episode25(ⅱ)
次に女が目覚めたのは昼過ぎだった。
偶然リグが居合わせたくらいで、今朝の暴れようが想像つかないほど至って普通に起きた。どうやら抑制剤を目にしなければ良いらしい。
しかし言語は上手く話せず、盗んだ経緯や理由は不明なままだ。
事の顛末を知ったリグは、複雑そうな目付きになって言う。
「そんな薬ができ始めていたなんて知らなかった。国家事業になってもおかしくないんじゃないですか」
「そうだけど、世の中にはヘンな奴がいっぱいいるからねー」
若い青年の感心した口調に対してヒュウは取り繕った笑みで返す。
弟子は、そんな師の本当の表情が苦虫を嚙み潰したものであることに気づいていたが、声をかけられなかった。
三人はこれからの方針を決めようとしたが、何分相手は人以外の生き物。
加えて同類のヒュウでさえ聞き取れない程度の発音だ、本人に直接聴取を試みても無意味だろう。身辺調査を行ったとしても成果など高が知れている。
調べる方法がなくては行動にも移せない。年下組が困った顔を見合わせていると、長髪の彼が重い口を開いた。
「シンセ森に行こう」
青年の唐突な提案に、最も面食らったのはリグだった。
「あそこは人外の巣窟ですよ。彼女を森に帰すのはケガが完治してからだと」
「古い知り合いがいるんだ、人外のね」
次に動揺したのはシュリだった。
確かに、森にはヒュウの知人や協力者がたくさんいる。彼は既に知っていたのであるが問題はそこではない。
シンセ森に踏み入れるのは人外のみで、普通の人間は入口までしか進めない。この国に暮らす者なら誰でも知っている暗黙の了解であり、事実、シュリも入ったことはないのだ。
だが彼の発言は、あたかも森に入った経験がある――つまり自分も人ではないと言っているようなものである。処刑人の血を持つリグにばれては危険だ。
密かに冷や汗を流す弟子は、弁解を兼ねて説明した。
「せ、先生は昔から多くの人外と交流しますしねっ、そのようなお知り合いがいらっしゃるとは存じませんでした」
彼の防衛反応の甲斐あって軍人の彼は、なるほどと頷いた。
「流石は人と彼らを繋ぐ存在ですね。すごいです」
(リグさんが純粋な人で良かったッ)
ほっとするシュリを横目に、師は嫌そうな面をしてひとつ問う。
月魄様を知っているかと。
質問された二人は、考える様子もなく勿論と返事をした。
月魄様とはシンセ森にいると言われている神を指す。
関連する諸説は数知れない、よくある都市伝説の類だ。実際は迷信だと言われている割に、その存在を信じている人が大半である。
「人が森に入ると殺しに来るんでしたっけ。昔はよく入口に死体があったとか」
金髪の青年は埃を被った記憶を探しつつ言う。ヒュウは大きく首肯して補足した。
それは決して神などではなく、至って普通の人外なのだそうだ。千年生きているという点を除けば、の話だが。
彼もしくは彼女曰く、殺しているのは人間を忌み嫌っているからではなく、あの場所を守るのが己の役目だからだと主張しているらしい。
そして重要なことがもう一つ。
月魄様は森に生きる全ての生物を憶えているのだ。
「この子が森に行かずに成長しちゃった子じゃなければアイツは知ってるはず。ヒントくらいにはなるでしょ」
彼はやる気なさげに締めくくった。
深紅の瞳が向かいの女を一瞥する。大人しく座る彼女のほつれた服を見て、ヒュウは深く息を吐いた。
突破口が見つかって仕事が早く終わるかもしれないのに、いつもの彼にしては暗い眼差しだ。心做しか声が低くなっているのも気掛かりである。
シュリは言葉をかけるべきかと迷ったが、その心配する気持ちが伝わってしまったみたいだ。師に静かな微笑みを向けられ、声を制される。
あからさまに彼の元気がない、否、嫌がっている。
特に月魄様の話題になった辺りから気が進まなさそうにしていた。
(先生にこんな顔をさせるなんて、一体どんな人なのだろうか)
森の神と師の間に、只ならぬ因縁があると考えざるを得なかった。
・・・
結局、魚の人外が負った傷が塞がるまでは待機ということになり、薬も、この件が片付くまでヒュウが預かる方針となった。
女は時折、放心状態になるくらいで特段問題を起こす事はなかった。
話し掛けられるときちんと応答する上、コミュニケーションを図ろうとする意志も垣間見える。
師弟は、いつかの少女に近しい感覚を覚えて複雑な想いを抱いていた。頭の片隅を歩く幼い背格好は、声を発さずに二人を見守るばかりである。
まるでそれに合わせて、図ったかのように一通の手紙が届いた。
ミストからである。
彼女は二ヵ月ほど前にこの町から離れ、独り村の方へと移り住んだ。師弟はその引っ越しを手伝ってから、多忙を理由に連絡を取っていなかった。
小綺麗な封筒に書かれた元大家の文字は、以前より遥かに弱々しく、確実に老いを滲ませている。
勘付いたヒュウは慣れた手付きで開け、便箋に並ぶ文字を目で追った。
暫く経つと彼は無言で手紙を子に渡し、外套を羽織る。
シュリは受け取った紙切れと、弟子を待たずに出て行こうとする師を交互に見、狼狽した。
「待ってくださいっ どうされたのですか? 私も行きま」
「君は来ない方がいい。夜には帰るから」
「答えになっていません、ミストさんの所でしょう? 何かあったのでは」
「あったから来ない方がいいって言ってるんだ。その子、任せたよ」
肩越しの赫い眼光と、涼やかな声は僅かに震えていた。
ドアを軋ませて青年は立ち去る。
しんと静まり返った室内。シュリは困惑した表情で手元の紙を広げた。後ろから女が覗き込んできたが、あしらう余裕はない。
久しぶりだという挨拶から始まった便りは、他愛のない世間話が少々続いた。
新しい土地での暮らし、最近は眠ってばかりだということ、食事が摂れないこと……。
そして徐々に雲行きが怪しくなる。
シュリの中に冷たいものが伝って落ち、積み重なっていく気がした。
ミストの危篤。
その六文字は少年の頭を強く殴ったが、それ以上に過った予測に息が詰まる。
「先生、そんな、」
手紙の最後の文は薄く、こう書かれていた。
"死に際の老いぼれの、お願いを聞いてくれるかしら。私の最期は貴方に託したい。待っているわ、人外くん。"




