episode31(ⅱ)
人間が化け物になった以上、人間の群れで生活するのは危険極まりない。公的機関に勤めるリグなど以ての外だ。
つまり暫くの間、彼は氷輪の救急箱にて過ごすこととなった。
本部に監視対象の動静が怪しいと偽りの報告を入れ、長期間の不在許可は無事に下りた。これで気兼ねなく軍の駐在所を留守にできる、はずなのだが。
彼が人でなくなってから三日の今日。
シュリが茶の準備をしている隣。
軍人の彼が膝を抱えつつ微かに尾を揺らしながら、暖炉に掛けていたケトルを眺めていた。その様子はどこか幼く、人外の特徴も相まって仔犬のようだ。
何だかむず痒く感じた少年は、茶葉缶を開けながら問う。
「部下の方々には不審がられるでしょうか。いくら部隊員とはいえ少佐の位である事には変わりありませんし」
リグが所属するのは、対人外機動部隊という軍の中でも下っ端とも呼ばれる部署だ。よく左遷先に挙げられる、構成員も少ない小規模なものである。
しかしそうは言っても彼の階級は高いもの。二十歳という若さで得られる代物でもない。
金髪の青年はケトルの水が沸騰したため、手早くポットとカップへ湯を注いだ。
「この階級は半分世辞と言うか、用意されていたみたいなものだ。不仲な家系を継ぐ人だから波風立てずに都合の良いようにしているだけ」
(そうだ、軍と処刑人は対立しているんだった)
茶葉を計り終えたシュリは、ケトルにもう一度汲みたての水を入れ、火にかける。器は既に温まっているから間もなく沸騰するだろう。
暖炉の火力を覗きつつ、リグは続けて言った。
「その所為もあって本部や駐在所は居心地が悪いんだ。ここにいる方がいい」
「……そう仰っていただいて嬉しいです」
少年はティーポットのお湯を捨て、きちんと計り取った葉を入れる。熱気に押される香りが鼻腔をくすぐった。
少ししてからケトルの蓋がカタカタと震え始める。青年がミトンを手に嵌め、十分に沸いた熱湯を勢いよくポットへ注いだ。途端、穏やかな甘い香りが充満する。
シュリは棚から茶帽子を取り出し、蓋をされたポットをそれで包みこんだ。
「この三日で紅茶を淹れる腕が上達していらっしゃいます、流石ですね」
「レイツァの教え方が上手いからだ」
変わらず表情は固く、謙虚だのに尾は素直なようだ。左右に小さく振っている。
シュリは指摘するか迷ったが、あえて見て見ぬふりをして微笑んでみせた。
昨日師が調べたところ、リグは狼の人外に変体したらしい。
柔らかい毛を纏った頭上の三角耳に、同じく手触りの良い太い尻尾、鋭い犬歯は人の物ではなかった。感情と連動して反応することから、しっかり神経も通っている。
本人曰く人でなくなった日からと言うもの、食欲があまり湧かない上、美味しいとも感じなくなってしまったそうだ。
「リグさん、肉は以前と同様に食べられると仰っていましたね。飲み物も大半は大丈夫だと」
少年はソファへ腰掛け、革表紙のメモ帳を捲る。そこには細かく軍人の変化が記されていた。
「あぁ。ただ、濃いものがどうしても食べられないんだ。むしろ味付けをしないでほしいまである」
向かいの席に座り、青年は口元に触れる。整った面を僅かに歪めて残念そうに俯いた。
好物だった筈のものが途端に食べられなくなるのは不快であろう。シュリは気の毒に思って、そう師に伝えておくと言った。
直後、玄関のドアが開く。
冬の終わりも近い頃なのに今日は久しく吹雪だ。一瞬で扉を閉めて、出掛けていたヒュウは外套に付いた雪を払い落とした。
「おかえりなさい先生。寒かったでしょう、今紅茶を淹れていますので少々お待ち下さい」
「ありがとな。リグも体調は問題ないかい」
「はい、今のところは」
青年の返事にヒュウはにこりと一笑し、コートの内から大きな瓶を取り出す。きつく蓋されたそれの中は、赤黒い色で満たされていた。
口に巻かれた値札には、人肉の文字が並んでいる。
闇市で取引される安い品。師も定期的に購入して空腹を凌いでいる代物だ。
多くは身寄りのない死体から剥がれた肉、もしくは内臓類である。あまりにも貧しい環境で生きる人間には食料となることも少なくない。
また、世間を渡り歩く人外にとっても安全で確かな糧だ。味の保証はないが。
目前に出された気味の悪い物体へ、リグは思わず耳を反らした。ついこの間まで同じ種族だったのに食すだなんて、と気が進まなさそうである。
その様子を見たヒュウは小声で、正しい反応だと呟いた。疲れたように笑って。
「ナマはまだハードル高いだろうから、最初は焼くだけにするね」
「私も手伝います。先生も召し上がるでしょう」
弟子の言葉を聞いた刹那、師は返答を詰まらせる。だが瞬く間に普段通りの笑顔を貼り付けた。
「そうだね、また発作が起こったら困るし」
痛みを伴うブラックジョークは、音もなく弟子の胸を引っ掻いた。
夕食時。
円形の食卓に並べられた質素な料理の中、異臭のする皿が一品。先入観に寄るものか、焼いただけの人の肉は普通の肉より毒々しく感じられる。
リグは困惑の顔色を隠せず、唇を開こうともしなかった。だが本能は空腹を訴えて耳障りだ。
彼が口にするまで師弟も食事を始めずにいる。子は不安げに見上げ、青年は神妙そうな眼差しだ。
シュリの腹が鳴って、師が笑ったことを皮切りにリグは声を上げた。
「おれ、戻れるんでしょうか。人に」
暗い声音は唸りに近しい。師弟は優しく答えた。
「成体の種族が変わる事例は初めてだから確証はない。でも僕が何とかするよ、必ず」
「そうですよ。きっと大丈夫です」
深紅と瑠璃の光彩が細められる。
金髪の青年は一度面を伏せたが、すぐに決心した表情になった。丁寧な所作でナイフとフォークを握り、異物へと刺す。思い切り耳を下げてもなお、半ば無理やりに口へ押し込んだ。
きゅっと目を瞑っていたが、咀嚼が緩む頃になると緑の双眼は薄く開かれる。
そして零れた言葉は。
「……硬いですね」
人外となっても中身は変わらない青年に、師弟は失笑を漏らしたのだった。




