episode14(ⅰ)
事務所の中央、物が積み重なって汚らしいテーブル。ここの主がそれの向こうに座る女性へ、にこやかに言った。
「無理だな」
突き放すような物言いに若い彼女が眉を思い切り下げた。薄い唇が小さく「無理ですか」と相槌を打つ。師の隣にいたシュリも複雑そうな顔で両者を見つめていた。
冬本番を迎え、冷え切った空気が立ち込める。
私設救命組織・氷輪の救急箱にとある一人の女性がやってきていた。
女性とは言っても十代後半の、まだあどけの足らない少女である。長く着ているらしい年季の入った厚手のワンピースは、薄汚れていて如何にも庶民的だ。あまり裕福な家庭ではないことが垣間見える。
彼女はヒュウの返事を受け取って、膝の上で握っていた両手に力を込めた。悲しみと悔しさが入り混じった表情で俯いている。
この少女の名はアニー。
人外に関することで相談しにやって来たのである。しかしその相談の内容が、二人を酷く驚かせるものだった。
とある人外と結婚したい。
頬を真っ赤に染め、決死の様子でそう言ったのだ。
あまりにも予想外過ぎた言葉に、ヒュウは平生の笑みを引き攣らせてしまっていた。弟子も耐えられず目を見開いて彼女を凝視した。
詳細を聞くために座らせ、紅茶を出してやったが味を感じない。単刀直入に尋ねてしまえば心を開いてくれないかもしれないため、長髪の青年は慎重に訊く。
「本気で言っているのかい。人外ってあのバケモノだよ?」
「も、もちろん本気ですっ。確かに化け物ではありますが、彼はそんな子じゃないです」
乙女の胸にある固い意志は微動だにしない。無理に動かすのはよそうと、質問の方向を変えた。
「出会いから今に至るまでの経緯を話してくれ。今の時点で僕らはまだ赤の他人なんだし」
涼やかな調子の声を聞いてアニーは小さく頷く。
「昔、シンセ森に迷い込んでしまって。月魄様に見つかる前に、彼が助けてくれたんです」
当時、人外に対する敵対心を親によって育まれていた彼女にとっては衝撃的な出来事だった。優しい怪物がいることに、親の言うことが虚偽であることに。
助けてくれた化け物は言語を話せず、身振り手振りで意思疎通を図った。心を通わせようと、自ら心を開いてくれた彼にアニーは胸を打たれたという。
それから交流を重ね、言葉を教え、関係は親密なものになっていく。出会っておよそ八年経った現在、二人は将来の誓いを立てたそうだ。
恥ずかしそうに話すアニーを前に、シュリは感動にも似た気持ちになって真剣に耳を傾けている。その隣、ヒュウは苦虫を嚙み潰したような顔つきになっていた。微かに唸り口元を押さえる。
長く考え込んだ末、彼は一度本人と話をするべきだと言って、その日は少女を帰らせた。
「悩む必要、ありましたか」
アニーが去った後、シュリの冷静な声音が空気を揺らす。
隣で少女を見送っていた青年が溜息に似た調子で「あったよ」と一言答えた。しかしそれ以上口を開こうとはせず、ヒールの硬い音を鳴らして自身の仕事机に戻っていく。少年は小さく首を傾げ、背で玄関の扉を閉めた。
翌日。例の人外を連れてアニーが再来した。
話の通り彼の頭上には大きく長い耳が垂れ下がり、警戒色の強い瞳でこちらを見つめていた。
兎の人外、ロイ。
若く強かな顔つきだのに身なりはみすぼらしく、人の匂いより未だ獣の気配の方が濃い。仕草の端々に兎を彷彿とさせるようなものが見られる。
人間に化けたヒュウが、普段の口調で挨拶を交わそうとした。だがロイは唇を開こうとしない。きつく口を噤んで、アニーの一歩後ろに控えている。
青年は取り乱すことなく席に座らせ、早速話を切り出した。
「先に言っておく。僕らが君たちの結婚にとやかく言うつもりはない、アドバイス程度に思ってくれ。気に食わなかったら聞き流してもらってもいい」
彼の面に笑顔の仮面はない。真面目な眼光で淡々と事実を述べていく。
この頃、十代後半は立派な大人であることが共通認識だった。
アニーのような年頃の娘でも妥当な婚約年齢だ。そして婚約は大方、親が取り付けるものであり本人の意見は尊重されない。いわゆる政略結婚が、貴族平民ともに主流であった。
彼女にも両親がいる。
本人の一存で勝手に婚約など許されるはずがない。それも婿が化け物となると言語道断である。
ロイに関して言うことは、食欲発作の懸念だ。
発作はどんな人外でも回避することはできない。加えて人生経験の浅い彼は発症頻度が高い。己の欲に自制をかけることは、若造のロイには至難の業だろう。
そしてもう一つ。
「言葉が話せなかった、てことは君、生まれて一世紀も生きていないだろ」
青年は細めた紅い目を少年に向けた。
人間から生まれた人外のほとんどは、産まれて間もなく人間によって処刑される。
そこから逃げる者以外は。
現在生きている人外は全て、自らの意志で親元を離れて本能的にシンセ森に行った者だ。そこでおよそ百年の月日を生き、人間の容姿を被ることができるようになる。
要するに産まれ落ちて一世紀はシンセ森で獣として生活し、人語を身につけた者から森を出ていくのだ。
ヒュウもそうだったように、怪物たちは凌いで生を繋いでいた。
「人、喰ったことないんだろ。なら尚更、森を出ていくのは早すぎる。月魄様にも話を通さないといけない」
他人とはいえロイも人でない存在。多少の仲間意識はある。今の状態で町に降りることは、装備も間に合っていない子供に戦地へ行かせるようなもの。
それだけは避けてほしいと青年は言った。
彼の話を聞いて、若い二人は顔を見合わせた。兎の彼が何か小声で言うと、アニーは目を伏せて首肯する。再びヒュウを見据えると彼女は「わかりました」と答えた。
机上、置かれた二つのティーカップ。
冷めた紅茶の匂いは薄い。
暫し黙ったヒュウが言いにくそうに口を開く。弟子にも、ちゃんと聞いてほしいと断りを入れた。
「子どもは作るな」
青年の言葉に二人は口を開け、シュリは小首を傾げた。




