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episode13(ⅰ)

 弟子の前で、ヒュウは食欲発作を起こしかけていた。


 苦し紛れに呼吸する彼の口からは、泡立った唾液が躊躇いなく流れ出ている。骨と皮でしか成っていない背の翼が、何かを抑え込むように小刻みに震えていた。皮膚が沸騰しているかのようにブクブクと波打っている。

 シュリの指先は勝手にピストルに触れた。


(違う殺すな)


 考えていることとは裏腹に、手が言うことを聞かない。強張ってしまって上手く動いてくれない。

 どうやら彼の体は、師を完全なる()()として認識してしまっているらしい。骨の髄まで染み込んだ、発症者の駆除の手順が脳裏を巡る。


(私は先生を殺そうとしているのか)


 自分の体と意識が剥離されている。何かの拍子に発砲するかもしれない。

 臨戦態勢となったシュリは、必死で己の四肢を制御下に敷いた。気を抜かせば向こうもこちらも攻撃しかねない。

 室内での戦闘は避けたいところだ。その上に相手は師。殺せば自己が崩壊するという予感が身を隠しきれていない。


 もう一度名を呼ぶ。返事は荒い息遣いだ。

 現時点で襲ってこない、という事はまだ意識が残っているのだろう。ならば助ける糸口がある。

 とはいえ計り知れない不安と恐怖が手足を縛り付けてくる。怖くて仕方がない。


『僕は、人じゃないから』


 少し前に言われた師の言葉が再生された。

 諦めにも見えたあの顔で、何度も心の中で(こだま)する。


(人でない? だから何だ)


 速まる心音に呼吸が乱れてしまう。冷や汗が伝っていくのを感じた。


(私は、彼が人外だから怖がっているんじゃない)


 情けなく鳴く喉を絞め、シュリは言った。


「先生、見習いの者ゆえ荒治療になることをお許し下さい」


 呟くと、少年はホルダーの側面に手を伸ばした。同時に床を蹴り、身を丸くした青年に掴み掛かる。彼はこちらを睨めつけるだけで動こうとはしなかった。

 幼い手に握られたのは注射器だった。彼の首筋に針の先端を深く刺し、ひと思いに中身の麻酔を注入する。一瞬だけ青年は暴れたが、すぐに脱力し(うつぶ)せになった。呼吸も落ち着き、規則正しく息を吸って吐く。

 思い切った行動が正解だったことに、シュリは胸を撫で下ろした。


 対人外用の麻酔ではあるが、発作直前の人外にも効果があるとは知らなかった。もし彼に麻酔が効かなかったなら殺さなくてはいかなかっただろう。

 だが安心はできない。

 目覚める前に人肉を手に入れなくてはいけないのだ。


 壁に凭れた古時計を一瞥する。少年はテーブルに放置されていた、なけなし金貨を無造作にポケットに突っ込み、勢いよく事務所から駆けだした。

 向かうは闇市。

 ここから離れた郊外で夜な夜な広げられる、秩序など存在しない市場だ。そこでなら人肉が売られている。

 シュリは何度か師に連れられてきたことがあった。その時も彼の食糧を買うために行った。今でもあの場所の異質さを覚えている。


 真冬の風で凍ってしまいそうだ。胸が、肺が、心臓が痛くて仕方ない。


 薄い雪の絨毯(じゅうたん)が敷かれた半丸瓦(テラコッタ)の屋根を走り渡り、最短距離で目的地へと足を速めた。

 昼間なら人気のない路地裏に並ぶ、点滅する明かりが視界に入り込む。少年は何メートルもある建物から飛び降り、足の筋肉がはち切れるほど走った。

 まだ開店前である。しかし彼は構わず目指した露店に駆け込んだ。瘦せ細った店主は悪い目付きで少年に言う。


「なんでこんなとこにガキが」

「急を要するんだ買わせろッ‼」


 閑静な路地裏に怒鳴り声が鳴り渡る。シュリの額から伝う汗の量が尋常でない。店主を睨みつける眼光に、子供らしさなど欠片もなかった。

 臆した店主は慌てて大瓶を手渡す。少年は代金も聞かずに金貨を押し付け、再び地面を蹴った。

 死人の肉や脳が詰められた瓶は、重い上に酷く冷たい。冬の夜風に晒された手や顔は真っ赤になっている。最早寒さも感じられない。


(目を覚ます前に早く)


 彼の夜は始まったばかりだ。


 ・・・


 僕は、何をしているんだろう。

 確か新しい担当の人間が来て、話して、そうしている内に✕✕✕が帰ってきて……。


 脳髄に響く水の音。懐かしい匂いが漂っている。


「本当に死んだように眠るなぁ」


 いつかに聞いた声だ。

 目を開けると人影が映る。その姿に、僕の埃を被っていた記憶が飛び起きた。


「あ、アンク⁉ なんでここにっ」

「おはようヒュウエンス。何言ってんの、おれが医務室(ここ)まで運んでやったんだぞ」


 巻き毛の金髪が揺れる。優しげに細められる茶の瞳に、僕は戸惑いを隠せなかった。

 咄嗟に自分の後頭部に触れる。髪が短い。もしやと思い、目前の彼に日にちを尋ねた。すると彼は七十一年前の西暦を口にした。


 様子がおかしい僕にアンクは困ったように笑う。変なの、と言いながら彼は傍にあった鉄のティーポットを手にする。傾け、歪な形状のコップに注ぐと良い香りが立った。僕の好きなレグルスの紅茶の匂いだ。


「これ飲んで落ち着きな。まったく、心配したよ」


 彼は事の経緯(いきさつ)を話してくれた。どうやら僕は訓練中に倒れたらしい。

 アンクの話を聞くに、僕は過去にいるのだろう。なぜ此処にいるのかは分からない。意識を飛ばしたことは覚えているのだが、それより前をよく思い出せないのだ。


 彼が生きている。

 救い切れず死なせた筈のアンクが。

 形を持って、こうやって話して、笑っている。


「お、おいおい大丈夫か」


 驚く彼に構わず、僕は頭を深々と下げた。口から止めどなく謝罪と安堵が溢れる。言っていることはあまりにも支離滅裂で、彼には理解できないものばかりだった。


 一頻(ひとしき)り言葉を垂れ流すと、アンクは優しく僕の背をさすってくれた。穏やかな声音で大丈夫、と言い聞かせてくれる。


 あぁ、そうだった。彼は出会った頃から優しかった。戦人とは思えないほど心が広く、朗らかで真っ直ぐだった。

 僕が今まで触れてきた人間の中で、一番慈愛に満ちた人。


「キミが泣くなんて珍しいね。しっかりしてよ、明日は西国境を制圧するんだから」


 西国境。制圧。

 その単語が鼓膜を掠めた途端、僕は彼の腕を掴んだ。

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