episode52
「さて、どうしたものか」
旧王都近郊・フェバート村。
眼前に広がるシンセ森の一角にて、長髪の青年が独り言ちていた。
今日は今朝から弟子の姿を見ていない。リグに尋ねるも知らないと首を振られ、思案した結果、此処に辿り着いたというわけだ。
夜になれば帰ってくるというのも過ったが、何分ここは徒歩で一時間かかる場所。途中で何かがあっても困るのである。
あの出来事から、ヒュウはすっかり森に行く気は消え失せていた。自分の中にあった地雷を踏み抜かれたのだ、暫く頭に血が上って治まらなかったと言い訳はできる。
そうは言っても、幼い弟子に気を遣わせてしまったことは反省していた。私情を持ち込むといつもこうだ、と彼は大きく溜息を吐く。
普通に歩いていてマグダレンに出くわすことなど滅多にないだろう。月魄様に見つかることは避けられないだろうが、シュリを連れ戻すくらいはできそうである。
しかし体は拒んでいた。思い出したくない景色がフラッシュバックする予感がしてならないのだ。
立ち塞がる木々の前で右往左往している中。
後頭部に陽気な声音が掛けられた。
「ヒューさーん。一人で何してるんですか?」
振り返ると、そこにはロゼルアがいた。大量に野菜の入った紙袋を両腕に抱え、朗らかな笑顔を浮かべている。
長髪の青年は一度言い淀むが、気を取り直して弟子を探していると言う。見かけていないかと問うと、ロゼルアは申し訳なさそうに首を振った。朝早くから買い出しに行っていたらしく、この村では誰も見かけていないそうだ。
返答にヒュウは残念がったが、八重歯を覗かせてそれを打ち消す。
ロゼルアは荷物を抱え直し、黄土色の双眼を空へ向けた。
「午後から天気が崩れるみたいですよ、毎年恒例・冬明けの嵐だって。ほら、黒い雲見えません?」
視線を追うと確かに暗雲が漂っている。もうじき降り始めるのだろう。
いよいよシュリを迎えに行かなくてはならなくなった。いくら大人びた助手に見えるとはいえ、中身は十三歳の子どもである。師として心配になることは当然だ。
ヒュウは腹を括ろうとした、が、その背を赤毛の青年に引き止められる。曰く、悪天候になるというのに自ら危険な場所へ単身向かうなど命知らずだそうだ。
「居るかどうかも分からないんですよね、なら尚更です。それにもし居たとしてもきっと月魄様が助けてくれますよ。あの人、子どもには優しいので」
こちらの身を案じてくれているらしい、ロゼルアは心配が滲んだ目線で言った。
月魄様、という単語にヒュウはぴくりと反応する。
優しいか否か、彼は知らない。知っているのは老若男女問わず、入ってきた人間を無慈悲に殺していく姿だけだ。
(そんなあいつが人間の姉弟を黙認してた、か)
ロゼルアの発言を端から端まで嘘だとは思わない。だが青年は神を信じることができなかった。優しいという単語は全くもって似合わないとしか考えられなかった。
ならば、今は少し信じてみても良いのかもしれない。
彼は無意識に落ちていた視線を上げ、赤毛の軍人に頷く。冷たい風が長い髪を攫っていった。
留まらせることに成功したロゼルアは、明るい顔つきになってこう提案する。
嵐が過ぎるまで、うちで雨宿りをしないかと。
*
吹く風の温度が途端に下がった。気付けば空は、薄く雲に覆われている。
セーゼから一通り師のことについて話を聞いたシュリは、何度目ともなる疑問を苦しく思った。
何故、彼はこれほどまでに優しいのだろうか。
優しくする理由がわからない。
他人を他人だと切り捨てられないわけではない筈だ。セレスの一連の出来事を忘れたとは言わせない。彼は立派な人外であり、自身の周りにいる存在に必要不必要をつける。不要とされれば悲しみの感情すら湧かないのだ。
ではどうして、ヒュウが森の者たちを救い続けてきたのか?
ぽつ、と雫が頬を打つ。
漂っていた思考の海から這い出て、シュリは顔を上げた。
同時に、番人が水浴びを終えて服に手を付ける。
「おまえは帰れ。もうじき嵐が来る」
彼もしくは彼女は、手早く着替えると髪を濡らしたまま立ち去ったた。顎から滴る水を拭うことなく、動物らを引き連れて川から離れて行く。
咄嗟に少年はその背を引き止めようとした。
「私、貴方のことをもっと知りたいです。貴方について知ることで、先生のことも理解できるような気がして」
返事は感情のない視線だった。
肯定とも否定とも取れない反応を残し、番人は再び顔を背けた。好きにしろ、と言われたような予感がした少年は後を追う。
しかし、今度は彼が呼び止められる側だった。
振り返るとそこには、狐耳を縮こませた少女が立っている。
「おめぇ何してんだ! 勝手にいなくなったかと思えばセーゼさまに付き纏おうなんざ!」
「ま、待ってガネット。まずは話を」
凄まじい剣幕で詰め寄る彼女から逃れようと後退するも、あっという間に手を掴まれてしまった。
弁解しようと口を開き、番人の方へと顔を向ける。だが既に神の姿はなかった。
暗雲の立ち込める空、遠く。
雷の呻きが響く。




