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episode26(ⅱ)

 黒髪の青年は答え合わせをした。


「君に生きててほしかったから。君が死んでほしくなかったから。他にある?」


 彼の言葉を理解すると、ミストは吐息に呻きを滲ませた。


 彼女は涙でぐしゃぐしゃになった面を伏せ、言葉にならない声で咽び泣く。

 傍らの青年は目を細めて続けた。そう願われたのに死ぬのは恩を仇で返すのと同じではないか、と。


 世間話をするくらいの口調だのに、不思議とミストには響いた。窮屈で呼吸するたびに疼いたあの感情が和らいでいる。


 痛いけれど、痛くない。

 それは傷にそっと手を当てられるのと似ていた――


 日が傾き、空一面が朱くなった夕暮れ。


 ミストは泣き腫らした眼で青年を見上げ、感謝の言葉を述べた。これから再び生きていくという旨も伝えると、彼は八重歯を覗かせてみせる。

 軽い別れの挨拶をして早々、彼は去ろうと背を向けた。


「あっあの、お礼をさせてくれませんか。何もないですが、私にできることなら」


 処置された両手を胸の前で小さく組む。

 三白眼があどけのない少女を捉え、二度瞬くと彼はにっこりと笑う。


 刹那、その姿はこの世の者ではなく見えた気がした。


「んじゃ、君が大人になったら貰うとするよ」




 あれから十年近く経った頃。

 何十年も長引いた西国境戦争が終焉を迎えるのと同時期。


 数件の小さな貸家を管理していたミストの元に一人の客が来た。それがあの青年、ヒュウエンスだったのだ。

 彼に今こそ恩返しをと意気込んで、彼女は(のち)の『氷輪の救急箱』の事務所となる物件を勧めた。そして現在に至るまで、親交が絶えることなく過ごしている。


「もう一度会えるなんて運命かと思ったわぁ」


 老婆となった少女は懐かしんで遠くを見つめた。彼女の言葉に青年は苦笑する。


(……一時間も()たないな)


 昔話をしている間、ヒュウは彼女の生命力が失せていくのを感じていた。人でない彼だからこそ分かってしまう、死までのカウントダウンだ。

 救命士として施す術はない。延命措置をしたとて、ここに居られる時間など大して変わらないのだ。何より彼女は拒むだろう。


 気を抜かせば眠ってしまいそうなミストに、彼は普段通りの調子で言った。


「生きてて良かったろ。にしても、気まぐれで助けた子が平均寿命以上に生きるなんて考えもしなかったな」

「その分一緒にいられたのよぉ」


 黒く円らな瞳が向けられた。目元に刻まれた皺が一層深くなり、呼吸が遅くなる。


「ねぇヒュウ君。わたし、あなたのことが好きだったのかしらねぇ」


 前触れのない告白。

 掠れていく声は乙女の情を抱いていたが、残念ながら人外の内側までは響かない。


 過去に二人の間に邪な感情が生まれたことはなかった。予感する出来事も、踏み込んだ会話も、積極性もなかった。ただ普通の人より居心地が良い。ヒュウにとってミストに対する気持ちはその程度だった。

 それはこの時でも、たとえ彼女が死の間際だとしても変わらない。人外に恋心は難解でしかないのだ。


 しかし何故か、彼は受け止めた。


 ヒュウはおもむろに立ち上がる。右足を一歩、前に踏み出すと前傾姿勢になった。さらりと長い髪が流れていく。


 ミストの額に触れたのは、青年の唇。


 離れた時には既に、彼は人ではなくなっていた。

 背から伸びた薄い皮膜が翼へ、八重歯は牙へ、耳の先端は尖る。纏う雰囲気は途端に歪んだ。


 眼前に化け物が現れても彼女は落ち着き払った様子でいる。否、臨死の視界はぼやけてしまって見えなくなっていた。


 老婆は遠のいていく意識を、なんとか指先で引き留める。嗄れた声が言った。


「ごめんな、さいねぇ、すこし、眠るわ。まだ話したいこと、ある、んだけれど」

「そうか、分かった。また話そう」


 ヒュウの返事を耳にすると、ミストは安心したのか脱力して目を閉じる。

 何度か気息を繰り返したが、最後、吸った息が吐かれることはなかった。


 永遠の眠りについた彼女は、少女時代と同じ純粋さを携えて生涯を閉じたのだった。


 一人残された人外の面が綻ぶ。誰かを看取るのには慣れているつもりだった。


「おやすみ。ミスト」


 別れを告げ、彼は口を開ける。

 牙は皮膚を穿った。


 ・・・


「おかえりなさい、先生」


 彼の帰宅は深夜だった。

 シュリは事務所の一階で、魚の人外を寝かせつつ師の帰りを待っていたらしい。


 開口一番、ヒュウは言った。

 本人の願望だったと。


 彼の服は血の匂いが染み付いていた。発症者が暴れた戦場と似た不快な匂いである。


「ちゃんと死んでから食べたよ、残さずにね」


 力のない笑みを浮かべて言うヒュウに対して、シュリは怒りのような、悲しみのような感情が()()ぜになっていた。


(あぁ、セレスの時と同じだ)


 親しい人が亡くなったという出来事でさえ苦しいのに、追い詰めるように立ちはだかる『彼は人でない』という事実。

 師弟の関係を築いた頃には受諾した現実である。だのに、こうも納得がいかないのは理解が至らないからなのだろうか。


 少年は一度きゅっと唇を結ぶ。

 そして声を振り絞った。


「お疲れ、様でした」

「……うん。ありがと」

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