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episode46(ⅰ)

 人気のない閑静な書庫。

 (かび)臭い本が押し黙って並ぶ空間。一人の偉丈夫が悠然とした足取りで奥へと進んでいく。


 此処が暫く使われていないことなど、わざわざ説明しなくとも十分にわかる有り様だ。掃除は行き届いていたが、壁や床が修繕されていないまま放置されている。


 こつ、こつ。硬い革靴の音だけが響いた。

 話にあった真新しい本棚の近く。付着してから時間が経った血が点々と残されていた。


 それを目に留めた、瞬間。


 腰に隠していたダガーナイフを素早く手にしながら、背後に振り出した。刃が断ち切ったのは半透明の糸。

 彼は鋒を真っ直ぐに天井の隅へと向ける。薄暗い室内だが、彼にははっきりとその姿が見えていた。


「息子たちが世話になったみたいだな。その礼をさせてもらう」


 低い声が威嚇と警告を示す。

 対して、蜘蛛の人外は血走った目を見開き息を荒げた。四肢、否、八本の手足を広げ、横開きの口から牙を覗かせる。半分は人の姿をしているからこそ、余計に気味の悪さが目立った。


 相手は人語を話せないらしい。ひたすら鋭い歯の先をカチカチと鳴らして、こちらの様子を窺っている。見たところ女を模しているようだ。

 相手はきつく顔を歪め、四本の上腕を突き出した。すると指先から半透明な糸が発射される。

 迷いのない攻撃。

 敵対心があることは明白だった。


 グレウは狼狽する様子もなく、淡々と襲い掛かってくる無数の糸を捌く。粘着質なものだったが刃には付着せずに切り払われていった。

 それが想定外だったのか、彼女は逃げようとする仕草を僅かに見せる。だが、この偉丈夫の前では弱みを露わにしたのと同等だった。


 距離を詰められるも、攻撃の手を休めることなく、じりじりと相手は横にずれていく。

 此処の出入り口は一つしかない。扉に少しでも近づこうと微妙に動いていたが、男の鋭利な眼光に縫い付けられる。

 彼は化け物から放たれる糸には視線すら遣っていなかった。

 真っ直ぐに標的だけを見据えている。


 グレウの面は無表情だった。しかし、その逞しい体躯から滲み出ているのは紛れもない殺意。骨さえも(ひしゃ)げてしまうほどの威圧は、向けられた短刀の刃よりも鋭利で恐ろしい。

 相手は血迷ったのか、攻撃をやめて身を返した。それが失策だったことは言うまでもない。


 古びた扉に手をかけようとしたが、伸ばされた指が触れることはなかった。

 寸分の狂いもなく、蜘蛛の女の頸にダガーが投げつけられる。鈍い音を立てるのと同時に、醜い頭が跳ね飛んだ。


 女の絶叫が鳴り響く。

 だが悲痛な声は、彼には届かない。


「王宮に巣食うとは、随分と()の高い下手物もいるものだ」


 壁には赤の飛沫が上がり、短刀が放たれた勢いのまま突き刺さる。鉄の匂いが広まっていった。

 首から上を失った体は数秒暴れたが、間もなく人形のように床へ転がる。化け物とはいえ臨終際は人間に似た反応をするのかと、グレウは冷めた翡翠で見下ろしていた。


 眼差しが人外の指先や腹を伝っていく。彼が違和に気づくと、それと合わせたかのように書庫へ誰かが駆けてきた。


「グレウ! これは……蜘蛛の人外?」


 扉を開けたのはシュリだった。その後ろにはヒュウが立っており、いつもの師弟が揃っている。

 少年の声掛けに男は低く答えた。


「同胞らを襲ったのは此奴(こいつ)ではない。他にもいるのか」

「あぁ、その事を皆に伝えようとしてたら悲鳴が聞こえてね。まさか先に駆除しちゃうなんてな」


 ヒュウが困り笑いを浮かべながら、足元で事切れた同類の骸に膝をつく。離れた場所に飛んだ頭には目もくれず、手早く体を触って確認し始めた。

 ぶつぶつと何かを言い、やがて面を上げる。

 彼曰く、この人外は暫く何も食べていないらしい。糸の質、手足の細さ、皮膚の乾きから、この暗がりに住み着いていた時期は最近だそうだ。


 明確な侵入ルートは不明な上、誰が従僕を喰らったのかが分からない。


「ですが先生、ここでは確実に一人が亡くなっています。それでも食べていないと?」


 純粋な疑問を口にする子へ、師は紅い三白眼で見上げて返した。

 蜘蛛の糸は蜘蛛の()を成すものでないことを知っているかと。

 正しく言うならば、あれは餌を捕らえるための罠である。彼女はこの書庫以外にも似たものを仕掛け、人間がかかるのを待っていたのだろう。自分でない、誰かのための食料を捕らえるために。


 誰か。

 その言葉が指す存在を探そうと、少年が考え込みかけた時、ガラスの割れる音が鳴った。

 反射的に向けられた視線の先、物静かな廊下に散乱する花瓶の破片。周囲に人はいない。気配すらすぐ遠ざかった。


 逡巡する間もなくヒュウが超音波で影を追う。閉ざされた瞼が持ち上がると、涼やかな声が飛ばされた。


「中庭の方角に走って離れてく奴が一人、挙動が不自然だ。頼んだよシュリ」


 台詞を聞き終える前に弟子の足が出る。了解と短く返された言葉には、信頼の色が濃く浮かんでいた。

 庭師の姿から軽装になったこともあり、猫の如く俊敏に絨毯を蹴っていく。何より彼にとっては元の住処を駆け回るだけなのだ、造作も迷いもないだろう。


 残されたグレウは、自分も追うかと青年に尋ねる。が、彼は首を横に振ってみせた。


「あの子が何とかするよ。それより庭師さん、この死体どうするつもりですか?」


 にこやかに言う彼の指が指し示していたのは、首のない化け物の死骸だった。

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