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episode33(ⅳ)

「助けるとも、リグ」


 聴こえたのは涼やかな声。追って、青年は意識が浮上するのを感じた。

 気づくと視界は明るみ、見覚えのある天井が認識できるようになる。近くに人の影が落ちていることも分かった。


 リグは、焦点の合わない目を影の主へと向けた。掠れた喉で名を呼ぶ。ベッドの縁に腰掛けていたヒュウは、それに応えてあげた。


「おはよ、ずいぶん(うな)されてたね」


 紅い目をした彼の長髪は解かれ、背からの翼は露わになっている。平生と変わりない口調には、温かさが滲んでいた。


 おもむろに金髪の彼は上体を起こす。寝ていた方がいいというヒュウの忠告に首を振って、彼は起き上がった。


「おれ、あなたたちを、おそって」

「僕らは大丈夫、この通り何ともない。君の方がなかなか目覚めなかったから心配したよ」


 母性か、はたまた父性か。彼の纏う雰囲気は()が持つものに近しい。心を持たない人外だのに、それはまるで人間のような。


 軍人の頭を優しく撫でてあげると、ヒュウは言った。


「僕は助けを求める人には寄り添う主義でね、君が望むなら傍にいるよ」


 青白い肌が月明かりに照らされ、浮かべられる微笑みは柔らかなものだった。人でなくともこんな顔ができるのかと、脳の隅で独り言ちながらリグは返す。

 話を聞いてくれるかと。

 蝙蝠の青年は頷いた。


 それからリグは、生まれて初めて誰かに胸の内を明かした。

 時々つっかえながら、水を口に含みつつ、考えがまとまらないままに言葉を吐き続ける。けれども泥は減らなかった。


 無理に起きたからか、同僚に撃たれた左肩が疼痛を訴えている。加えて全身の筋肉も微かに攣ったように痛い。

 それでも青年は止まらなかった。


「優しいが痛いんだ、ずっと。あなた達がおれを受け入れてくれたその時から」


 狼は続ける。


「痛いだなんて言ってられないのに。強くなりたいのに」


 それを最後に、舌の上にある汚泥の味に耐えられなかったらしく彼は口を噤んだ。決して減ったわけでも、軽くなったわけでもなかった。


 軍人の彼の虚ろな目に、滅多に見せない苦悶の表情。


 ヒュウの薄い唇が開く。真面目だねと笑って言ってみせたが、即座にすっと笑みを消す。そして告げたのは、君の言う強さはただの美学でしかない、という台詞。

 リグは頭上の三角耳を伏せさせたが、構わずヒュウは続けた。


「君は自分が弱いと分かってたのに、それを認められなかった。わかるよ、その気持ち。強くありたいのは当然だ」


 彼が正面を向くと、色白な頬の輪郭と鼻筋が際立って見える。横顔には強かさが貼り付けられている一方、内側にある何かが透けて見える気がした。


「じゃあ、強くない人と弱い人はイコールだと言い切れるかい。僕はそう思わないな」


 リグは父親譲りの翠の目を見開く。


 青年の言葉は(から)になっていた胸に音を立てて落ちた。それは反響し、谺し、崩れることなく形を保ったまま残る。


 狼の耳は力なく後方へ倒れた。

 見計らってヒュウは「強くないけど弱くはないくらいが丁度いい」と言う。その台詞にリグが反論を投げた。


「弱いと迷うから、痛いから嫌なんです。それに、弱い人なんて誰も必要としない。誰も、おれなんか」


 力の限り握り締められた両手には、狼化した時の名残なのか鋭利なままの爪が食い込む。震える手は、まるで怒っているようで、それでいて怯えているようだった。


 彼の言葉に、何故かヒュウは一度きょとんとして見せる。そして途端に糸が解けるかのように笑った。


「ははっ、僕は一言も君が弱いなんて言ってないけど?」


 え。

 そう言いたげな目を向けられても、青年は変わらない様子で続けた。


「だって自分の弱さを知ってる人は弱くなんてないんだから」


 慈愛に満ちた視線は、不思議と吐き出せなかった泥までも浄化するようだった。過去の自分が重ねた過ちを、罪の清算を許してくれる。


 自分の弱さを知る人は弱くない。

 紛れもなく、救いの言葉だった。


 狼の青年は瞬間、(たが)が外れるのを感じた。目頭が熱を帯び、喉が絞まる。振り絞られる呻きに仔犬のような情けなさはなく、彼は咽び泣いた。

 久しぶりに頬を伝った雫は、火傷の感触を覚えるほど熱く、痛く、優しかった。


 欲しかった言葉だった。


 よく言われていたのは"強くなくていい"、"弱くていい"という同情の文字。この青年もまた同じことを言うのだと思っていたのだ。

 だのに、彼がくれたのは「君は弱くない」という肯定。


 リグはずっと、誰かに肯定してほしかったのだ。


 やがて彼の中を濁らせていた泥は流水に晒され、ゆっくり、ゆっくりと溶けだしていく。もう痛くなかった。


 *


「リグさん、お目覚めになったのですね!」

「心配と迷惑を掛けたな、すまない」

「とんでもないです。私こそ撃ってしまって申し訳ありません」


 寝室に弟子がやってきて、心做しか場が和んだように感じる。同僚の回復にシュリは心底嬉しそうに笑った。対してリグも、穏やかな表情で微笑み返していた。


 三人の無事が確認できたところで、ヒュウが足を組みながら切り出す。

 フレイアの裏切りについてだった。


 氷輪の救急箱にとって彼女は仲間であり、心強い協力者だった筈だ。しかし蓋を開けてみれば、近頃の事件の犯人は彼女だという。

 一体何が目的なのだろうか。人間への復讐と言えど、今のところ害を被っているのは同類や処刑人。一見、仲間割れを引き起こしかねない行動である。


 師弟の沈黙を破ったのは監視役のリグだった。


「これは憶測ですが、おれが人外になったのはそのフレイアという人外のせいだと思います」


 狼は神妙な顔つき言う。あの夜、初めて会ったというのに見覚えがあった。話し方や声にもデジャヴを感じたと。


 三人の間に緊張が走る。複雑な感情が入り混じり、再び黙り込んでしまった。

 過る蝶の羽ばたきに、不穏さを感じざるを得なかった。

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