episode18(ⅰ)
幼気な寝息が規則正しく空気を揺らす。
その傍ら、ヒュウは遠くを眺めたまま静止していた。
固くて寝心地の悪いベッドの上で身を丸くするシュリは、すっかり眠りの海へと沈んでいる。自身が隠し持っていた過去を洗いざらい話したからか、寝顔はいつにも増して穏やかなものだった。
彼の頭が埋まる枕の隣。
浅くベッドに座るヒュウの腰元へ寝返りをうつ。布の擦れる音が鼓膜に触れてきた。
「苦しかったね」
額を擦り付けてくるシュリの頭を撫でる。艶やかな髪が指の間を通り抜けていった。
ヂリリリッ
唐突に鳴り渡るベルの音。
追憶から引き戻された長髪の青年は立ち上がり、寝室から飛び出した。
ドアのすぐ側にある固定電話の受話器を上げる。小刻みに鳴っていた着信音は切れ、次にヒュウの声が応答した。
「氷輪の救急箱だ、用件は」
『こちら七番街、発症者が一体。被害はまだ無いが直に朝になる、早急に』
電話口で若い声が早口に伝えると、ヒュウは了解を示し受話器を置く。
寝室に戻ると弟子は既に準備を終えていた。先程まで眠っていたにも拘わらず目付きは鋭い。師はベッドの隅にあった上着と道具一式を手に取った。
「七番街で仕事。被害は特にない」
「了解しました、向かいます」
返事をすると、シュリはあっと言う間に外へと駆け出して行った。
玄関の扉を開け、目前の柵の上に飛び乗る。建物の二階にある高所だが、彼は目下を一瞥することなく跳ねた。通りを挟んだ向こうの屋根に降り立ち現場へと急行する。
この仕事を始めてから一年が経つのだ。地図が無くとも脳内で最短距離を割り出すことなど造作もない。
シュリが到着するのに三分もの時間は必要なかった。
森に近い現場は人の気配がない。被害が無いというのも当然かと、少年はピストルを構えた。冷たい鉄の感覚、久しい狩りに銃口が笑った。
対象は想定より小さい個体だ。
頭らしき部位にある、渦を巻いた角から連想するに羊の人外だろう。胴には赤に塗れた羊毛が、糜爛する肉にしがみついていた。もはや人間と類似している部分など残っていない。
周辺に家はないが、この道は都心に繋がっている。日が登れば人が通り始める、つまり、今回は制限時間があるということ。
相手の充血した眼球が、ぎょろりとこちらに剥く。それを合図にシュリは発砲した。
乾いた音が複数回鳴る。
胴体に着弾したが何やら様子がおかしい。呻きを追って声が聞こえた。
「ぅいィ、痛イなぁ? 何すル、ンだよ」
喋った。
自我を失っている筈の発症者が、喋ったのだ。
今まで食欲発作を起こした人外が話すことなど一度もなかった。本来なら自我を失い、己の空腹を満たすまで暴走する筈である。
だのに相手は理性的に口を動かしていた。
シュリは驚愕のあまり体を硬直させる。羊の人外は唸り声を漏らし、報復を行った。自身より遥かに小さな子どもへ蹄を振り上げる。
咄嗟に体を捻って避けたが、体が竦んで上手く踏ん張りが利かない。自分でも分かってしまうほどシュリは動揺していた。
「子、どモ? ナんで子ド、もガ処刑人を?」
砂埃の間から少年の顔を窺ってくる。不気味な瞳孔が照準を合わせてきた。
血肉を引き摺って彼に近づく。一歩、一歩、ゆっくりとした足取りで向かってくる。シュリは攻撃せず、引き金に触れたまま様子を見ていた。
「可、哀想ニ。そレは子ドもが持、ツべき物ジャなイ」
「黙れ。何が分かる」
「大人たチ、ニ強要さ、れテいルのだろウ? なんテ哀レな」
ぜんまい仕掛けの人形に似た所作と口調。
過去に狩ってきた者らとは全く異なる動きに、少年は神経を尖らせ睨めつける。一挙手一投足、見逃してはいけないと腰を更に落とした。
羊が吐く同情に対して彼は平然と答える。
「仕事は私が望んでやっている。偏見だけで判断するな」
心にいちいち引っ掛かる相手の言葉を一蹴してみせた。人外は錆びてしまったかのように首を無理に捻る。
羊の的外れな言葉が、彼の癪に触ったお陰で冷静になれた。靴裏がしっかりと地を噛んでくれる。
これ以上の問答は無意味。
シュリは強く地面を蹴り上げ、素早く右手側に回り込んだ。相手も体をこちらに向けてくるが少年の方が速い。
足を止めることなく発砲。放たれた弾丸は羊の片目に捩じ込まれ、血が飛散した。
痛みに悲鳴をあげる。大地を震わすほどの甲高い絶叫だ。
耳を塞ぐ暇はない。
シュリが移動するのと同時に、化け物は醜い面に青筋を立てた。
「子ドモと言、エ所詮、人間ナのダな……ッ このク、ソガキめッ」
「悪かったな人間で!」
繰り出される後方の蹴りを躱し、地面で力を分散させ体勢を整える。もう一発分の銃声が暁の空に響いた。
夜明け前、氷点下の気温である。吐いた息でさえ凍ってしまいそうなほどだ。
だのに冬眠から目覚める時期が早い。そして食欲発作を発症してもなお理性を保っているという状況は極めてイレギュラーだ。何が起こっているのか、シュリには理解できなかった。
だが行う所業は同じ。
殺せば良い、それだけである。
距離を取られても迅速に詰め、顔面を撃ち抜き、身動きができぬよう脚部を狙う。通常より小さいからか相手の動きは比較的機敏だ。
鋭く風が横切る。
得意な距離。
相手の死角に入った。
羊は首が短い。顔を向けるという動作をするのに巨躯をも反転させる必要がある。相手が正面を取る時、隙が生まれるのだ。
(殺れる)
腐って垂れ下がった肉の間、確実に生を断つ点。目掛けて躊躇いなく、少年はトリガーを引く。寸分の狂いもない。
刹那――手からピストルが弾き飛んだ。
何の前触れもなく両手を襲ってきた激痛が、彼の思考を堰き止める。思わず蹲った。
力が入らない。左の手の指が深く抉られている。少しでも動かせば千切れてしまうところだ。
振り返る。
落下した銃の場所は遠い。間に合わない。
混乱する幼い処刑人の頭を、人外は容赦なく蹄で打ち付ける。鈍くも大きな音が頭蓋骨を揺らした。
ばつん、と視野が暗転する。シュリは意識を手放してしまった。
「大口ヲ叩い、タ罰だ。死ねッ!」
二度目の攻撃が翳される。倒れた少年の四肢は動かない。
腕の先の鉄槌が風を切る。脳もろとも潰してしまえと言わんばかりだ。
迫る死の気配。
クルミを割るように、殺意と憎悪の塊が間近に襲いかかる。
だが聞こえたのは破壊音ではなく、金属音だった。
止めが防がれたのである。驚いた発症者は即座に後退した。左右で違う動きをする双眸を何とか揃え、ピントを絞る。
昇り始める日の光が空を照らす。
黎明の中、気絶したシュリの前に立ち、剣を構えていたのは。
「あなたの言う先生は心配性なのかと思っていましたが、そんなことはなかったですね」
金糸の短髪、黒い軍服、深緑の虹彩。
「軍の駐在所が近くて良かった。そうでしょう、レイツァ」
処刑人の血を引く軍人、リグが抑揚のない口調で言った。




