episode15
「ミストさん、いらっしゃいますか」
蔓が這う、古いレンガの建物の扉に呼び掛ける。応答はない。きん、と刺してくる冷たい風が抜けていくばかりだ。
シュリは次の言葉を紡ぎかけて、すぐに薄い唇を噤む。振り返ると背後に立つ青年が首を左右に振った。
事務所の大家であるミストが引きこもって半月以上が経つ。
毎日のように訪ねているが結果は同じ。近所の住民も口を揃えて、ここ最近は姿を見ていないと言っていた。
夜は明かりが灯っているから家にいることは確実だ。しかし一向にシュリたちの前に顔を出さない。
「相当セレスのことが堪えているんだな」
長髪の頭をガシガシと掻き、ヒュウは嘆息する。その瞳は迷いに近いものが揺れていた。
シュリも不安げな目を向け、固く閉ざされた扉に触れる。赤くなった指先に冷たさが広がってきた。
彼女の教え子である異国の少女・セレスが殺されてミストはすっかり変わってしまった。
とはいえミストの反応は人として当然のものだ。幼く小さい身体に、大振りのナイフが貫通したのを眼前に見せつけられたのだから。
独り身だったことも加担していたのか、彼女はあの少女をとても気に入っていた。二人の後ろ姿は、まさに祖母と孫だったのをシュリは憶えている。
だからこそ、悲惨な結末になってしまったことから立ち直ることができずにいるのだろう。
考えるまでもない、と少年は手を離した。
「今月の家賃はどうしましょう。ポストに入れておきますか?」
「あれに入ると思う?」
師が指差す方向を見る。そこには大量の新聞紙が溢れかえってしまっている小さな箱が立っていた。
ポストさえも確認していない。いよいよ彼女の心境が尋常でないものだと理解してきた。
ヒュウは、寒いからまた明日来ようと言って踵を返す。寒風が彼の長い髪に吹き付けた。
一方シュリは動こうとしない。手にした茶封筒をきつく握って、再びドアと向かい合う。おもむろに口を開けた。
「朝食は摂りましたか」
ぴたりと青年が足を止める。諦めの悪い弟子に溜息を吐きつつ、もう一度彼の後ろについた。
シュリの中性的で柔らかな声。
居るかどうかも分からない、聴いてくれないかもしれない。それでも彼は扉に話しかけるのをやめなかった。
「眠れていますか。日に当たっていますか。寒くはありませんか」
質問から始まったそれは、やがて少女に関するものになっていく。
「私達が仕事の間、セレスは元気にしていましたか。言葉はどれほど覚えられていたのでしょうか。あの子の声はお聴きになれましたか」
端から見れば残酷な問いかけである。ヒュウは止めるか否かを逡巡した。
「私はとても後悔しています」
唐突に告げられる懺悔に師は目を見開く。疑問に思う彼に構わず、シュリは続けた。
自分が傍にいながら守れなかったこと。長い時間、ミストに預けるようになったこと。軽率に命を拾ったこと。
そして。
「あの後、貴方を独りにしてしまったこと」
幼い命が駆られた直後の景色が脳裏に蘇る。
鼻先に突きつけられた衝撃にシュリは、我を忘れて咎人に報復を行った。ヒュウは怪我人の応急処置に追われていた。
騒然とする大広間から去り始めた人々の波の中、老婆はセレスの遺体の隣にいた。徐々に失う体温を、独りで感じて。
「挙句の果てには私と先生は喧嘩をする始末です。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
押し込もった震える声音と白い息が溶けていく。シュリは項垂れて謝罪を言い続けた。
見るに耐えずヒュウが彼の頭を撫でる。何も言葉はかけない。
ふと静寂に、柔和な声が伝ってきた。
「シュリくん、謝らないで」
予想だにしていなかった返答だ。覚えず師弟は顔を上げる。
ドアのすぐ近くにいるらしい、弱々しくも彼女の声は聴き取ることができた。
彼女は連絡に応えなかったことの謝罪をすると、軋む音を立てて隔たりを開けた。冬の木の枝に似た細い指が、平生の優しげな瞳が、隙間から現れる。
あからさまに顔色は悪かった。身なりも汚い。だが背筋は伸びており、口調も以前と変わりなかった。
「私も貴方たちを頼れば良かったのに、こちらこそごめんなさいねぇ……」
そう言って彼女は話し始めた。
セレスの件については、もう立ち直ることができないと言い切る。それでは自分もきっと永くないだろうから大家をやめると言った。氷輪の救急箱の事務所をそのまま譲るとも。
話を耳にしたヒュウが、眉間に皺を寄せて問う。
「じゃあ君はこれからどうするのさ」
「遠くに引っ越すわ。誰にも迷惑をかけない、何処か遠くに」
引き留めようとしたシュリを、そっと師が制する。解せぬ顔をする弟子に彼は力なく一笑した。
「ミストがしたいようにすればいい。引越、手伝うよ」
彼女はそれを聞くと、朗らかな笑みで感謝の言葉を口にした。
ミストは先週から荷物を減らす作業をしているらしい。その最中、師弟に渡さなくてはいけないものを見つけたそうだ。
彼女は少し待ってて、と断ってから家へ戻る。何事かと青年と少年が顔を見合わせた。
間もなく彼女がやって来る。血管の浮き出たか弱い手には、不格好な紙切れが握られていた。
それをシュリが受け取る。横からヒュウも覗き込んできた。
「これは、手紙?」「セレスからだな」
何かから破ったものなのだろう。丁寧に半分に折られているが、端が不揃いで綺麗でない。しかしそれが余計に稚さを引き立てている。
開けて良いかを老婆に尋ねると、彼女は一つだけ大きく頷いた。恐る恐る彼は開く。
せんせい、しゅりへ
こえ ない わたし
みつけて ありがとう
なまえ ありがとう
わたし なまえ せりこ
いえない ごめんなさい
つぎ わたし ふたり たすける
いっぱい だいすき
せれすより
脈絡のない、短い内容だった。文字も縒れてしまっている。おまけにスペルもほとんど合っていない。
だが懸命に書いた文字から溢れ出る想いが、匂い立って直接心に届く。
持つ手が小刻みに震える。
一度も自身の意志を伝えることのできなかった少女の言葉は、拙くも力強かった。声を出すことができなかった間、これらの言葉をずっと胸の中に留めていたのだろう。
シュリは歪んでしまった視界で、覚え書きのような手紙を見つめた。しゃくり上げる息が煩わしい。
ぽた、と紙に丸い染みができた。その隣、追ってもう一つ円が生まれる。
自分の涙ではない。
シュリが顔を上げると、彼は思わず目を瞠った。
「あれ、僕、なんで」
ヒュウが泣いていた。
涙を流していることに、自身も酷く驚いているようだ。
大きく開かれた三白眼から、無機質に横溢する雫が頬を滑っていく。ルビーを彷彿とする瞳がこぼれ落ちそうだった。
彼は呻きに似た声で彼女の名を呼ぶ。
網膜に揺れる少女の面影が、遠く、遠くへ走り去っていった。




