episode46(ⅱ)
ヒュウの言っていた人影は問題なく見つかり、シュリは彼に追いつこうとしていた。
待てと声で制止しても聞く耳を持たず、彼はひたすら必死に走るばかりだ。こちらを一瞥することもない。
姿は従僕、端から見れば人の形である。だが、師が追えと言ったのだから人外であることに間違いないだろう。
真後ろまで迫り、背を引き留めようと手を伸ばす。しかし俊敏に躱されてしまい、即座に相手は身を反転させた。
その勢いで振り出される拳。それにしては巨大だ。
黒い塊は蟹の鋏のように見えた。
甲殻類が持つような光を鈍く反射する、滑らかな表面。膨張したために袖は張り裂けていた。
頭を狙ってきた殴打を、シュリは上体を反らして避けた。数メートルの距離を取り、腰を落として相手を見据える。
フットマンの右腕は、硬質な殻が成す鋏型の触肢だった。腰の辺りからは尾と酷似した円筒状の五つの体節が伸びている。どう見ても哺乳類が有する皮膚ではない。
特徴から記憶を照らし合わせ、シュリは彼を蠍の人外だと断定した。
化け物は整えられていたであろう髪を乱し、面を真っ青にさせている。仰々しいほどに気が動転した様子で言った。
「な、何なんだお前たちは! ここの従事者じゃないだろう……!」
「どの口が言う。人の命を喰らっておいて、まだ従者の皮を被り続けるつもりか」
両手に持つ銃身を一直線に向け、少年は凍てつく眼差しで射る。湧き立つ敵対心は見て取れた。
相手は発症者ではない通常個体。
本来なら、氷輪の救急箱の定める駆除対象には含まれないが、今回の依頼内容は摘発及び駆除である。多少の罪悪感はあれど、それは処刑人らの死によって打ち消されていた。
若い男は、未だ人間の形をした左手を胸に当てて言う。
「ぼ、ぼくは人として働いてるんだっ やっと母さんを守れると思ったのに、ぼくまで殺そうだなんてっ」
情けない声は芯が振れている。悲痛な訴えだったが、対峙する少年に届くことはなかった。
シュリは瑠璃の目を細め、無感情に言う。
「『人として』? では今、貴方の腹の中にあるのは何だ」
カチャリと金属音が威嚇する。筒先は従僕の腹部を見据え、舌舐めずりをした。
規模の大きな戦闘はしたくない。手短に済むのならそうしたいところだった。
しかしこちらの意に反して、幼子から殺気を向けられた男は大袈裟な溜息を吐く。のちに脱力し、だらりと腕を垂らしてみせた。彼は眉間に皺を寄せると、下から睨めつけてくる。
先刻の怯えた声音とは打って代わり、卑屈な台詞が口を衝いた。
「あーあ。英雄ごっこには付き合ってらんねぇ」
低音が聞こえた半瞬後、気配が眼前に迫る。
乾いた音と鈍重な音が谺した。シュリの短い呻きが零れる。
腕を思い切り下へと叩かれた。骨にまで響く激痛が指先まで伝わり、痺れに近い感覚が判断を鈍らせる。愛銃を手放しそうになった。
前へ勢いよく倒れかけるも、足は後退の動きを取る。だが、相手の鋏がこちらの胸部を目掛けて開かれた。
華奢な体躯はいとも簡単に床へ押し倒される。後頭部を強打し、視界が明滅した。
(弾丸が通らない……!?)
「そんなモンで殺せると思ったか。十年そこらしか生きてねぇガキが調子乗ってんじゃねぇよ」
みし、と体が軋む。巨大な鋏に腕ごと挟まれ、身動きが取れない。思案する暇もない。銃口は外を向いてしまって、引き金を引こうにも引けない状態だ。
力の限り抵抗するも人外はぴくりとも動かない。圧倒的な力量差にシュリは屈していた。
僅かな身じろぎで精一杯の中、フットマンは子を見下ろしながら顔を近づけてくる。尾の先端を頭上から垂らし、少年の首元に突きつけた。
鈎状の針は刺す場所を選んでいるかのように、ゆらゆらと揺れてみせる。
対するシュリは、臆することなく睨み続けた。その反抗的な視線に若い男は鼻で笑う。
「テメェはちょん切っちまうよりも苦しんで死ぬ方がお似合いだ。あばよ」
彼の口が大きく歪む。針が高く掲げられた。脈が思考を急かす。彼は奥歯を噛み締めた。
不意。
がたん、と衝突音が離れた場所から響いてきた。
両者の意識が逸れる。フットマンがちらりと廊下を向こうを見遣ると、音のした方から小さく息を呑むのが聴こえた。
誰か、いる。
「そ、その者を離せ! さもなくば私が叩き切ってやる!」
強く張られた声音に滲む怯えの二文字。シュリは血の気が下がる思いをした。
聞こえてきたのはカエハの声だったのだ。
丁度、彼の真上にいるせいで姿は確認できない。台詞からして、何処からか剣でも持ち出してきたのだろう。世辞でも身体能力が高いとは言えない彼が、怪物に立ち向かおうなんざ失笑ものだ。勝てるはずがない。
蠍の人外は標的を挟み込んだまま、嘲笑を浮かべて王子へ言った。不敬すら厭わず、眼前の子どもに言葉の刃を突き立てる。
「お飾り王子サマは引っ込んでろ。片方と違って度胸ねぇんだからさァ」
途端、シュリは無駄な思索をやめた。




