episode35(ⅱ)
若い狼の絶滅するという回答に、月魄様は頷いて辺りに視線を巡らせる。
周囲は冬眠から目覚めた野生動物たちが散見した。時折、半身が獣の人影が通り過ぎるが目で追うにも至らない。
しかし、その見守る瞳に僅かな揺らぎがあるのをヒュウは見逃さなかった。
彼は神に、今回の件を解決してほしいのかと問うたが、彼の予想に反してセーゼは首を振ってみせる。
「森の問題はわたしの問題。おまえ達に話したのは、おまえ達の仕事とやらに役立つと思ったから」
意味深長な台詞に、思わず師は怪訝な顔をする。向かいの美少女似の人物は、縹色のリボンを翻して行こうとした。
咄嗟にシュリが呼び止める。立ち止まり振り返るセーゼへ、少し逡巡してから口を開く。蝶についての話だった。
「貴方の仰った通りフレイアさんは……あの蝶は危険な存在でした」
白髪の人物は微かに目を細める。
最初に彼女の違和を感じ取ったのは番人。森を何度も出入りする不可解な行動に、彼もしくは彼女は怪しいと教えてくれた。だが師弟は、仲間に嫌疑を掛けられたとして一度それを認めず、すぐには行動に移さなかった。
自分たちが間違っていた、とまではいかないが正解でもなかっただろう。もっと適切な行動を迅速に取れなかったのかと、少年は反省を口にした。
話を聞いてから彼女による事件はいくつか発生している。加えて被害者や犠牲者もいる。分かっていながら正当化したことを彼は悔いた。
向かいに立つセーゼは、顔色一つ変えずに答える。
「そう。わたしも早く始末しておけば良かった、ごめん」
微塵も気持ちの籠もっていない声が、静かに地面に落ちる。真っ直ぐ三人へ向けられた瞳は、シアンを濁らせているようにも見えた。
前触れなくヒュウが言う。
「じゃあ僕らは僕らで勝手に調査することにしようか。今回みたいに葉っぱで連絡されてもすぐには行けないしね」
「森のこと、心配してくれてるの」
「違いますぅー仕事増やされるのが嫌なだけですぅー」
子供のようにわざとらしく言ってのける師に、弟子は呆れた眼差しを向けたが本人は気づいていないらしい。
対して、セーゼにはあからさまな嫌味が効いていないようで、面は微動だにしていなかった。
溜息を吐くシュリの隣、ふと、リグが頭上の耳をぴくっと小さく動かす。同時にセーゼも右へと顔を向けた。
唐突に軍人の表情が強張る。遅れて師も険しい顔つきになった。
弟子は疑問に思っていたが、その答えはすぐに彼の耳朶を打つ。
次の瞬間、咆哮と地響きが共鳴した。
木々の太い幹をも震わせるほど大きな遠吠え。それと共に鳴り渡る破壊音は、通常森で耳にするものではない。
無数の鳥が空を覆う。同じ方角から飛来しているらしい。
ヒュウが向こうを見たまま呟いた。
「発症者か。出入り口付近だな」
仕事を合図する言葉に、子はきゅっと唇を結ぶ。ここからでは見えないが、響いてくる駆除対象の絶叫を見据えた。
「直ちに向かいます。リグさん、ご助力を」
「勿論だ」
若い二人が駆け出す。しかしその時ふと、セーゼの姿が消えた。
驚いて振り返ると、ヒュウが冷静な声音で「先に向かっているから気にするな」と言って年下組の先を急がせた。弟子は返事をし、同僚に目配せをして走っていった。
轟音が空気を殴る。徐々に近づく殺気と緊張感に胸が逸る。
師の言った通り、神は既に巨躯と対峙していた。
相手は蜘蛛の人外。無数の肢は人の手足を模しているのだろうが、継ぎ接ぎでつなげただけのようで歪である。人面を装った顔には、横開きの顎が威嚇していた。
獣と違って身体の造りがどこか機械的で、思わず少年は不快そうな表情になる。
対するセーゼは、普段よく身につけている大振りの弓矢ではない武器を携えていた。
それは森の景観にそぐわない、鈍色をした太刀。
華奢な体格には不釣り合いな刃である。だが彼もしくは彼女は、造作もなく振り回してみせた。
「レイツァ、加勢しよう。足を機能させなくする方がいい」
リグの声に、彼は頷いて地面を蹴った。
愛銃のグリップをきつく握り、大きく怪物の外を回りつつ射撃する。足の皮膚は、人間と同じそれだが弾を通さないほど硬いらしい。軍人の刃でさえ傷がつかない。
気づいた相手が二人を一瞥した。不意、足払いに似た動きで彼らを蹴り飛ばそうとする。すぐさま後退したが、次は頭上からの攻撃。右へ回避したが、怪物は器用に四本の足でシュリたちの相手をしていた。
(背後を取っているのにどうして。胴は地面から浮いている、リグさんの剣では届かない)
苦戦の予感に彼は舌打ちを漏らした。
ドンッと音が鳴る。
見上げると、か細い縹色が靡いているのが視界に入った。
舞う氷色のワンピースに牙を剥く太刀の色。
その眼光はさながら氷柱のようで。
「おまえたちじゃ遅い。下がって」
血色のない唇がそう言う。
瞬間、蜘蛛の胴が真っ二つに断たれた。予備動作すらなく、影もなく、セーゼはいとも簡単に処刑してみせる。
悲鳴を上げる間すら与えられず、化け物は絶命して地に顔を落とした。脱力する巨体から流れ出る赤が池を作り、リグたちの足元を濡らしていく。
突然の幕切れに、子は呆けた顔を隠せないでいた。
優に三メートルはあった筈だが、白髪の人物はその上をいく高さを跳んだ。翼があったわけでも、長い助走があったわけでもない。たった数歩のステップで跳んだのだ。
(姿が人のようでも、やはり人ではない)
人外の証とも言える、尖った耳を持たない番人は涼しい顔をして死体を見下ろす。
「この子、少し前に森から出て行った若い子だ。帰ってきたんだ」
棒読みのセリフだのに、どうしてか感情があるように思え、シュリはただ白い影を見つめるばかりだった。




