episode30(ⅱ)
先頭を行くヒュウが大きな扉に手を掛け、弟子に目配せをする。彼は重い板を押し開けた。
視界に飛び込んできたのは多量の血――ということはなく至って普通の玄関だった。争った形跡もない。
周辺をよく確認してから二人は踏み入る。床が耳障りな音を立てて迎え入れた。
湿っぽく感じるが不思議と嫌悪感はない。何重にも絡まった天井の蜘蛛の巣に、家主はいなさそうだった。
長い廊下を伝う。
ひび割れた窓ガラスから冷えた隙間風が刺してくるくらいで、思いの外、家としての機能は失われていないらしい。
ばらつく足音が進む。景色はくるくると姿を変えた。
古めかしいアンティーク家具。
色褪せて元の状態が分からない絵画。
埃を被って眠る大時計。
整然と並べられた分厚い本たち。
一番広い部屋に来た辺り、ヒュウが閉ざしていた口を開いた。
「気持ち悪いほど綺麗すぎる」
椅子の背凭れに指を這わせる。少量の灰色がくっ付いてくるだけだ。
「オラベル家が失脚したのは今から六百年前。管理されてたのだって長くて五百年前だ。あまりにも綺麗すぎじゃないか」
「そうですが……人は暮らせそうにありませんよ」
暖炉の前に少年が腰を下ろす。炭となった木片すらなく、綿埃が身を寄せているばかりだった。
「となりますと、人外が住み着いているということに間違いないですね」
「でもどうして縄張りに入っても現れないんだ?」
笑みのない師の面はゆっくりと一帯を見回す。ドールハウスを彷彿とさせるファンシーさが漂っていた。
同類のヒュウならば分かるが確かにいるのだ、此処に仲間が。しかし恐ろしいくらい気配がない。
瞬間、声が響く。
明るい少年の声。
「わぁ、お客さんだっ」
反射的にシュリは自身の武器を構える。重い金属音が牙を剥き、現れた影に威嚇を落とした。
仄暗い空気に覆われて、背の低い家主は手元のランプを掲げてみせる。見たところ幽霊ではなさそうだが、人でもなさそうだった。
ヒュウよりも尖った耳。頬にきらめく細かな鱗。黄色い虹彩に細められた瞳孔。そして一つにまとめられた下半身。
蛇の人外だ。
彼は色素の薄い金髪を揺らす。
「最近はお客さんがいっぱいだなぁ、誰に御用?」
醜悪なその姿を隠そうとすらせずに微笑を浮かべ、伸びっぱなしの髪の毛を引き摺っている。
こちらに敵意はない。彼はゆっくりと下半身を這わせ、長髪の青年に近づいた。
咄嗟に弟子が前へ出る。少年は驚いたが、すぐさま笑いかけた。
ヒュウは子を一瞥して幼い質問に答える。
「……ご両親に、まずは挨拶をさせてくれないかい」
「パパとママは今はいないんだ。帰ってくるまで待っててもらってもいい?」
「分かったよ。その間、君と話がしたいな」
二人の会話にシュリが眉間に皺を寄せる。まるで少年に両親がいるかのような口調だったからだ。
師は何を言っているのだろう。この部屋に着くまでの過程、誰一人として人影は目にしていない上、他の化け物がいたわけでもない。
弟子が、これらは虚言だと気づくのはもう少し後の話だった。
小さな怪物は手招きをして、奥の部屋へと案内する。迷うことなくヒュウは付いて行った。
床は相変わらず腐敗した部分が多く残り、歩く度に軋んで撓る。心許ない足元とは裏腹に、家主の進みは軽快でどこか嬉しそうだった。
少年の行先は自室だと言う。玄関から離れて行く感覚に、シュリは危機感を覚え始める。
窓がないからか、光のない長い廊下は夜に閉じ込められているようだった。重苦しい湿気が絡みついてくる。
自室にも窓はなかった。広いそこには蝋燭の明かりが幾つか並び、部屋の四隅は暗くてよく見えない。
全員が揃うとドアが閉まった。
「パパたちにはどんな用? わたしは聞いちゃだめ?」
蛇の子は丁寧な作法で椅子に腰を下ろし、客人にも席を勧めた。ヒュウも習って座ったが、後方の助手には軽く首を振る。
彼は途端、声音を低くした。
「いつまで子供のフリを続けるつもりだい。存在しない親の話なんてして、虚しいね」
師の出で立ちが急変し、考える間もなくシュリも臨戦態勢となる。幼い子に対して師弟は脅迫の眼光を向けた。
少年は困惑の色を滲ませたが、即座に霧散させる。
氷輪の救急箱に向けられるのは怒り、かと思いきや、悲しみだった。静かに泣き始めたのである。
驚く二人に、子は服の裾をぎゅっと握って言う。
「はじめて、わたしを見ても叫ばなかった。逃げなかった。友だちになれると思ったの」
みるみる内に彼の様相は成人男性へと変貌を遂げる。
肉のない腕は飢餓を脳裏に過らせ、乾いた鱗片は剥がれつつあった。亀裂が入った皮膚からは血が伝い、瞳からは生気が失せる。
彼は、騙してごめんなさいと言い、項垂れてしまった。
か弱い反応をされるヒュウたちは、一旦警戒の糸を緩ませて問うた。他に客はいないのかと。
蛇の子は啜り泣きながら答えた。
「追い払った。お家を壊すって言ってたから。食べたかったけど、ママは人を食べちゃだめって」
拙い口調は外見にまったく合っていない。心の時間だけが止まってしまったような。
だが台詞に違和を感じる。
「追い払った? 確かに彼らは生きていたのですか?」
思わず問いがシュリの口を衝く。ボロボロな身なりの少年、もとい蛇の人外は大きく頷いてみせた。
しばらく静寂が立ち込める。
師の薄い唇が開いた。
「話を聞かせてくれないか。君は誰だい」




