝めたぜ、いい面してんなお嬢ちゃん。いやぁ、スッキリしたぜ。
んじゃ、折角だしこのまま連れ帰るとするか。奴隷として貴族様に高く買い取ってもらうとするよ」
男はそう言いながらミアリーゼの髪を掴み上げ、ニヤリと笑みを浮かべる。しかし、何かに気付いた様子で、男は「ん?」と、疑問符を浮かべながらミアリーゼに顔を近付ける。
「お嬢ちゃん、俺の勘違いだったら悪いんだが――ひょっとすると統合連盟総帥の娘さんか?」
「だとしたら何だと言うのですかッ」
女性を殺させてしまった己の無力さに苛まれながらも、決して屈さないとミアリーゼは男の顔を睨み返す。
「く、くくく……あはははははははは!!」
男はミアリーゼの正体を知ると同時に、大きく高笑いを上げる。
「おいおい、コイツはとんだ傑作だぜ!! まさかあのミアリーゼ・レーベンフォルン様が一人でスラムに来るなんてよぉ!
つまりお嬢ちゃんを人質に統合連盟政府を強請れば、俺らの目標は達成されるってことじゃねぇか!!」
「あなた……まさか」
ミアリーゼを人質にする。そんなことをして得する者は一つしか思い付かない。
「テロリスト、って言えば伝わるか? 身内に言えば怒るだろうが、お嬢ちゃんにならいいよなぁ?」
ミアリーゼが遭遇した男性の正体は、治安維持部隊が最も警戒する存在――テロリストと呼ばれるフリーディア統合連盟政府転覆を目論む人間の一人だった。