episode26(ⅰ)
王都から西へ、山を一つ越えた場所に彼女の住処はある。
そこは冷涼な気候でも育つ牧草地の中にあり、家畜が農民とともに悠々と暮らす村だ。遮蔽物のない広大な土地と、ぽつぽつと散見する小さな屋根は得も言われぬ寂寥を感じさせる。
今は雪が薄く積もっており、人はおろか牛や羊も見当たらない。
そこへヒュウは単身、蒸気機関車を乗り継ぎやって来た。
こんな辺鄙な場所まで乗る者などほとんどおらず、終点であるこの村で降りたのは彼一人だけだった。
荷物のない軽い体とは裏腹に心は酷く重苦しい。
彼の三白眼は憂鬱そうに揺れるも、足取りは思いの外しっかりしていた。
目的地に着く。
何の変哲もない、ただの古い民家だ。
長髪を乱す空風には意識すら遣らず、ヒュウは扉に手を掛ける。鍵はかかっていなかった。
整頓された、というよりは物のない室内を迷わず進む。ヒールが木の床を鳴らす。
奥の部屋。
日が一番入る南向きの老婆の自室へ、青年は足を踏み入れた。
「あらぁ、いらっしゃい。ヒュウ君」
「思っていたより元気そうだね、ミスト」
窓際のベッドに横たわるミストは、普段通りの柔和な笑顔を浮かべていた。
間延びした口調は変わりない。ヒュウは心の隅で安堵した。
寝台の側にある椅子に腰掛ける。
元大家は見ないうちに随分と弱っていた。布団の上に出されていた両腕は青白く、奇妙な斑点が浮かんでいる。
病的な痩せ方であることに気づかないふりをして、彼は言った。
「まさか人間に『食べてほしい』なんて言われる日が来るとはね。いつから僕が人外だって分かっていたんだい」
柔らかな問いかけにミストは答える。
「十年くらい前かしらねぇ。だって姿が全く変わらないんだもの、分かるわよぉ。あなたは気づかなかったの? 私にバレてるって」
「気づいてたさ。でも君なら分かってくれてると思ってた」
青年の返事を聞くと老婆は可愛らしく微笑む。楽しそうな表情は彼の喉を絞めていった。
ミストは間を置き、深呼吸するかのように思い出話を語り始める。
私たちは出会って半世紀経つということを。
・・・
十六歳のミストは、この村に似た田舎に暮らしていた。
自身の両親と婚約した恋人と、仲睦まじく穏やかな毎日を送っていた。小麦の栽培や山羊の世話をし、食卓は必ず四人で囲む、普通の一家だった。
あの日までは。
両親と婚約者が複数の人外に喰い殺された。
それも発作を起こしていない通常状態にだ。
ミストは最愛の人たちに庇われ傷一つない。代わりに彼らを喪った。家も畑も家畜も荒らされ、残ったのは自分のみ。
絶望の淵に立たされた彼女は、割れた窓硝子を握って跪く。鋭利になった半透明な刃を首に突き刺そうとした。
「勿体ない、死んじゃうんだ」
何処からともなく涼やかな声が投げかけられる。
彼女は据わった目で振り返った。
視線の先にいたのは紅い双眸の、髪が少し長い青年。此処らでは見ない人だった。
彼は不敵な笑みを浮かべて歩み寄り、ミストの隣に座る。
「あーあ、綺麗な手が血まみれじゃん。痛くないの?」
ビードロをきつく掴む手からは出血が絶えなかった。赤は少女の手首を伝い、薄汚い長袖をじんわりと染めていく。
ミストは呆然と彼の顔を見つめるだけで反応しない。青年は口角を持ち上げたまま言った。
「まぁ死ぬのは勝手だ、僕には関係ないしね。ところでコレは何だい」
彼が指さしたのは目下にある二つの石と添えられた花だった。
石はレンガと同じくらいの大きさのもので、それぞれ不格好にも名が彫られている。その前に寝転がる花は雑草とも言える、いい加減なものだった。
彼女は生気のない声で墓だと言う。父と母、そして恋人の墓だと。
「人外に、食べられてしまって。私が、足手纏いに、なって」
途切れ途切れの台詞に青年は優しく相槌を打つ。催促されている訳ではないが、彼女はぽろぽろと説明した。
話せば話すほどミストの喉元から刃は遠ざかる。無感情の声音も徐々に自我が見えてきた。
そんな変化を感じながら青年は耳を傾け、頷く。
やがて堰を切ったように少女は泣き出した。
「私が殺したみたいなものです、私が、私がいなかったら、先に食べられていたならッ」
嗚咽を漏らしても尚ミストは懺悔をした。誰も眠らぬ粗末な霊廟に向かって、ただひたすら謝り頭を垂れる。
併せて三人を責めることも言った。
どうして置いていくの。
独りにしないで。
私も一緒にいきたい。
蹲り、彼女は声を上げて涙を流す。硝子片が赤い手より滑り落ち両手を組む。震えるほど力強く握ったその様は、まるで祈っているようだった。
左隣で聞いていた青年は、笑顔を消して少女の頭を撫でる。
水分のない髪の肌触りは悪かったが、確かに温かかった。
「なんで三人は君を守ったのか、分かるかい」
ある程度ミストが平常心になってから、彼はそう尋ねた。
しゃくり上げる息を押さえるも彼女は答えられず、濡れた瞬きを繰り返す。少しして青年は真一文字にした口を開いた。
「そんなことも分からないんじゃ自殺するのも当然だな。こんな簡単なのに」
簡単。
か細い声で聞き返す。
彼は首肯し、骨張った右手をするりと伸ばした。血に濡れた祈る両手を包み込み、低い体温が触れる。
黒髪の青年は答え合わせをした。




