episode32(ⅱ)
人外は心を持たない。
だから中途半端に人間に近い存在になってしまうと、辛くて痛くてどうしようもない時間を、半永久的に生きなくてはいけなくなる。
一年前、先生が教えてくださったこと。もしかしたら今日、その意味がわかってしまうかもしれない。
シュリはそう思って、眼前の魑魅に対して足が竦む気がした。
「そんな、どうして」
か弱いアムゼンクルスの四肢は、あっという間に原型を留めなくなった。
肥大化した肉、醜さすら感じる骨格、下半身の蛇は竜をも想起させる大きさに変貌する。皮膚はぶくぶくと沸騰するが如く波打ち、筋肉の隆起に耐えられなかった箇所からは血が伝っていた。
見間違うことなどない、食欲発作による異常変体だ。
対人外用麻酔が効かなかった。否、むしろ薬に触発されて引き起こされたようにも見えた。
シュリは動揺して判断が遅れる。
蛇の化け物から攻撃の手が伸びていた。
「レイツァ! 何している!」
小さな身体が強張った瞬間、咄嗟にリグが抱えて躱してくれた。はっとして少年は我に返る。
「す、すみませ」
「謝罪は後だ、駆除に集中しよう」
低い体勢を保ったまま軍人は腰の剣に手を掛けた。すらりと伸びた刀身は、鋒にまで手入れが及んでいる。
彼の鋭利な眼光に、平生の穏やかさは微塵もなかった。
シュリも愛銃を構え、臨戦態勢へと移る。腹の底でのた打ち回る狼狽は見えないふりをした。鋳鉄を握る両の手に力が籠もる。
戦いの火蓋を切って落としたのは相手だった。
奇声を上げながら巨体を突っ込ませてくる。知能のない戦い方だが、俊敏さは引けを取らない。
「助ゲてェ゙ッ、ダすけデぇッ!!」
叫びは不思議とそう言っているように聞こえた。雑音とも捉えられるほど濁った声で、訴えに近い悲痛さを滲ませている。
シュリは下される攻撃を避けつつ、先陣を切って相手の懐へと入り込んだ。
躊躇いのない発砲音が三発鳴ると、嗚咽混じりの悲鳴が上がる。しかし死には至らない、蛇が真横から尾を振り出した。
砂埃が舞う。
少年は表情を歪ませて引き下がるも、追撃の鋭い爪が身を裂こうとする。既のところで回避したが、前髪が数本だけ掠められた。
止まぬ指爪の雨に、彼は体を反転させ銃口を突きつける。怪物の眉間を狙うも照準はずれてしまった。
子が表に構っている間、リグは周辺に人がいなくなったことを確認してローブを脱ぎ捨てる。晒される狼の耳や尾は、頭髪と同じ黄金に黒が混ざっていた。
(おれは軍人、処刑人じゃない。今はレイツァの援護と護衛に尽力しろ)
胸の内で暗示し、彼は地を強く蹴り出した。
そもそもリグが氷輪の救急箱に在中するようになったのは、戦闘時に何者かが処刑人の暗殺を目論んでいる可能性があるからだ。ただでさえ年端のいかない若年者だのに、その未来すら奪われるのは黙っていられない。
常にシュリが見える範囲で加勢すると、発症者の意識が青年にも向く。注意が分散すればこちらのものだ。
隙を突いて少年は背後に回り込み、蛇の半身を踏みつけ駆け上がる。至近距離で確実に、生を穿つ点を撃つつもりだ。
急所が少ないため怯ませるのも難しい。ならば一気に決着をつける方が吉だろう。
蒼の眼差しは獣の持つ双眸に似た色をしている。
暴徒と化した哀しき怪物に、彼はトリガーを引いた。かと思われた。
相手から向けられたのは、幼く潤んだ視線。
「マま、ぱパ?」
それを、彼は躊躇ってしまった。
「レイツァッ!!」
リグの呼び声と同時、シュリは思い切り振り落とされてしまった。
受け身を取ったが全身が痺れたかのように上手く動かない。地面の振動がわかるのに、命の危険信号が鳴り渡っているのに、応えられない。
様子のおかしいシュリを察して、軍人は相手の気を引きつけた。赫で塗れた刃に、アムゼンクルスの涙が映る。
「かエ゙っでぎテ、マま゙、パパあ゙」
言語だった。
叫び過ぎたあまりに潰れた喉から絞り出される呻きは、言葉として彼らの耳に入った。
どう見ても理性はない。だが赤子の発する意味のない音より、意味や感情が包まれていた。
彼の台詞に、リグの中で何かが押される。
発症者は再び泣き叫んで暴れ始めた。叩きつけられる尖った手指は、地面に大きく裂傷を残す。
単調な攻撃だが威力は凄まじい。軽く食らったとしても、腕の一本くらいなら簡単に吹き飛ぶだろう。
剣で受け流し前進するも、尾を振り出されて退避せざるを得ない。これではどちらかの体力が先になくなるかで決まる消耗戦だ。
ふと、平常心を取り戻したらしいシュリが今一度、対峙しているのが見えた。
彼の黒髪が風で揺れる。首元のループタイに触れ、少年は小さく呟いた。
「殺していいんだ、シュリムレイド」
・・・
他方、戦場を傍観する者が一人。
木々に隠れている誰かが立ち去ろうと踵を返した。その時。
「軍人がいるから暗殺しないつもりかい。あぁ、できないからしないのか」
暗く、涼やかな声が落ちる。
僅かな沈黙を、離れた場所から響く戦闘音が埋める。吹いていた風が止む。緊張の糸がぴんと張り詰めた。
雪が残る影の中、日の沈んだ宵に一匹の蝙蝠が躍り出る。牙の覗く口に笑みなどない。
「今ココで全部を説明してもらうよ、フレイア」
「あら。レディの口を無理に割らせるなんて紳士じゃないわね、ヒュウエンス」
妖しげに微笑むフレイアは、蝶の姿を晒してみせた。




