episode32(ⅰ)
通報が入ったのは夕暮れ時だった。
十九番街にいる仲間からの一本の電話は、力加減を知らずにヒュウの頭を殴り込む。
「は、蛇の発症者?」
『いや、あれは発症者じゃねぇ! とにかく早く来い!』
悲鳴に近い助けを乞う声が受話器から響く。付近にいたリグが険しい目つきになり、電話を切った彼へ仕事かと問う。長髪の青年は頷いて出動の準備を済ませた。
上階にいた弟子も合流し、現場へ向かうとするもかなり遠い。機関車に乗って二時間は掛かる、徒歩では難しい場所だ。
ヒュウは低く唸りつつ年下組へ言う。
「近くの通報者から馬を借りる。僕は連絡を入れとくから二人は先に向かってくれ」
・・・
氷輪の救急箱の仲間である通報者は、街の至る所に存在する。彼等は単に報せるだけでなく、あらゆる助力を尽くしてくれるのだ。
年下組が駆け込んだのは近所にある古い家屋だった。辿り着くや否や、待っていたであろう通報者の女が大声で言う。
「シュリム! 裏手に用意してあるから回ってちょうだい!」
よく通る野太い声に少年は返事を張り上げる。そのまま走り続け、建物の影に行くと二頭の馬が待機していた。馬具も調えられおり、今すぐにでも走れる状態だ。
鐙に足を掛けると勢いよく乗り上げる。小柄なシュリにとっては高さがある筈だが造作もなく走らせた。
ローブで身を隠したリグも倣って跨る。普段の業務でも乗馬することが多い彼もまた、遅れを取ることなく駆け出した。
人通りの多い町中を通るのは他の事故を招きかねない。
シュリは脳内で辺り一帯の地図を叩き出し、人気がない且つ最短距離を割り出した。これなら予定よりも早く着くだろう。
(蛇の人外……まさか彼なわけ、)
フテの林を抜け、傾斜のある道を行く。
甲高い風の音と蹄の蹴り出す音が繰り返される。
刺すような冷気が露出した皮膚を掠め、手綱の握る両手が痛んだ。
過ぎ去っていく景色よりも心拍が速い。焦燥が急き立てる所為で心ばかりが逸る。
不意、遠方から叫び声が鳴り渡った。騒ぎが近い。
二人は更に加速すると、現場は目と鼻の先に迫った。
混乱と暴力の匂いが肌で分かる。発症者が欲のままに地を揺らしているのと同等、周辺住民の逃げ惑う様子が視界に入った。
中心にいるのは見覚えのある細身の男。
下半身に皮膚はなく、ボロボロになった細かな鱗が連なっている。見間違うことはない、オラベル邸で生き残っていたアムゼンクルスだ。
か弱さの体現とも言える体付きだのに、振るわれる暴力は殺気立って仕方ない。
彼は明確な言語を話せなくなるほど酷く怒り狂っているようで、紺の軍人らを攻撃していた。理由は不明、今は彼を止めなくてはいけない。
シュリは馬上から名を叫んだ。しかし聞こえていないらしい。
「リグさん、一旦私が軍の方々を下がらせます。その間、発症者が誰も傷つけないようにしてくださいっ」
「了解した、足止めだな」
並走する二頭の馬が、蛇の人外と軍人らの間に躍り出る。
一方は化け物に対峙するように、もう一方は武器を構える大人たちを牽制するように立ち塞がった。
唐突に現れた者たちへ、一人の軍人が何者かと問う。危ない邪魔だと野次を飛ばす男もいたが、構わずシュリは馬を前進させ、彼等を無理に退かせた。
「救助隊の者です、通報より駆け付けました。後ほどご説明しますので今はお下がりくださいっ」
「子供が何を言う! 退け!」
「あなた方は人外対抗措置ではないでしょうっ 自身のやるべき事を為しなさいッ」
少年の歳に見合わない言葉と語気に、大人たちは面食らって軍器を下ろした。互いに顔を合わせた後、住民たちの救助へと向かう。その背を一瞥するとシュリは身を返した。
他方、リグは飛び掛かってくる怪物をひらりと躱していた。
手綱を上手く操作し、絶妙な距離を保ったまま後退し続ける。周囲を確認しながら人のいない開けた場所へ誘導した。
(これは、駆除対象なのか?)
巨大化せず、ひたすら絶叫する彼は無力に思えた。鋭い爪を振り回し、牙を剥き出しにしているが、いずれも馬の産毛にすら掠らない。
処刑人の血を持つ彼からすれば、赤子の手をひねる程度のもの。しかし心中に引っ掛かるのは、疑問。
ふと後方から自分の名を呼ばれた。
傍にシュリが駆け寄ってくる。彼は馬から降り、アムゼンクルスの背後に素早く回った。
「少し眠らせます、ごめんなさいっ」
右手に握られた注射針。深く踏み込んで、先端は化け物の項に突き刺す。
彼は苦しげな声を上げ、振り解こうとするも無理に注入される薬の方が速かった。
即座に離れたシュリは大きく距離を取り、麻酔が回るのを待つ。リグも地面に足をつけ、様子を窺った。
「なるほど。殺す以外にも手段があるのか」
「発症者には使えませんがこれが最善策です」
蛇の彼は、刺された箇所を両手で押さえ呻きを漏らす。通常そのような反応は起こらない筈なのだが、彼は眠るどころか苦しげだった。
もう間もなく意識を飛ばす頃合い。だが一向にその兆しは見えない。
おかしい。
そう感じた瞬間、アムゼンクルスが顔を上げた。おもむろにこちらへ目を向け、嗄れた声で言う。
「た、スけ、て」
線の細い彼の体は、瞬く間に膨れ上がった。




