episode39(ⅰ)
ただいま戻りました、という丁寧な台詞が玄関の扉を開く。
暖かい室内には紅茶の匂いが充満しており、シュリは帰宅したことに安堵していた。
同僚に出迎えられ、事務所の奥で資料を広げていた師に微笑まれる。ただ、おかえりと言われることが嬉しくて、少年は胸の痛みをそっと忘れた。
夜になって、処刑人の第零駐屯地から戻った彼は、幾ばくかの疲れを顔に滲ませていた。知らない場所に単身赴いたのだ、精神面にも疲労があったのだろう。
聞きたいことは山程あったが、ヒュウは取り敢えず何も尋ねずに席を勧める。自分も仕事机から立ち上がり、ヒールを鳴らしてソファへと向かった。
一方、リグは尻尾を振って少年の隣へと座る。彼の面は真顔だのに、視界の端に映りこむ忙しない尾が気になった。
「レイツァ、手合わせはどうだったんだ? 強かったか?」
見た目も相まって今のリグはさながら犬のようだ。
対してシュリは困ったように笑い、勉強になったと答える。自分の未熟さを痛感した、もっと強くなりたいとも。
そう生真面目に返すと、軍人の青年は切れ長の目を大きくする。何事もなさそうで良かったと冷静に呟くも、尾は変わらず左右に振られていた。
向かいに深く腰を掛けたヒュウは、年下組のやり取りを見たのち呟く。
「……流石に戯れすぎだったんじゃないかい、それ」
呆れを孕んだ口調に、ぎくりと弟子の上体が硬直する。隣、リグは何のことだかわかっていない様子で聞き返した。
長髪の青年は、平生と変わらず口角を持ち上げたまま続ける。左側腹部と左下肋骨部分に怪我を負っていると言い当てた。
「僕に気づかれないとでも? 隠すなとあれほど言ったのに」
「しょ、処置は済ませてあります。痛みもありませ」
「冷やしてないだろ、腫れてるぞ」
見透かされてると気づいた弟子は、それ以上口答えすることなく渋々口を噤んだ。申し訳なさそうに身を縮め、幼い謝罪が床に落ちた。
見ただけで診断した青年に、リグは驚きの眼差しをして感嘆する。狼の耳をぴんと立て、なぜ分かるのかと問うた。
ヒュウは弟子に手招きをしながら答える。
「いつもより動きがぎこちなかったのと庇って歩いてるみたいに見えたからかな。あと単純に超音波」
言葉終わりにピースをして見せ、彼はあっけらかんに笑った。
蝙蝠の人外であるヒュウは、物の位置関係を把握するために超音波を使うことがある。今回の場合は、シュリの僅かな服の膨らみを感じ取り、包帯であると判断したそうだ。
気まずい表情をして近づいてきた少年へ、師は小さく溜息を吐く。隣に座るよう指示し、自身は立ち上がった。
負傷からの経過時間を尋ねると、子は壁掛け時計を一瞥した。言いづらそうに大体四時間だと返す。
彼の返答を耳にしつつ、ヒュウはぶつぶつと何かを言って棚を漁った。手にしたのは数種類のハーブと小麦粉、そして大きめの亜麻だ。
彼は鍋に水を入れて暖炉に掛け、乾燥したハーブを刻む。それを熱湯に入れて煮出し始めた。
すると独特な匂いが鼻腔を刺す。青年にとっては何百回とも嗅いできたものだが苦手らしい。終始、顔を歪めていた。
離れた場所で見ていたリグが、ふと何をしているのかと疑問を口にする。シュリは師に視線を遣ったまま答えた。
「ポウルティスを作っています。パップ剤とも言いますね」
「痛み止めくらいしか効果ない民間療法だけどな。シュリ、服脱いどけ」
師は、湯気が立つ鍋に小麦粉を入れる。
彼の言葉に従ってシュリはループタイを外した。
色白な肌が露出すると、青年の言う通り、弟子の腹部と胸の下辺りに白い包帯が巻かれていた。自分で巻いたのか、上手くできていないように見える。
次にヒュウは、広げた亜麻に鍋の中身を満遍なく塗っていく。温かさを保った薬は粥に似ていた。
準備を終えると、今度は彼の足がシュリの方へ向く。
慣れた手つきで巻かれた布を外し、患部の触診を始めた。
「下肋骨の骨損傷ってとこかな。二週間は安静ね」
診断結果に幼い蒼の瞳が俯く。しかし構わず、長髪の青年は作業を続けた。
完成したポウルティスを腫れた部分に当てる。造作もなく包帯で固定していき、あっと言う間に治療は終わった。
「は〜本当にこれキッツい匂いだな、気持ち悪い」
「片付けはおれがやりますよ。ロッドさんは外の空気を吸っててください」
リグが腰を上げて言うと、ヒュウは遠慮なくそうすると返す。
足音が裏庭へと消え、事務所内で道具類が仕舞われていく音が響く。
シュリも手伝おうとして余った包帯を巻き始めた。が、金髪の青年に安静にしろと注意されてしまう。
「それより少し聞きたいことがあるんだが、いいか」
彼の改まった台詞に思わず目を丸くする。何事かと催促すると、彼の片付けをしていた手が止まった。
やがて僅かに逡巡して問う、おれの父上は変わりないかと。
質問の意図が分からなかったが、取り敢えず少年は首肯する。以前会った時と同じように、長として務めていたと付け加えた。
子の返事にリグは、そうかと呟いて作業を再開する。
その面から感情を読み取るのは難しかったが、頭上の耳や尻尾が垂れ下がっているのを見て、大方の予想はついた。
何となく、教えた方が良いかもしれないと思った。いずれ知ってしまうことならば、と。
シュリは一言、あくまで報告の一環だと前置きをして彼へ告げた。
「私が今日、手合わせをした相手は少女は……貴方のお父様が拾ったと聞きました」




