episode53(ⅰ)
赤毛の青年が暮らす家は、広さの割に生気を感じなかった。ヒュウは吊り目気味の三白眼で薄暗い室内を見渡す。
当初は弟子の迎えに来たはずだったが、生憎の天候不良によって先送りとなった。雨が降る前に事務所に帰ってもよかったが、道中で降られる可能性が否めない。
家は木の匂いが漂う、ログハウスを彷彿とさせる昔の造りだった。
レンガ造りの住宅が主流となっている今、木造は珍しく、ヒュウにとっては懐かしく感じるのだ。床の軋みすら胸を切なくさせる。
ふと、柱の陰に見覚えのある紋章を見つけた。欠けた、あるいは太陽を飲み込むかのような月の記号。
それが織られた幕の前には、恭しく果実が並べられている。怪しげな印が何を示しているのか、思い出すのとロゼルアがやって来るのが同着だった。
彼は湯気の立つマグカップを差し出し、自身も向かいの椅子に座る。
「気づいちゃいました? ボクんち“光宵教”信者なんですよ。あ、ヤバい判定はしないでくださいね」
おどけてみせる青年に、ヒュウも笑い返す。信心の自由を侵すつもりはないと言うと、赤毛の彼は安心したかのように頬を緩めた。
少しして空から低い唸りが響いてくる。間もなく窓の外が暗くなり、雨粒が叩きつけられるかのように降り出した。
酷くなってきた、と彼は呟いて珈琲を啜る。香ばしくも苦い匂いが馥郁と鼻を擽った。
遠くも騒々しい音が沈黙を撫でる。先に口を開いたのはロゼルアだった。
「ヒューさんて、なんだかフシギな人ですよね」
脈絡のない言葉に、長髪の青年は正面に顔を向ける。視線はジンジャーヘアを捉え、次にオークルの虹彩を射止めた。赤い目の青年はわざとらしく首を傾げてみせ、当たり障りのない相槌を打つ。
ロゼルアは丸いそれを瞬かせてみせる。
「雰囲気がボクの弟に似てるんですよ、なんとなく」
「へぇ、弟がいるんだ。どうりで君がしっかりしてるわけだね」
「エヘヘ、そうですか? でも、もういないんですよね」
いない。
ヒュウはすっと表情を消し、唇を噤んだ。
雨音が近づく。音もなく空に眩い光が走り、灯りのない室内が明瞭になる。
照らされた穏やかな微笑み。青年の瞳に滲んでいたのは、悲しみと恨みの色。
「弟は狩られたんです。人じゃなかったから」
*
油紙をバリバリと破くような音が鳴り渡る。
上空を駆ける稲妻が帰宅を急かしている気がして、シュリは面を殴る雫を拭った。
嵐が来てからものの数分で地面は泥濘み、傾斜には小さな水の流れができているほどだ。動物や人外たちの姿は見えない。彼とガネットは近くの木で雨宿りをしていた。体温が奪われていく感覚がし、少年は華奢な肩を震わせる。
身につけていた白シャツや、異様に長い前髪が濡れて肌に張り付いてくるのが煩わしい。邪魔に感じた彼は思い切って黒髪を搔き上げた。
傍らの狐も、ぶるぶると体を振って雨水を振るい落とす。
「んもー、シュリムがいなくなったせいでびしょ濡れなんすけどー」
「ごめんなさい。つい周りが見えなくなってしまって」
反省して美少年は俯いた。
ぴしゃんッ、と閃光が上空を切り裂く。
驚いた狐の少女は三角耳を強く伏せ、尾も股の間に挟む勢いで丸めている。隣の彼も不安げに天の機嫌を窺っていた。
瞬間。
一際低い雷鳴が轟いた。耳を劈くその音はまるで破壊音である。
同時に風と酷似した圧が全身を押した。周辺の木々も薙がれる勢いで枝を撓らせる。
落ちた。ガネットがぽつりと零す。
え、と尋ね返す前にシュリが彼女の視線を追った。少し離れた向こう。赤い光がちらちらと暗がりに瞬いているのが目に映った。
雷が落ちたのだろう、一本の大樹から炎が上がっていた。
「あの隣、貂の親子が住んでる木……そんな」
雨脚が強まり、風が荒れてくる。少女の心はあっという間に焦燥の渦に呑まれていった。
彼女はなりふり構わず木陰から飛び出す。シュリの制止の声は雨音に掻き消され、背は離れていってしまった。
迷う暇もなく、彼も泥と化した地面を蹴る。全身の皮膚という皮膚を引っ掻く雨粒が鬱陶しい。
明滅する視野を凝らし彼は、火に飛び込もうとした狐の片手を掴んだ。
「離せっ あの子たちが、」
「落ち着きなさいッ 私が助ける、貴方は下がってて」
潤んだ瞳がこちらを向く。シュリは一つ大きく頷いてみせ、ガネットを後方へ引き戻した。
目と鼻の先にまで迫る火の手。降った雨粒が触れる寸前に蒸発してしまうような、猛々しい炎が樹皮を覆っていく。完全に燃え移るまで時間がない。
彼は素早く視線を這わせた。複数ある穴のうち、木の上部にある空洞に小さな影が見える。いた、貂の親子だ。
少年はすぐさま付近の燃えていない木に飛び乗り、駆け登る。靴裏の泥が足を掬おうとしてきたが、彼の集中力がそれを物ともしない。
危なげなく貂の住処へ渡ってみせたシュリは、熱風に嬲られるも樹洞に辿り着く。狭い家の中には子供のイタチが数匹、逃げ惑っていた。母親はいないらしい。
彼は手を伸ばし、小さな命たちを救い出す。高い声で鳴く彼らを抱えて、少しばかり安堵する。あとは降りるだけだ、しかし。
みし、と足元が軋んだ。
まずいと思った矢先、目線が大きく沈む。足場にしていた枝が折れたのだ。
重力に抗えずに四肢が落下する。幼い貂を抱いたまま、シュリは真っ逆さまになった。




