episode28(ⅲ)
「一時は生死を彷徨ったが、今はすっかり回復している」
窓の外を見ながらグレウは話す。緩やかに口角を持ち上げ、穏やかな表情だった。
本人は懐かしんでいるのだろうが、話の内容が想像以上に衝撃的である。凄惨たる現場を幾つもこなしてきたヒュウでさえ、発する言葉に迷うほどだ。
「脳挫傷に左目の失明、頭蓋骨も損傷してるだろ。よく生きてるね」
「医者にも同じことを言われた。俺もどうして生きているのか分からない。ただ」
青年から見て右、男の左の義眼が俯く。
「ただ、俺が死んだら彼奴が可哀想だと思ってな」
当時息子は十六歳。目の前で父親が、自分を庇ったために死ぬだなんてあまりにも酷だろう。
彼が存命しているのが救いの筈であるが、リグはそこで更に追い詰められてしまったようだ。
父親の足を引っ張ってしまったのだから。
「理由、もうそれじゃないの」
「まさか。失敗したらならば仕事で挽回すれば良いだろう。だと言うのに処刑人まで辞めるなど」
青年の一言に彼は首を振った。口振りからして怪我については気にしていないようである。
けれども理由は他にもあった。
ヒュウは、あくまで憶測だと断ってから切り出す。
以前、リグが自らの口で『統率者としての器がない』と言っていた。
グレウの話を踏まえた上で察するに、遠征に行っていた者たちが帰るまでの間、半数以上の仲間を自分の至らない指示のせいで無駄死にさせた事に罪悪感を抱いていたのだろう。
元々虐めなどに遭っていた影響で、彼には自己肯定感の欠片もなかった。立ち直るための土台がなかったのだ。
誰にも言えず、寄りかかれず、頼れずに。
そうだったのかと、落ちこんだ声色でグレウは呟く。
子育てや面倒を見ることは従者に任せていたために、最初から父子の間には僅かに溝があったのかもしれない。目を離したほんの少しの時間、取り返しのつかない崖になっていた。
「気づけなかったなど、これでは父失格だな」
彼は長く息を吐いて言う。
対してヒュウは、笑みを浮かべて否定した。苛立ちに似た気配が立つ。
「いや違うね。なに勝手に諦めてんの」
深緑色の瞳が赫い虹彩と合う。
人でない気迫を感じた。
「あんたが死んでもリグが死んでも、あんたはリグの父さんだ。それからは絶対に逃げられない」
笑顔なのに、まるで叱っているかのような口調。
グレウは呆然と瞬きを繰り返した。人外の口から思いも寄らない言葉が出てきたのだ、驚いたのだろう。
覚えず彼は真面目に返した。
「案外、理性的なことを言うのだな」
「悪かったね理性的な化けモンで」
「褒めているつもりなのだが」
捻くれた口はカップで塞いでみせる。飲み干して、少々雑にソーサーへ戻した。
しばらくグレウは黙り込み、数年見ていない息子の姿を回顧する。
自分の知らないところで悩み苦しんでいた彼に今更、何をしても無意味な気がした。現に顔さえも合わせてくれないのだ、最早どうにもできない。
しかしヒュウに言っても再び叱られるだろう。根拠はないが何となくそう思えた。
処刑人の指導者として、何十年も荒ぶる狩人たちを統べてきた。
人の扱いには慣れているつもりだったが、たった一人、彼だけは分からない。幼少期はあれだけ距離が近かったのに。
最後に「お父さん」と呼ばれたのは、いつの日だったろう。
残った一口分の珈琲をカップの中で回す。
縁を口元に寄せた、その時。
「待てこの野郎!!」
怒号が外から聞こえた。
追ってガラスの割れる音が響き渡る。カフェ入り口近くの窓が大破したのが見えた。
即座にどよめきが広がり、周辺の客が蜘蛛の子を散らすように席を立った。
ガラスの破片は店内にある。外から割られたらしい。
注目を集めていたのは、黒いローブをまとった男と若い男だ。
怒鳴り声と殴打、呻きが上がる。
ヒュウは顔をそちらへ向けて、椅子の背凭れに体重を乗せた。気怠げに顎を上げると、さらりと長髪が流れる。
涼やかな声が零れた。
「イマドキの処刑人様は仕事熱心だこと。ねぇ、リーダー?」
にこやかに吐かれた言葉の終わり、偉丈夫の低い溜息が空気を揺らす。
