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episode33(ⅱ)

 彼女は目的を言わなかった。

 何故、何の為に、どうして。

 問いが声になる前に、ヒュウの口を衝いたのは失望だった。


「信じた僕が馬鹿だっただけか」


 長髪が風に煽られ、青年は唐突に現れた黒の獅子から後退する。

 発症者ではない。が、普通の動物でも人外でもない。言葉にするならば怪物が一番適切だろう。それほど大きく獰猛な影が躍り出た。


 咆哮をあげる怪物は、背に蝶が乗ったとしても気に留めず、眼前の蝙蝠へと殺気を漂わせている。

 フレイアは口元に手を添えて微笑んだ。


「あら、人外(私たち)に『信じる』なんてもの存在しないのよ? まさかアナタ、そこまで人間に近くなってしまったのかしら」


 獅子の爪が木々を薙ぐ。為す術なくヒュウは翼を広げて距離を置いた。


「あの坊やのせい? それともアンクって友達? あぁもしかして、」


 攻撃が止む。束の間の静寂に過るのは一瞬の悪意。

 黒い獣の唸りに織られた、彼女の声はあまりにも温度がなかった。


「アナタの父親かしら」


 ヒュウの脳裏には、心を知らない時代の自分の記憶が駆け巡った。

 狭く古臭い小屋、薄暗い室内は散らかって汚い。幼い鼻孔にいつも付き纏っていた、油に似た匂いすら思い起こされる。

 それはまるで走馬灯のようで、咄嗟に彼は振り切った。


 間髪入れずに爪の鉄槌が翳される。大きく広げた皮膜は空気を押し出して、体を思い切り後方へと連れて行った。

 破壊音とともに飛び散る、雪解け混じりの泥。即座に次の手が伸ばされる。捕まれば、あの牙で咬み千切られることくらい容易に想像できた。


 横へ平行移動しては切りがない。彼は舌打ちを漏らして上空へと飛び上がった。

 しかし、翼を目掛けて銀が宵の空を裂く。フレイアが小型のナイフを投げつけてきたのだ。


「たっぷり猛毒が塗られてあるわ、掠めても麻痺するくらいよ」

「っサイテーな戦い方するね」

「最低なのはあいこじゃないかしら、発作の試験薬だってアナタが持っているんでしょう?」


 大道芸人よろしくナイフ投げをする彼女は、ライオンの動きに合わせて狙ってくる。精度は低いが何分(なにぶん)数が多い。


「コウモリのくせに飛ぶのが下手ねっ、当たってしまうわよ!」

(あんた)よりかは上手いけどねっ」


 (くう)を切る刃と爪、牙から逃れるので精一杯だ。

 離れようにも、まだ彼女には訊いていないことがある。ここで見失えば、蝶には二度と会えない気がしていた。


 自分では相手にならない。

 初めから分かっていたことだったが、己の無力さに改めて奥歯を噛み締めた。しかし、何としてでも彼女の口から狙いを吐かせなくてはいけない。


 その時、破裂するような乾いた音が耳朶を打った。


 直後、獅子の足から液体が飛散するのが視界に入る。暗くて見えないが血であると、すぐに見当がついた。


「先生ッご無事ですかッ!」


 愛弟子の声が目下から聞こえる。彼の隣にはリグもいた。

 同僚の加勢により状況は一転。ライオンの集中は分散してしまって制御が効かず、フレイアは隠す気のないような舌打ちをした。


 が、打ち消して口角は持ち上がる。彼女は嘲笑を浮かべて言った。


「私を殺したって、復讐を願っている者は大勢いるわ。アナタたちでは到底太刀打ちできないほど」


 瞬く間に戦闘音が止む。


 シュリ以外の、人に非ざる者たちの双眸が煌々と光っていた。赤の発光は互いを睨み合い、抑えきれない殺意を醸し出している。


 ふと蝶の意識が軍人へと向かった。

 絡む視線。

 狼の彼はハッとして半歩下がった。


「それに私たちだけじゃないわ。軍や守護団体とも敵対することになる筈よ」


 リグは短く呻き、片手で胸を押さえる。そこに走ったのは痛みではない、渇きだった。

 戦友の異変にシュリはすぐさま駆け寄る。だがヒュウから制止の声が飛ばされた。


 突然崩れる彼らの態勢に、彼女は気にも留めず続ける。


「例えば人が人を私たちと同じように食べたら――それって全面戦争になるとは思わないかしら」


 瞬間、リグの姿が豹変した。


 黄金の毛色は黒が混じり、肌を埋め尽くす。両手は嵌めていた白手袋を破く勢いで大きくなり、指の境目が消えていった。人でない鋭利な爪、骨格さえも原型を留めず、上半身は狼のそれだった。首から上にリグの顔はない。


 現れたのは、軍服を着た一頭の狼だった。


 あまりにも衝撃的な出来事に、シュリは言葉を失ってしまう。名を呼ぶ声すら出ない。


 彼は低い唸りを響かせ、口から唾液が垂れ流した。深緑の瞳は面影すらなく、ただ真っ赤に血走った眼球が剥いている。


「この反応、食欲発作……!?」


 覚えずシュリが零す。距離を置いていたヒュウも瞠目せざるを得なかった。


 他方、蝶の彼女は途端に微笑を消し、腰掛けていた黒いライオンに合図する。獣はそれに従って踵を返し、氷輪の救急箱たちから去っていった。


 彼女を追う余裕はない。

 急変した同僚のことで頭が回らなかった。


 狼は躊躇うことなく爪を突き立て、混乱するシュリに襲いかかる。身体を捻って躱すも、逡巡する間もなく鋭い攻撃が振るわれた。

 片腕が掠める。裂かれたシャツが赤く染まるも、少年は痛みなど感じていないらしい。彼の戸惑いが軍人の名を呼び続けた。

 しかし聞こえていない。

 返事はおろか、こちらへの殺意は増すばかりだ。

 加えて、シュリの体は相手を完全なる「発症者」だと認識してしまっていた。条件反射による自分の敵意を信じられずにいる。


 殺したくない。

 戦いたくない。


 そればかりが脳を巡って、何処にも行き着かない。


 やがて迷いは自らの首を絞めることとなった。


 後退するだけでトリガーを引けずにいる子は、徐々に林の奥へと追い詰められていった。これ以上は民間人のいる地域に入ってしまう。覚悟を決めねばならない、瞬間。


 ぐいっと利き足が引っ張られた。否、雪解け水を含んだ泥に、足を取られてしまったのだ。


 体幹が揺らぐ。冷や汗が伝う。

 見上げた先、一頭の獣が目前まで飛びかかってきた。

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