episode Unknown
これは件の悲劇が起こる、もっと前の、遠い話。
「何してるの、ハーレン」
艶やかな黒髪に映える瑠璃の瞳。綺羅びやかな装いで、カエハは問いかけた。
薔薇の庭園の隅にしゃがみ込んでいたのは、もう一人の自分。否、顔だけ瓜二つな双子の兄だ。
ハーレンと呼ばれた子は、酷く整った面を上げて答える。
「苦しんでる」
小さな指先が示すのは地面。その上でのたうち回っていたのは一羽の蝶だった。
翅は薄く向こうが透けて見えたが、片羽が破損している。これでは飛べないということは一目で分かった。胴は綿のようなものに覆われており、髪の毛ほどの細い足を懸命に動かしていた。よく見れば左の触角も折れてなくなっている。
文字通り、満身創痍といったところだろう。
瀕死状態の虫を目にして、双子の弟は隣に腰を下ろした。
「ウスバキチョウだ。珍しいんだよ、この子」
ぱっと笑う弟に対して、兄は興味なさげに相槌を打つ。長い睫毛の影を落とし、ひたすら悶絶する小さき命を眺めているばかりだ。
不規則に跳ねるそれを追い、兄は物知りな弟に問う。
「もうすぐ死んじゃう?」
「たぶん。治ったらきっと大丈夫だと思う」
「治るの」
「わからないけど、わたし達だって転んでケガをしても治るでしょう」
「それはお医者のおかげだろう」
「そっか、じゃあ、わたし達で治してあげようよ」
無邪気な片割れの提案にもう片方は頷いた。
ハーレンが、肉のある幼稚な両の手で蝶を包み込む。少し大きい。苦戦しつつ何とか掬い上げた。
カエハの先導で部屋へと駆ける。途中、すれ違う従者たちに頭を下げられたが、構わず二人の王子は走っていった。
双子の自室は陽の光がよく当たる場所だった。
窓際の机に患者を丁寧に置く。掌に翅が貼り付く。ハーレンは不快そうに眉根を寄せた。
剥がれない。
蝶も暴れる。
鱗粉が細かく光る。
弟が覗き込む。
つい、強引に彼は手を引き離した。
「あ」
同時に二人が零す。視線の先、両羽を失った虫が身を捩っていた。
「は、早く戻さないと」
カエハの切羽詰まった声に触発され、兄は皮膚に付着した患者の一部を捲り取ろうとする。上手くいかない。焦りがじわりと滲む。
爪先が弾くたび、翅はボロボロと崩れていった。
半分の原型がなくなってしまった頃、やっと彼の手から全てが剥がれた。
翅は粉と化し、机上に撒き散らされている。
虫も今際の際だ。
「ごめん、カエハ」
「ううん」
「くっつけたら治るかな」
ハーレンは引き出しから液体のりを取った。一番細い刷毛の先端にのりを浸し、粉砕されたそれを繋ぎ合わせる。
もう一方の片割れも手伝うと言って、二人で並んで治療をした。
小一時間ほどそうしていた。
不格好で、翼というにはあまりにも雑な仕上がりだった。なくなってしまった方の翅は紙を切って貼り合わせたために左右非対称の虫ができた。
いわずもがな医者としては落第点であるが、双子は満足そうな目をしていた。自分の手で何かを成し遂げたことが何より嬉しいようだ。
しかし、蝶は飛ばない。
力なく触角を揺らす。時々ぴくりと大きく動くが、起き上がることも儘ならないらしい。
「これじゃだめなのかな」
カエハが呟く。影が落ちるほど長い睫毛が、困惑しているかのように伏せられる。
おもむろに、ハーレンは傍にあった鋏を手にした。のりでベトベトになった右手で刃を振り翳す。
そこに殺意はなかった。
だんっ。と鈍い音が響いた。
木の板の上で、蝶の胴体は真っ二つに断たれている。衝撃で翅は取れてしまった。
兄の不可解な行動に、片割れは思わず訊く。
「なんでそんなことするの」
「だって苦しそうだったろう。それに、」
美しい蒼眼は悲しげに、据わって言った。
「治ってくれなかったじゃないか」




