episode17(ⅱ)
あれから半年が経つ。
死刑が執行される前日。
献上祭の準備で、従者らは夜になっても目まぐるしく城内を歩き回っている。短針は深夜の十二時を指していた。
冬の入り口。
日の沈んだ空気は乾燥していた。
池も凍る気温の中、一人の少年が王宮の中心部へと歩む。誰もいない広々とした中庭は息を殺していた。まるで、この少年が今から起こす出来事に怯えているように。
彼は一帯を見回し、腰に隠していた瓶を取り出す。古いラベルに書かれた「フテの油」の文字。
開けた蓋を捨て、彼は中身を一思いに撒き散らした。丹精に整えられた薔薇の園が不透明に濡れる。空になったガラス瓶を落とし、次にマッチを箱に擦りつけた。シュボっと音が鳴ると赤が灯る。
所作に迷いはなかった。事務作業を淡々とこなすような、ぜんまい仕掛けの機械がするような動きである。
「おいお前! こんな時間に何をしている!」
遠くから声が聞こえた。
その言葉が自分に向けられているものだと気がつき、ハーレンはおもむろに顔を上げる。
東の館、二階。
軍人が窓から身を乗り出していた。
少年はふうわりと笑い、薄い唇を動かす。
「五月蝿い、失せろ」
火のついたマッチが手元から落ちた。地面に触れる、瞬間。
砲撃音と聞き間違えてしまうほどの轟音と共に、強烈な熱風が吹き荒れる。木々は薙がれ、薔薇の花は灰となる。城壁は軋み、窓が一斉に粉々になっていった。
炎の渦となったのは中庭だけでない。
追って城内でも圧が轟いた。人々の悲鳴、皿の割れる音、石畳に亀裂が入る音、逃げる足音、熱の絶叫が一緒くたになる。やがて建物の倒壊が始まった。
ハーレンは爆風に吹き飛ばされ、中心部から離れていた。火には呑まれていない。軽く足を火傷したくらいだった。
王宮に響き渡る阿鼻叫喚を聞いて、彼は城壁に背を預けて笑い出す。
乾いた声だった。そこには彼の心すら見当たらない。壊れたように笑い続けている。
フテの油を染み込ませたロープやパンを、至るところに配置したお陰で火の手は躊躇なく広がった。少年一人が密かに進めていた大量虐殺の計画――彼の中で毛を逆立てていた二頭の獣が放たれた結果であった。
後悔はない。
こうでもしなければ許せなかった、と言い訳ができる分に、彼は鬱憤を積み重ねていた。
不意に聞き覚えのある声が鼓膜を掠める。
ハーレンは立ち上がった。
遠く、誰かが名を呼んでいる。自身と然程変わらない、幼いものだ。
彼には声の主に思い当たる者がいた。僅かに逡巡して彼は歩き出す。
炎がうねる室内は正に地獄だった。
黒煙が立ち込め、そこら中に大人の体が倒れている。煙をいち早く吸ってしまったのだろう。
声は途切れていない。ひりつく四肢で想定していた場所へと辿り着く。
彼の予想は大当たりだった。
「っ、ハーレ、ン……!」
寝間着姿のカエハが、熱の壁に阻まれて身動きが取れない状況だった。口元を両手で覆って床に伏している。従者はいない、先に逃げたらしい。
危機に瀕している片割れを前にして、ハーレンは足が竦む思いをした。
自分なら助けられる、火が回っていない場所を知っている。だのに近づこうともしない。
その時、彼は気が付く。
殺したい気持ちが弟にも飛び火していたということに。
信じられなかった。まさか自分がこんなにも非情だったとは思っていなかったのだ。
必死に助けを乞うカエハの瞳に、冷徹な眼差しで返す自分が映る。
みし、と一際大きな固い音が鳴った。カエハの頭上にある天井が下がる。
古い建造物だからか、劣化している部分が多い。昔は堅牢と言われていた王宮も今では砂の城と変わりない。
何処かで起きた爆発の余波で空間が揺れた。間もなく天井が落下する。
ハーレンは反射的に床を蹴った。
どういった理由で弟を助けようとしたのか分からない。確かなのは、一度も誰の役にも立たずに死ぬのは何となく嫌だと思ったからであり、決して相手がカエハだったからではないということだ。
それでも、片割れへの多少の情はあったのだろうなと、今なら思える。
迫る塊の下。勢い殺さず弟の肩を抱き、向こうへ転がり込む。背後で破壊音が耳朶を打った。
回避はできたようだが此処に長居はできない。再び崩壊する可能性が高いのだ。
即座に起き上がり、ハーレンは周囲を見渡す。同時に手を引かれ、思わず彼は視線を下へ遣った。
「な、何が起こっているの? 皆は?」
涙で歪む瞳は、十二歳の少年にして至極当然な反応である。ハーレンの視線が泳いだ。
困惑する己を押し殺し、彼は冷静な装いで言う。
「まずは逃げなさい。厩の方角は燃えていない筈だから」
「ハーレンは?」「私は」
片割れを安心させるために浮かべた微笑。そこに冷たさは無かった。
「やらなくてはいけない事があるから」
彼はカエハを立たせ、外へと追い出す。理解が間に合わない王子に構わず、ハーレンは柔らかな表情で指さした。
「大丈夫、行って」
久しく見ることのなかった兄の穏やかな瞳に、カエハは唇をきつく結ぶ。煤がついたシルクの寝衣をはためかせ走り出し、その背はすぐに遠ざかった。
悲しげに目を細め、ハーレンは逆方向へ行く。衰えることを未だ知らない回禄の奥へと。
傾く部屋。
焼け落ちる装飾。
溶けた肖像画。
意識を手放した従者たち。
叫び声や断末魔は聞こえない。此処にいる人は皆、息絶えてしまったらしい。少年は傍を通り過ぎる。
最初から自分も一緒に死ぬつもりだった。自殺に恨めしい人を巻き込んでしまいたかった。だからこれで良いのだと暗示を掛ける。
しかし、胸の辺りが苦しくて仕方ない。
果たして、自分には十二年も生きている意味と価値はあったのだろうか。
最期は多くの人々を殺し、自分は咎めを受けずに死ぬ。たとえ寛容な神でも赦してはくれない罪状だ。
息がしづらい。
彼は歩む足を止め、座り込む。幾つか咳が込み上げた。
熱さは感じない。全身の皮膚が悲鳴をあげている。
死の淵を漂ったことは何度もあったが、ここまで来るのは初めてだ。彼は狭くなってきた視界を瞬く。
唐突に、そうか、と思い至る。
人殺しに躊躇がなかったのは、正しいことだと思えていたからだ。あの乱入者を殺したのも、この火災を引き起こしたのも、全て。
やっと、自分が父親や周りから「化け物」と呼ばれていた理由を理解した。惨殺したから、心がないから、という理由ではない。
異常な程に無垢な正義感の所為だったのだと。
(なんだ、すべて、私が悪かったのか)
瓦礫に凭れ項垂れる。従者らに散々吐かれた蔑みの言葉が舌の上を転がった。
やはり、生きる意味や価値など端から無かった。
人を殺すために生まれ、人殺しを当たり前とする子どもに、そのような大層なものは無かったのだ。
諦めから導き出された、探し求めていた答え。少年は抵抗することなく、それを受け入れた。
脱力し瞼を下ろす。
二度と、永遠に、目覚めたくない気分だった。
「やぁ、王子様」
涼やかな声が少年の前に躍り出た。




