episode25(ⅰ)
翌日、早朝。
氷輪の救急箱、事務所にて騒々しい音が響き渡る。
「落ち着けって。ビックリしたのは分かるけどさぁ」
ヒュウの呆れたふうな声音が場違いのようで、室内はガラスの割れる音や落下音で満たされる。
軋む床に立つのは弟子のシュリと、彼に対峙する体勢の影が一人。彼がそれとの距離を詰めようと慎重に近づくのに対抗して、相手は唸り声で牽制する。
彼らの視線の先。
頭部に包帯を巻きつけた女が、髪を乱して師弟を睨みつけていた。
事の発端は午前四時頃に聞こえた妙な音。
階下からの違和感にいち早く気付いたヒュウは、就寝中でも起き出して階段を下りた。当然、一階の事務所に明かりはない。
嫌な予感を察した彼は思い切り扉を開け、電気を点ける。そこに立っていたのは目を光らせた人外――昨日助けた女だった。
彼女は唐突な光に驚いて腰を抜かしたが、すぐにヒュウを認識して跳び下がる。背後にあった青年の仕事机に立ち、机上の紙類を散乱させた。
状況を素早く把握した彼は、相手との意思疎通を試みる。しかし彼女は聞く耳を持たない。
「おびんあどおあッ」
そう言っては辺りを頻りに見回す。切羽詰まっているとも見え、様子が尋常ではなかった。
(若くないのに子音の一部欠落か……まさか、ね)
彼女が動くたび包帯に赤が滲み出す。傷口が開き始めているのだ。
ヒュウはまず敵意がないと示し、得意な作り笑いを顔に貼り付ける。少しずつ歩き出すも、彼女は後退してしまう。
加えて骨折している腕で物を手当たり次第に投げられる始末だ。
そして、その騒がしい音に目覚めた少年が合流し、今に至る。
半時間以上この状態が続いていた。シュリが率先して捕獲に走っているが、鼬ごっこに進展はない。
追いかけ回していた彼は腰元のピストルに指先で触れた。本人は無意識であろう仕草を見て、離れた場所からヒュウは言う。
「シュリ、あんたのすぐ殺そうとする癖マジで直した方がいいと思う」
「いま仰る台詞ではありませんよ」
仕事以外で睡眠を邪魔されたからか、少年は切れ味良く即答した。
二人の会話に構わず、女は同じ音を発し続ける。端から聞けばただの喚きだが、単なる奇声ではなく察し、ヒュウは顎に手を当てた。
重傷でも動けるほどの異常な警戒。
出口を見つけられない訳でも、探している訳でもない。
飛び道具は使うが、こちらを襲おうとはしていない。
では彼女は何を?
ふと、思い出した青年は自身のポケットから物体を取り出す。小さくも重さのある硝子瓶を女に見せた。
「もしやコレを探しているのかい?」
左手に握られていたのは小瓶。
フレイアの発作抑制剤だった。
彼女の視界に蒼い液体が映る。途端、鱗が逆立つ勢いで女は彼に飛び掛かった。
咄嗟にヒュウを守ろうとシュリが身を乗り出す。しかし相手の方が近い。間に合わない。
彼が愛銃を握った、同時に女の短い呻きが鳴る。
シュリは慌てて勢いを殺した。
目前、青年が脱力した人外を片腕で支えている。もう片方の手には見覚えのある注射器があった。
安堵で胸を撫で下ろしつつ、少年は師に駆け寄る。
「怪我人相手に無理やり麻酔を打つなんて、本当に医療従事者なんですかね」
「いやこれ正当防衛!」
眠る女を丁寧にソファへと寝かせる。静まり返った事務所内に寝息が微かに聞こえた。
ヒュウは手早く包帯とガーゼを外し、傷の具合を診始める。シュリも傍らで補佐に回った。
見たところ悪化まではしていなさそうだ。
一息つくと弟子は言う。
「やはり盗んだのはこの方で間違いありませんね。とは言え目的は何でしょう。言語が話せないとなると聞き出すのは難しいかと」
師は一言も答えず、ただ険しい顔をして魚の人外を見つめている。
不穏な予想が自分の中で蟠っていることに、彼は目を逸らし続けた。




