episode5
「ニホン? なんだそれ」
「あらぁヒュウ君は知らないの? 極東にある国のことよぉ」
夕食の買い出しのため外に出ていた師弟は、市場に向かう途中で大家のミストと立ち話をしていた。
「それで、ニホンがどうしたのですか?」
シュリの問いに老婆は、いつも通りの穏やかな表情で答える。
ニホン――日本という国から大型の船がやって来たそうだ。百人余りの奴隷と多量の銀、生糸を差し出し、交易の権利を求めに来たらしい。
それに対しヴィンリル王国は国の名産物である鉄や小麦を渡す予定で、貿易をするかどうかは検討中だという。
また送られてきた奴隷は、人外との戦闘の際に囮、または餌として利用するらしい。
「ニホンの方には悪いけれど、これで暫く民間人は安泰ねぇ」
ミストは細い目の目尻に皺を寄せて微笑む。シュリは「そうですね」と相槌を打ちつつ、自身の背に回した右手をきつく握っていた。あまりの力強さに手は小刻みに震えている。
その隣、ヒュウはいつも通り笑顔の仮面を張り付けながら、老婆に別れの挨拶を口にした。
ミストが去った後、耐えられずシュリは低い声で呟く。
「この国は命を何だと思っているんだ……ッ」
「落ち着け。ここは外、父親たちの文句は慎め」
師の囁き声を耳にすると、シュリは幾分か心が落ち着いた。しかし彼の胸の中で猛る憎悪の炎は勢いを止めず、体内を焦がすばかりである。
重い空気をまといながら二人は市場へと再び足を向けた。
活気に溢れる、にぎやかな人々の声が飛び交う。大人や子供らが笑い声をあげながら歩き回る中、シュリは浮かない顔でいた。
商人と楽し気に話すヒュウをぼうっと眺め、心中に滲み出てきた言葉を反芻させる。
先生は人外であってこの国では害悪の権化、でもこうして人間と会話している。
人間は馬鹿であると感じた。
事実に気が付かなければ、どんな恐怖が傍に居ようと平然と生きる。そして気が付いた時に、いかにも自分が被害者だと言い張り周りに同情してもらう。自分は今の今まで気づいていなかったくせに。
(……人間は嫌いだ)
いつだって人間は自己中心的に物事を考える。
例えば、急激に加速する技術革新で森林は伐採、線路をそこに敷き、蒸気機関車だとかいう煙をばら撒きながら走る鉄の塊を作り出した。言わずもがなその自然に生きる動物らは追い出され、害獣だと言われ、狩られた。
己の発展のためならば、他の命は命と見なさない。人間というものはそういうものだ。
その時微かに、幼い声が鼓膜をくすぐった。
「ねぇ、かあさん。よその人がお船にのって、たくさん来たんでしょ。ぼく見てみたいなぁ」
「そうね、港が近いから様子を見てみても良いわね」
何故か妙に親子の会話が聞き取れた。
シュリは俯かせていた顔を上げ、港があるであろう方向を向く。緩い潮の匂いが鼻孔を漂い、なにかを誘っているように感じられた。
彼は会計を済ませ歩きだそうとするヒュウを引き留め、港に行きたいと懇願する。弟子の突拍子のない願いに首を傾げつつも、ヒュウは少しだけならと言って体の向きを変えた。
港に近づくにつれ人の数が増えていく。人々は口々に「異国の人」「生贄」と言って笑っていた。
人の流れに押され、船着き場付近に漂着すると大きな木製の船が視界に押し寄せる。そのすぐ側、小さな影が蹲っていた。
周りに人はおらず目もないため、シュリはヒュウの呼び止める声を振り切って蹲る影に駆け寄った。
「あの、君はもしかして」
「っ……ッ!」
影――それは黒い布を被っており、ここらでは見慣れないボロボロの服を身に着けている。
日本の少女だった。
年はシュリより幼く見える。裸足や頬には血が滲んでおり、すっかり衰弱しているようだ。おまけに、彼女の両手首は背中で拘束されて自由が利かなくなっている。
こちらの言語が理解できないらしく、少女は只々困った顔をしているばかりだった。
「そいつ商品だな、値札が付いてる」
追ってきたヒュウは呟き、少女を縛る縄に付けられた紙切れを指さす。それにはこの国の言語で「ニホンの女児・状態 悪」と記されおり、値段が書かれるであろう箇所は空欄になっていた。
シュリはさっと血が引いたのを感じた。この少女はこの後、オークションにかけられるのだと気が付いたのである。
ヒュウはしゃがみ込んで少女と同じ目線になって言った。
「人外の餌にもなれないから、愛玩人形にされるか殺されるかなんだろうな」
「どうにか助けられませんか。人身売買なんて非人道的すぎます」
弟子の願いを聞くと、青年はそれを却下した。
「そうだな、でも無理だ。これはもう商品で、僕らがこの子を助けたら盗んだことになる。即刻お縄だ」
「ですが見捨てるなんてこと」
「じゃあ助けたとして、その後はどうする。一緒に住むのか? そんな金はないよ」
彼の冷たい返答に、シュリは反論する言葉を詰まらせる。口喧嘩ではヒュウに勝てた覚えはない、だがこのままでは少女が売られてしまう。
「僕だってできれば助けてやりたい。けど、こんな境遇の子供なんて腐るほどいる」
そう言いながら彼は立ち上がった。すでに諦めているようだ。
シュリはどうすれば良いのか分からず、ひたすら怯える少女を見つめた。彼女は命や身を守る為なのか睨んでいるばかりで、こちらに助けを求めようともしていない。むしろ敵視するような眼差しだ。
彼女以外に売られるような人はいないが、もしかしたら既に売り飛ばされてしまったのかもしれない。この少女だけでも救ってやりたいと、シュリの中にある拙い正義感が鳴く。
「……お願いします先生」
少年は深々と頭を下げ、長い一筋の前髪が重力で垂れる。
子の必死さを見てヒュウは難しい顔をし、胸の内でせめぎ合う声に耳を塞ぎたく思った。
シュリは優しいのではない、正義感が強いだけだ。
青年は何度も心中で呟く。弟子の持つ天秤では、この少女を助けることが正義であるらしい。それに則るべきか否か、長い時間は考えていられない。
少し唸った後、ヒュウは大きな溜息を吐いて言った。
「後で後悔しても知らないからね」
すると青年は少女に近づき、彼女の手首を縛る縄を易々と解いてみせた。
彼の素早い行動にシュリは呆然とする。思考がやっと巡ったのか、彼は慌てて感謝の言葉を口にした。一方彼女は喚くでもなく抵抗するでもなく、黙っている。
ふっと彼は弟子を見て何か案が浮かんだらしい。彼は「面白いこと思い付いちゃった」と、にいっと笑って言う。
「よし身代わり作戦だ。シュリ、服を脱げっ」
始め自分の師の言葉が分からず、シュリは間抜けな声を漏らしたのだった。