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episode30(ⅲ)

 一方、氷輪の救急箱の事務所にて。


 軍服に包まれた(しな)やかな四肢は、ヒュウの仕事机についていた。彼からはあらかじめ事務仕事はこの机を使って良いと言われていたのだ。


 金糸の髪を垂らしつつ、リグは紙の束に文字を書き続けている。

 読み込んではペン先を走らせ、顔を上げては溜息を漏らした。傍らにある資料の山を一瞥し、再び右手を動かす。


 不意、小気味よいノックが鳴った。


 予想していなかった来訪者に面食らいながらも、即座に腰を上げて玄関へと赴く。


(今日は他に依頼はないと言っていたが、緊急だろうか)


 壊れかけのドアを押し開ける。

 そこにいたのは。


「ご機嫌よう、ヒュウエンスはいるかしら」


 金髪のショートヘアが揺れる。至極色の虹彩を妖しげに細め、フレイアは優しく挨拶を口にした。


 ・・・


「話を聞かせてくれないか。君は誰だい」


 鼻をすすって家主の少年もとい男は返す。

 アムゼンクルス・ハーヴレイト・オラベルだと。


 古めかしさが匂い立つ、昔特有の長い名に聞き覚えはない。だがシュリにとって、その苗字は血がざわめく響きだった。


「ハーヴレイト? どうして貴方がそれを」


 ハーヴレイトという苗字は王族の遠い親戚に当たる。

 王家には多くの分家が存在するため、元王子のシュリには馴染み深いものの一つだった。


 しかしオラベル家とは血の繋がりがない。婚約もなかった筈だ。では何故、彼が王の血を引いているのだろうか。


 アムゼンクルスは分からないと首を振った。母親にそう教えられただけだと零し、自信なさげに俯く。

 煤けた髪に隠れる瞳を見つめ、ヒュウは目を細めた。


(オラベルの名を持つ人外ねぇ。皆殺しにされたんじゃなかったのか?)


 昔話の領域であることは充分に承知している。捏造や脚色もあり得るだろう。

 しかし何より、生き残りが存在していたならば周辺住民らが気付いている筈だ。度胸試しに興じる若者たちにも知られてもおかしくない。


 だのに、取り壊しの話が出るまで彼の存在は露出しなかった。


 まるで誰かが隠していたかのように。


 アムゼンクルスは単純計算で、青年よりも年上である四百歳だろう。それにしては随分と幼稚な口調だ。まともに食事をしていないからか、背丈もあまりない。


 師は足を組み直して訊く。


「君、外に出たことは」

「ない。ママがだめって言ったの」

「いつ言われたんだい」


 返答に詰まる。頭を抱えて、思い出そうとしているが上手くいかないようだ。


 人間に化けない、否、化けられないこと。

 甘えるような柔らかい言い回し。

 母親からの数々の言いつけ。


 シュリは僅かに目を見開いた。同時、ヒュウも冷静な装いで同じ言葉を声にする。


「人外の娘の子ども」


 合わせた顔には驚きが滲んでいたが、腑に落ちている色だった。ヒュウは気を取り直して向かいに座る子へ問う。


「母さんが今どこにいるか知ってるかい」


 蛇の怪物は戸惑った眼差しをした。伏せた双眼に惨い事実が映る。


 彼はゆるゆると首を振った。掠れた声音で、帰りをずっと待っているのだと言った。もう二度と帰ってこないことを知りながら、何百年もこの屋敷の奥で眠り続けていたと。

 荒れた唇は蚊の鳴く声で語り出した。


 母親が死んだのは見ていない。

 その他の家族や従者たちの散り際も知らない。


 突然多くの人々が押し寄せて、あれよあれよと母に此処へ連れてこられた。騒ぎがあっても出てはいけない、静かになったら出なさいと言い、彼女は潤んだ瞳でこう残した。


 ごめんね、と。


 それから彼女は部屋を後にし、暫く鼓膜を劈く阿鼻叫喚が鳴り渡る。ひたすら耳を塞いで、時間が過ぎるのを待っていた。

 気づく頃には、この豪邸から自分以外の生き物はいなくなっていた。噎せ返るほどの血の匂いと腐臭の中で、少年は立ち尽くしていた。


「最近になって人が来るようになったの。一番最初に来たのは人じゃなかったけど」


 ぴくりとヒュウは眉を動かす。すかさずに彼は訊いた。


「どんな奴だった」

「え、と、背の高い女の人。お花のいい匂いがしてて」

「何をしに来た」

「わ、わかんない。挨拶だけして帰っちゃった」


 食い気味の師の質問に思わずたじろぐも、彼はなんとか答えてみせた。アムゼンクルスの返事に、青年の表情は濁っていく。一点ばかりを見つめ微動だにしない。


 普段の彼からは想像できないような反応を見て、不安になったシュリが声を掛けた。

 途端、彼は立ち上がって呟く。


「嵌められた」


 僅かに取り乱す師の気持ちが伝播し、シュリも焦った口調になって聞き返す。台詞の意味が見当もつかなかったのだ。


 険しい表情をしたヒュウは一度、大きく息を吐いて冷静さを取り戻す。彼は抑えつけた声音で答えた。


「ココに来たのはフレイアだ。この子を利用して一連の騒ぎを生み出し、僕らをココへ誘導した。彼が追い払ったのは嘘じゃない、役人の失踪はフレイアの仕業」

「で、ですが決めつけるのは良くありません。第一、何故あの方がそのような事を」


 疑り深くなった師の主張を弟子は否定した。一番の理由は、仲間である蝶の人外を敵だと認識したくなかったからだ。

 もし彼の言うことが本当ならば裏切りと見なせる。それには肯定したくなかった。


 子の問いはヒュウの思考を揺らがせる。彼の双眸は微かに怒りを孕んでいた。


「そんなの知るか、()はもう裏切られたくないッ」


 初めて師に怒鳴られた。


 衝撃は鈍痛に似ていて、幼い彼の喉を絞め上げる。シュリは何も言い返すことができずに一歩下がった。


 その様子を見たヒュウはハッとして口を噤む。怯えに近い視線から目を逸らし、アムゼンクルスと向き合い直す。


 彼は手短に、早く屋敷から出ていくことを勧めた。


「コッチの事情に君を巻き込んだ、すまない。二日後迎えに行く。心の準備はしておいてくれ」


 長髪の青年は力なく口角を持ち上げ、踵を返す。行くぞ、と低く声を掛けられたシュリは、蛇の彼に頭を下げて去って行った。


 ・・・


 師弟が戻る頃には、すっかり夜も更けてしまった。耳が痛くなるほど静かな街を行き、明かりのない住処へと帰る。


 リグはいなかった。

 代わりに、体調が良くないから帰るとの旨が書かれた置き手紙が一枚残されている。


 それを最後に、金髪の軍人が事務所を訪れることはなかった。

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