episode33(ⅰ)
「気づくのが遅いじゃない。このまま何事もなく終わってしまうかと思ったわ」
ふんわりとした短めの金髪が跳ねる。優しげに細められた至極色の双眼は、温度をまったく感じなかった。
額から伸びるのは、黒光りする二本の触角。背から広げられる翅は薄く、それでいて美しいものだった。
蝶の人外であるフレイアは、夕日の残光を受けながら妖しげに笑ってみせる。ヒュウは三白眼の睨みを利かせていた。
「そんなカオしないで頂戴。せっかく私に辿り着いてくれたんだから」
「屋敷に来たはずの役人と軍人はどこにやったんだい」
彼女の台詞に覆い被せて問う。
殺意すら見えるような口調と表情に、女は少しばかり唇を歪めて「さぁね」と言った。加えて今回の件は自分だけではないとも。
「いつから裏切ってた」
ヒュウの低い問いに、彼女は妖艶な唇の端を持ち上げる。そして答えた、最初からだと。
「じゃあまずは答え合わせをしましょ? 一番最初に行動したのはそうね、年越え前の坊やが麻酔を刺された話かしら」
彼女は歌詞を暗唱してみせるかのように、過去の出来事について挙げていった。
理性を保ったままの発症者の出現。
若い処刑人の連続暗殺事件。
人外を景品とした賭博。
そして、オラベル邸で生き残った人外。
これらの全ては自分が仕組ませたことだと、フレイアは言った。
加えてヒュウたちを巻き込む必要性があったとも。
曰く、彼に近づいたのは計画のためだと言う。人外だけでなく人間に詳しい存在が自分以外にもいたことに、強く感動を覚えたらしい。
「人間への復讐かい。くだらないね」
不機嫌な彼の口が吐き捨てるように言った。しかし、フレイアは小首をあざとく傾げてみせる。
「くだらない? そうかしら、アナタのしてることだって十分に復讐でしょう」
彼女は続けて言う。
今まで生きてきた三百もの月日の間、助けすら呼べずに虐げられてきた。家畜にすらなれず、化けの皮を被り続け、剥がされたなら死の鎌を振り翳されるか、無理に肉体関係を強要されるかの二択。
そんな人生を、これから先も歩んでいかなくてはいけないだなんて死んだ方がマシだ。
しかし思う。なぜ人外たちだけなのかと。
道理に反しているのは人間側である。
話せる人外だっているのに、命を狩り続けられるのは何故だろう?
明確な種族名すら与えられず、漠然とただ“人外”と呼ばれ続けるのは何故だろう?
「賢いアナタならわかるでしょう、ヒュウエンス?」
・・・
戦闘音が止む。
鳴り渡っていた銃声は余韻だけを残し、弾切れになったせいで重さがなかった。
血腥い荒涼とした戦場に落ちているのは、崩壊が始まった肉塊と二つの人影。一方は肩で息をし、もう一方は離れた場所で立ち竦んでいた。
シュリは痛いほど脈打つ心臓を押さえつけて、遺骸になろうとする怪物へ歩み寄る。
交戦時の記憶がない、意識を飛ばした訳でないとは言い切れるのだが。
地に伏していたアムゼンクルスは、起き上がる余力も残っていないようだった。息を吐く度に、体から赤が流れ出る。
丁度、顔の前までやって来た。シュリは幾分か落ち着いた様子で訊く。
「何故、先生との約束を守らなかったのです」
約束。
それは、住処を後にしてシンセ森で生きるというもの。この屋敷には二度と戻らず、両親の帰りはないということを認める。
確かに交わした。同意もした。
しかし彼らがいるのはオラベル邸の敷地内。家主の人外は暴れる始末だ。
アムゼンクルスは掠れた声で言う。答えにはなっていなかった。
「まマ、パぱ。わたシ、ガんバってがマんしテたよ。さミシくてモ、なカなかッタ。なノにネ、ニんげンがおウちヲコワすって」
震えて、か弱くて、小さい返答。
子の心が悲鳴を上げそうになった。だが口を噤んで、今際の際の言葉を耳にしている。
人に類似した部位が、ついには蛇となってしまう。息も絶え絶えとなった時、彼は囁くように言い遺した。
「ワタシタチノ、オウチ、ナノニ」
静まり返る戦の庭。
一面赤一色に佇む少年のもとへ、ローブを身に纏ったリグがそっと近づく。名を呼ぶと、シュリはこちらを見てくれた。
その瑠璃の瞳は涙で溶けそうで。
止めどなく伝う雫は、傷ついた頬の血を滲ませた。呼吸は酷く荒く、見ているだけで苦しくなる。
心はとうに限界を迎えていた。何も悪くない彼を殺してしまったという事実が、罪悪感と自身への嘲りを増幅させる。痛くて仕方なかった。
リグは頭上の耳を伏せさせ、小さな処刑人の彼を優しく抱きしめてあげた。
不意。
大地が叩き割られる音とともに衝撃が四肢を揺らがす。耳一つでは拾え切れないほどの音が轟き、反射的に二人は体勢を低くした。
離れた林の一部が倒れる。そこからあがる砂埃と、眠りかけていたであろう鳥たちが空へ舞い上がった。
何事かと即座に冷静になったシュリは、状況把握をし始めたが此処からではよく見えない。だが、隣にいるローブを被った軍人は見えたらしい。
狼の彼の喉から、生理的に低い唸りが鳴る。細められた瞳孔が刺す先にいるのは。
「あれは、獅子……?」
発症者と見間違うほどの巨体。
皮膚は黒く、太い首を覆うのは黒煙を彷彿とさせる鬣。
凶暴さの猛る幾つもの眼球は赫に発光している。
少年も青年も、本でしか見たことのない生き物だった。
「向かうぞ、レイツァ」
押し込められた声色に突かれてシュリは強く頷く。二人はフテの林へと駆けていった。




