episode2(ⅰ)
とある街の一角にある小さな古い事務所、それが彼等――「氷輪の救急箱」の本拠地である。
ヒュウが壊れかけの木製の扉を開け、入ってすぐの場所にある明かりを点ける。部屋は狭く、物が多い。その上乱雑に置かれているものだから、お世辞にも綺麗とは言えない。
「そろそろ片付けましょうね、この部屋」
「時間があったらなー」
端からやる気などない声で返す。シュリは呆れたように大きく溜息を吐いて何も言わなかった。
中央にある物でいっぱいな汚いテーブル。
その両端に置かれた色違いの古いソファ。
部屋の奥にはこじんまりとした青年の仕事机が置かれている。言わずもがな、その机も大量の紙や本などが散乱していた。
クローゼットから似たような服を取り出し、シュリは手早く着替えを済ませる。その様子を見ていたヒュウは、彼の服のレパートリーの無さに呆れたような声で笑った。だが少年は反論する訳もなく、澄ました顔で聞き流す。
ふと、ノックする心地良い音が鼓膜をくすぐった。間もなくドアが開かれ、そこから年老いた女性が顔を覗かせる。部屋の奥にいたヒュウは、来客に対して右手をひらひらと振った。
「悪いな、家賃はまだ払えない。帰った帰った」
「あらまぁ、大家さんに対する態度ではないわねぇ」
間延びした呑気な声は、何処か安心できるような優しい雰囲気だ。一方、それに答える声は涼やかで明るい。
見兼ねたシュリが小走りになって客を迎え入れた。
「ミストさん。うちの先生がご迷惑を掛けております、本当にすみません。家賃の方は三ヶ月分まとめて支払いますので」
少年は歳や見た目に寄らず、しっかりとした口調で老婆に説明する。目の細い彼女は微笑を口元に浮かべ穏やかに返した。
「あらぁシュリ君。良いのよ、今日は皆でお茶をしたかっただけなの。お時間いいかしら」
皺だらけの小枝のような手で持った、重そうなバスケットを掲げて見せた。被せてある古びた布切れの下からは、ほのかに茶の葉の香りが立っている。
ミストと呼ばれた老婆の言葉を聞くなり、向こうにいたヒュウが飛んでやって来た。
「なんだーっ それならそうと早く言ってくれよ」
「ふふ、ヒュウ君の大好きなレグルスの紅茶もあるわよ」
機嫌がよくなったらしい青年は、ミストのバスケットを持ってあげた。その調子の良さに思わずシュリが溜息を吐く。
「先生、敬語を使いましょう」
「なんでだよ、ミストより僕の方が年上なんだけど?」
「そうですけどそういう問題ではないです」
それでもヒュウは変わらず話し、楽しげに部屋の奥へと足を向けた。
彼等が向かったのは、この事務所の奥にある小さな庭。室内とは打って変わって綺麗に整えられている。
その傍らにある錆びついたガーデンテーブルに、バスケットを置いて準備をし始めた。
「お湯、沸かしてきますね」
「ありがとうねぇ。……あ、こらヒュウ君? お菓子のつまみ食いはだめよ」
そう叱られた青年は、苦笑して摘んでいたクッキーを皿に戻した。
「だってミストのクッキー美味しいんだもん、早く食べたいじゃん」
ヒュウの子供らしい笑顔にミストも微笑んだ。
準備を終え皆が席に着く。楽しみにしていたクッキーと紅茶を口にでき、ヒュウはご満悦の様子だ。隣に座るシュリも、表情を柔らかくして茶を楽しんでいた。
「そうだ。アナタたちに相談したいって言う娘がいるんだけど、良いかしら」
「依頼でなく相談ですか。分かりました、少々お待ちを」
シュリは席を立ち、パタパタと足音を立てて室内へと姿を消した。すぐに戻ってくると、彼の手には革の手帳と小洒落たペンが握られている。
詳しくお願いします、と断りながら彼は手帳を開く。のんびりとした調子で老婆は話し始めた。
「四丁目の方に住んでいる二十歳の女性で、名前はレイラ・S・ミラーさんって言うんだけど、先週見かけた人外が、最近ずっと付きまとってくるらしいの」
少年は聞き漏れなく全てを手帳に書き記しつつ、こまめに頷く。隣のヒュウは彼女の言葉に反応を示した。
「見かけた時間帯はいつだ?」
「夜って言っていたわね。仕事の帰り道の途中で獣のような荒い息を聞いて、振り返ったら遠くに黄色く目を光らせた人外が居たそうなの。それに彼女、人外に関するトラウマが酷いみたいで」
メモを取り終えると、シュリは顔を上げてヒュウに尋ねた。
「夜行性動物の人外ですかね」
「大方そうだな」
カップを手にし、中の紅茶を揺らす。鋭い眼光の青年は僅かに目を伏せさせた。
ミストの話によると、レイラという女性はその人外を見かけてからというものの、帰り道に必ずあとをつけられているそうだ。襲われたことはなく、直接的な接触もない。
しかし相手は人外。
何を考えているのかも、いつ襲うつもりなのかも推測だけでは判断し難い。
「では、こちらから赴きますのでご自宅で待機を、とお伝え下さい。あとは夜の外出はお控えくださいと」
「えー僕らが行くのー?」
思い切り不満そうな青年の声に、すぐさま少年が反論する。
「先生、依頼人は人間です。本気で困っているのですから、解決するのに尽力して下さい。それが仕事でしょう」
「僕、探偵とかじゃないんだけどー?」
やる気のない、気怠げな声が庭に響く。老婆の笑い声と幼い溜息が次いで聞こえた。