episode33(ⅲ)
見上げた先、一頭の獣が目前まで飛びかかってきた。
一瞬、すべての音が聴こえなくなる。
(あ、だめだ)
無音の脳内に、子の諦めの言葉が響く。漠然と死の気配が肌に触れてくる。
しかし予想とは裏腹に、狼の牙が少年の皮膚を穿つことはなかった。
代わりに裂いたのは。
「シュリッ!!」
四肢に思わぬ方向から力がかかったことに、少年は理解するまで間を要した。反応する頃、自分の上体はヒュウに押し倒されていた。
右側頭部を強打する。幸か不幸か、足手纏いとなった筈の泥濘んだ地面により痛くはなかった。
思わず瞑った目を開けると、間近には見慣れた師の長髪。
そこから滴るのは赫。
ヒュウの左目辺りが真っ赤に濡れていた。
一目見た弟子は、さっと血の気が下がるのを感じて起き上がる。
青年の閉じられた両目は微かに震えていた。息はあるも意識は飛びかけているらしい、呻きが青年の唇から漏れた。
付けられた裂傷は浅い部類。だのにシュリは過る不安を見過ごせなかった。
切羽詰まった声音で、先生と何度も呼ぶ。
その最中、狼がまた飛びかかってきた。
だがシュリは、据わった眼差しを向けて躊躇いなく銃口を掲げる。銃声にも迷いはなく、殺意もなかった。
ただ、邪魔をするなと言いたげで。
狼の左肩が跳ね、彼は弾かれたように押し飛ばされる。
元同僚を撃ったというのに、構わず少年は師への呼びかけを再開した。少ししてヒュウが薄く目を開け、起き上がりつつ応答する。
「先生、気を確かにっ」
「あんたがな。これくらいは別条ないぞ、まだまだだね」
「何を仰ってっ」
青年は苦笑しつつ、額――厳密に言えば眼球のほぼ真上――から流れ出る血が左目に入らないようにと瞑っていた。潰れたわけではないらしい。
笑みを消して、長髪の彼は改めてリグへと視線を遣る。傷口を片手で押さえるも止血まで時間は掛かりそうだ。
肩を負傷した狼は、今一度四つん這いになって対峙する。剥き出しとなった牙が殺意を物語っていた。
だが。
獣の濁った視界に、片目を覆う青年が映る。その瞬間、彼の心にある、今もなお膿んでいる傷が痛みだした。
フラッシュバックするのは、自分のせいで深手を負わせてしまった父親の様相。
ヒュウとグレウの姿が重なった。
そこで唐突に狼は後退し始める。
呼吸が下手になってしまったかのような荒々しい息遣いとなり、やがて力なく座り込んでしまった。情けなく鳴く声は仔犬に近しい。
そして徐々に身体が小さくなり、纏っていた毛皮は薄れ、瞬く間に元のリグへと戻る。深紅の虹彩は意思を失くし、程なくして閉ざされた。
静寂が訪れた林の中、思い出したかのように冷たい風が吹き付ける。
怪訝そうな表情をして、シュリは立ち上がるのと同時に駆け出した。ヒュウもふらつきながら後を追う。
そこに寝転がっていたのは、三角耳が生えたままの金髪の軍人だった。眉間に皺を寄せ、苦しげに息をしている。
「発作が治まった……?」
「そのようですが、どうして」
師弟は顔を見合わせるばかりで、目下の謎から感じる気味悪さを否めなかった。
更けた夜は、二人の間を静かに通り過ぎていく。
・・・
深淵に近しい眠りの中で、リグは目の前に現れては消える、かつての記憶から耳を塞いでいた。
薄い唇からは、悲痛な謝罪の言葉が繰り返されている。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
おれはエンカーの子どもなのに無能だった。
無能が裕福な暮らしなんて送ってはいけないんだ。
ちゃんと指揮が執れなかったばかりに、皆を無駄死にさせてしまった。
父上の左目を、処刑人でなくとも必要な片目を、潰してしまった。
挙句の果てには逃げ出す始末。
なんて腑抜けた人間だろう。否、もう人ではなかった。化け物に堕ちて、同僚に牙を向けるだなんて。
「もう、どうしたらいいのか、わからない」
後悔の音が指の隙間から入ってくる。鼓膜が痛い。
心が悲鳴をあげていても、何故か涙は出なかった。
昔からそうだ。泣くと余計に弱くなると思って我慢し続けていた。その所為で、泣いてよい場所でも涙が出なくなって、部下や上司が死んでも潤むことすらなくなってしまった。
泣き方がわからない。
この感情の吐き出し口がない。
溜め込んで、飲み込んで、押し込んだ泥は、時間が経っても腹の奥に沈んだまま。重く深く、消化されずに残る汚泥を見て見ぬふりしてきた。
しかし、あの師弟と出会ってからというもの、ヘドロは意思を持ったかのように食道を逆流するのだ。
吐きたい、でも、知られたら引かれてしまう。でも、受け入れてくれると期待してしまう。でも、でも、でも。
否定してくる自分を殴れなかった。それに対して、そうかと納得してしまう自分がいた。
諦めたい、諦めたくない、諦めさせてほしい。
違う、おれが言いたいのは。
言いたかったのは。
「たすけて……っ」
「助けるとも、リグ」
聴こえたのは涼やかな声。追って、青年は意識が浮上するのを感じた。