彼はおもむろに立ち上がり、青年の傍を通り過ぎる。重い足音が取っ組み合いの現場へ向かった。
現れた彼を知る者は慄き、数歩下がる。
知らぬ者も気圧され身を縮めた。
グレウが二人に威圧を落とすと、片方、白い仮面をつけた男が狼狽える。もう一人の男を押さえつけたまま上司を見上げた。
「エンカー様!? どうして此処に、」
「人間を処せと誰が言った。君は羊と山羊の見分けもできないのか」
地から響くような低音。
処刑人の男から血の気が引き、乗り上げていた体を離す。
一方若い男は荒々しい呼吸を繰り返し、相手を睨みつけていた。怪物の気配はなく、普通の人だ。
周りの野次馬たちがざわつき始め、事が収束へと向かう。
男は解放し病院へ、処刑人は上司命令により第零駐屯地へ直行となる。店の窓の弁償として、グレウは流れるように手形にサインをした。
ものの五分で彼は自席に戻ってきた。
疲れたというより、うんざりとした眼差しをする統率者に、青年は鼻で笑う。
「あれパワハラだよ〜」
「君が躾けろと唆したのだろう?」
最後の一口を飲むと、無骨な手はカップをテーブルに置いた。
ヒュウは口角を持ち上げながら言う。
「そういや前から訊きたかったんだけどさ、どうして最近の採用条件、緩いの?」
処刑人の質が悪い、特に人間性が。
この話は年越え前から問題になっていた。絶えない暴行事件や不純な案件は、弟子も餌食になりかけた事がある。
当時は単なる志願者の質の低下だと考えていた。が、人かそれ以外の生き物かの区別ができないのは見過ごせない。
貧しい身分から逃れ、貴族並みの待遇を求めて狩人になる人間の思惑など熟考するまでもない。
とは言え、採用する側にも責任はある。篩にかけられないのでは、やる意味がないのと同等だ。
金髪の男は、切れ長の瞳を一度逸らす。
「人手不足解消のためだ。恐れず戦える人材が必要だからな」
嘘だと青年は見抜いた。
事実、処刑人の担い手は年々減っている。
人外の暴走が増え、その分殉職する者の数も跳ね上がっているのだ。言い換えれば人員補充が追いついていないということ。
理由としては頷けるものである。だがヒュウには誤魔化せない。
彼は眉一つ動かさずに問うた。
「多少の罪を犯していてもかい」
「犠牲は付き物だろう」
「よく言えるな、民間人巻き込んでんのに」
一瞬だけ翠の虹彩が揺れた。
迷いが視える。
恐れではない。
その双眼が見ているのは此処でなく、眼前の青年でもない。
この場にはいない第三者。
裏で糸を引く者。
踏み込むか、とヒュウは心中で呟いた。
「誰かの指示だね」
沈黙の帳が下りる。
数分間耐えると、グレウの唇がやっと開いた。
「少年の言っていた通り、心を読んでいるみたいだな。確かに気味が悪い」
男は力のない微笑みを浮かべて言ったが、すぐさま表情を打ち消す。
青年の問いに対して、指示ではないとだけ答えておくと返答した。加えてこちらの事情だとも。
グレウは机上の手を組んだまま、伸ばした指をこすり合わせる。薬指の指輪が銀に光った。
風格のある彼には、何も寄せ付けない雰囲気が張っている。周囲の人々からは畏怖の感情が見て取れた。
しかし青年の脳裏には、孤独の二文字が湧く。
彼は「変なこと言うけど」と断って、真剣な三白眼を瞬かせた。
「あんたが狩る側で、僕が狩られる側である限り僕はあんたを信用できない。仲間だとも思わない」
脈絡のない台詞だったが、処刑人は黙って聞いていた。
「でもシュリはあんたを信用してる。もし何かあったらアイツに言ってくれ、弟子の頼みなら僕は動くからさ」
最後は小さく笑ってみせる。警戒色を感じさせる出で立ちだのに、ほんの少しだけ隙間があった。
青年の提案に男の鋭い目が見開かれる。驚愕というよりも動揺だった。
グレウの中で過るのは、きらびやかな装いの人影。そして冷厳な蒼い双眸。
幼気な口を衝いた言葉は。
『助けを求めるなど愚かな真似はするな。我が番犬、私はいつでも見ているよ』
「……恩に着る、青年」
彼の声音には諦念の色が滲んでいたのだった。




