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episode10(ⅰ)

 凍てつく空気を抱き、静まり返る夜。

 人気のない寂れた街の一角、氷輪の救急箱の事務所。

 普段利用する部屋から離れた寝室は極寒で、シュリとヒュウは寝付けずにいた。


「……寒いですね」「寒いな」


 ヴィンリル王国の冬は厳しい。特に夜は。

 雪が降るにはまだ時期が早いが、凍ってしまいそうな気温であることに違いはない。近くに暖炉がなくては、この国の霜夜を明かすことは難しいのである。

 しかし二人の寝室に暖を取れるものはない。つい先日薪を切らしてしまったのだ。


「明日薪、貰ってくるか。セレスも最近いないし」


 青年は嘆息する。

 セレスと共に生活を送るようになってからは、彼女が先に床に就くためベッドは温められていた。だが最近、少女は言葉を教える老婆ミストに深く懐き、彼女の家へ泊まる頻度が増えた。そのため事務所の中もベッドも寂しいものになったのである。


 ヒュウはおもむろに消した蝋燭の火をもう一度点けた。少し離れたベッドで横になっている弟子を手招きし、互いの体温で温め合って眠ろうと提案する。

 二人で眠るには随分と狭いベッドだが、このまま夜を明かすのは耐えられない。逡巡した後、シュリは渋々起き上がった。

 彼の直ぐ側に来ると、師は重ねた布団で少年を捕まえる。一瞬抵抗する弟子をお構い無しに抱きつき、そのまま倒れ込んでしまった。


「はー子ども体温あったけぇ」

「く、苦しいです先生」


 青年の腰や腕は細く、文字通り骨と皮しかないようだった。自分より低い体温に触れ、シュリの体はびくりと驚く。

 抱きつかれた不可抗力で師の首筋に顔が当たった。鼻先に、彼の落ち着く匂いが漂う。

 自分も手を彼の背に回そうかと迷ったが、シュリの心は気恥ずかしさが(まさ)る結果となった。


 数分間、無言の時間が過ぎていく。

 静寂の空間に、ヒュウの規則正しくも小さな呼吸音が耳元に流れてくる。心臓の脈拍も非常に少ない。

 蝙蝠は休眠時、呼吸や心拍数が極端に下がり一種の仮死状態になる。彼は人間であって蝙蝠でもあるのだから至極当然のことだが、シュリはどうしてか悲しげな目をして、暫く師の寝顔を見つめていた。


 しゅう、と音を立てて明かりが消える。蝋燭が限界を迎えたらしい。

 少年は薄暗くなる視界に声を掛けた。


「先生。まだ起きていますか」


 体は十分に温まった。もう眠っても良い筈だが、シュリの目は冴えてしまっている。

 師からの返事はない。

 寝起きは悪い癖に寝付きは良い彼だ。それでも眠りはいつも浅い。


「どうした、眠れない?」


 変わらず少ない心拍数、遅い呼吸。平生より優しい声音が少年の頭を撫でた。

 彼等の仕事は昼夜問わず行われる。たとえ真夜中であっても連絡や騒動があれば起きなくてはいけない。そのため必然的に彼等――特別にヒュウは、眠りが水溜りより浅いのだ。


 すぐ覚醒した彼に、シュリは少々申し訳なさそうな様子で謝罪する。冷たさにやられて目が覚めてしまったと言うと、ヒュウは小さく「しょうがないな」と吐息混じりに言った。

 彼は何か思案するように遠くを見つめた後、少年の額に顔を埋める。柔らかい髪質と陽だまりに似た匂いを感じた。


「つまらない話なら退屈で眠れるだろ」


 師はそう言うと静かに語り出した。

 今まで一度たりとも話そうとはしてくれなかった、彼の過去の一部だった。


「話して、下さるのですか」


 純粋な驚きを口にするシュリに、青年は八重歯の先を覗かせる。


「なんでびっくりしてるんだい。僕はいつか話そうと思ってたよ」


 今語るのは師の長い人生のたった一頁でしかない。だがそれは、彼の人格を形成する一つの材料であり大切な経験だ。

 ヒュウは少年に目を閉じるよう言い、静かに語り出した。


「君の父親が生まれる前のことだ」


 ・・・


 七十一年前、彼がまだ氷輪の救急箱を設立させる前の話。


 西国境戦争の真っ只中。


 ヴィンリル王国とその周辺諸国――主に西側の小さな国々は領土をめぐって不毛な争いを繰り返していた。戦争は今回ばかりでなく何十年も長引いており、その戦況には波があった。

 当時は飢饉も重なったことにより両者は苦戦を強いられ、気力的な問題によりヴィンリル王国はやや劣勢だった。


 その頃、既にヒュウエンスは持ち前の救命技術で、災害等で怪我を負った人々の救助を行う仕事をしていた。

 軍人以外の人間が自主的に、そして継続的に人命救助にあたる者など滅多になく、彼は国から直々に声を掛けられていた。


「僕が軍に? 一般人なのに?」

「そうだよ、衛生兵としてね」


 今ほど髪が長くなかったヒュウは目を丸くし、彼の元に訪ねてきた好青年は爽やかな笑みを浮かべる。


 好青年の名はアンクという。これからヒュウが配属される部隊の一人でもあった。


 彼の頭はふわふわとした巻き毛気味の金髪で、明るい茶色の瞳が愛らしい、戦人とは俄かには信じられない人間だった。濃紺の軍服は世辞でも似合うとは言えない。

 人懐こいらしいアンクはヒュウにいつでも付いて回る、子犬のような人柄だった。慣れない軍事施設や同僚に戸惑うヒュウに、彼は飽きずにくっついている。初めて戦場に出るときも寸前まで傍にいてくれた。


「キミは僕ら兵士と同じ戦線に立つ。衛生兵が直接攻撃される事はないけれど、戦場の人間は皆気が狂ってしまうからね。気は抜かないように!」


 アンクは腰の西洋剣に触れながら言う。これから殺し合いをするというのに、彼はとても冷静だった。むしろ慣れているような雰囲気さえも感じさせる。


 初陣の結果は圧勝。

 ヒュウは場所が変わっただけでやる事は同じだと、手を迷わすことなく傷付いた軍人らを処置し、軍医のいる野戦病院へ運び出した。初めての戦場で肝が冷える場面に出くわすこともあったが、なんとか対応し切ってみせる。


 人間の死には慣れているつもりだった。


 自分たち人外よりも賢い、だが弱く愚か。この戦争もどうせ愚行の一つだろうと、ヒュウは心の何処かで軽視していた。

 その一方アンクや仲間と交流していくうちに、彼らを「大切」だと認識するようになった。何も感じていなかった戦の終わりも、誰かが死んだのではないかと毎度不安に押しつぶされそうになる。


 二百年以上生きていて、友愛というものを初めて知った。


 やがて彼が軍に来て半年が過ぎようとしていた、ある日。

 彼の運命の歯車が回り始めてしまう。

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