episode51
さらさらと流れていく澄んだ水。
葉と葉の隙間から零れてくる陽の光を反射して、水面は白く輝いた。
魚はいないらしい。これほど小さくて狭い沢では流石に生きていけないかと、シュリは岩場を下った。
この森はやや傾斜があるらしい。流れが緩やかになってきた辺り、徐々に沢の幅が広くなっていった。
一際鬱蒼とした木々が、彼の行く手を阻む。茂みを掻き分け、低木の枝を退かす。
眩しい、と目を細めた先、太陽の匂いが鼻先を掠めた。
辿り着いたそこは沢というよりも川だろう。周辺には芝生が広がり、日光が穏やかに照らしていた。心做しか気温も他の場所よりも高く感じる。花が空へ向かって咲き誇り、微風に揺れていた。
簡単に言葉を介するなら、楽園のような光景である。
彼が視線を巡らせると、川が湾曲した影に人の姿が見えた。しかし木々が腕を伸ばしているせいでよく見えない。
シュリは芝生を踏みしめ、気配を消して人影に近寄った。叢林の中から向こう側を窺う。
そこにいたのは天使、否、この森の絶対番人・セーゼだった。
普段は編み込まれている白髪は解かれ、体は一糸も纏わずにいる。雪のように透き通った肌には傷一つすらなく、さながら硝子細工で作られた人形であった。
男とも女ともつかない四肢には無駄な凹凸がない。体格は決して良くないが、不思議と弱々しさは感じられなかった。
無意識のうちに見惚れていたらしい。こちらを見ることなく、おもむろにセーゼは口を開いた。
「覗きなんて、いい趣味だね」
「えっあっ す、すみませんそのようなつもりはっ」
自分の存在に勘付かれたことに驚きつつ、シュリは声を上げた。咄嗟に一歩退く。
美少女似の番人はそれ以上咎めることなく、相変わらず一瞥すらくれずに水面へ視線を落とした。
「冗談。何の用」
彼もしくは彼女は、そのまま足を水に沈める。返答を聞く前に川に入っていってしまった。
冬が過ぎたとはいえ、まだ寒い時期であることに変わりない。ましてや森の川など冷たくて入れたものではないはずだ。だのにセーゼは躊躇いなく水浴びを始めた。
狼狽する少年は、マグダレンの勧めで森を歩いて回っていたのだと説明する。彼女から過去の話を聞いたということも付け加えた。
此処に来たのは、偶然と言えば偶然かもしれない。だが思い当たることが一つ、あった。
セーゼとは一度、話がしてみたかったのだ。
彼は意を決して茂みから出る。陰から出ると日の暖かさを思い知った。
「何故、貴方は先生をこの森に引き戻そうとしているのですか」
濡れた皮膚に煌めく雫。
見つめる瑠璃の虹彩と、それに答える長い睫毛。
番人は無表情でいて、上体だけを捻って子に向けた。白銀の髪から水が滴り落ちる。対するシュリは動じずに返事を待った。
数分の時が流れてから、彼もしくは彼女は一言、呟くように言う。
「ヒュウがいた時が一番平和だったから」
意外な回答だった。子は怪訝そうな顔をして、平和、と尋ね返す。
番人は首肯したきり今一度話そうとはしなかったため、彼は無理にでも聞き出そうとした。
端から神の思考など理解できぬことなどわかっている。だからこそ、彼もしくは彼女の口から直接耳にしたかったのだ。
退く気のない少年に対して、セーゼは無を貼り付けた眼差しで視線を遣る。湿った白髪はまるで絹のように日光を反射した。
「おまえたち、その子を連れてきて」
言葉を向けられていたのはシュリではなかった。
前触れなく、背後から鹿が現れる。鹿だけではない、足元には兎や狸もいた。
彼等は少年の背や足を押し出し、前進するように促す。驚いたシュリは抵抗しようとしたが、動物たちの力の方が強いらしい。
渋々彼は川の淵まで歩み寄る。比例して月魄様も浅瀬まで近づき、目前に立った。近くで見ると、その体の白さがより際立って瞳に映る。
上目遣いで番人の顔を見上げる。睫毛は影を落とすほど長く、ゆっくりと瞬いた。
神は、そっと彼の頬を両手で包む。酷く冷たい。が、内側に温かさを帯びていた。シュリは微動だにせず、静かに瑠璃色を見つめる。
セーゼは、よく似ていると呟いてから手を離した。
「ヒュウがいた時は、誰も人外が死ななかった。あの子が助けてくれたから」
人外が人間に化けられるようになる域は、誰もが必ず到達できる場所ではない。いくら安全な森で成長するための百年とはいえ、彼等の命の危険が皆無な期間ではないのだ。
野生動物に襲われることもある。迷い込んだ人間に殺されることも、誤って転落死することもある。最も多いのは、人外同士での縄張り争いだ。
自然の摂理として片付けられるものだが、あの青年は黙って見ることができなかったらしい。
それから時間は掛かれど、無駄な死が無くなり、無駄な血も流れなくなった。皆が上手く棲み分けられるようになったのだ。
しかし時が流れ、マグダレンとの諍いにより彼は出ていってしまった。そこから崩れるのは瞬きだったとセーゼは言う。
「誰かが頼んだわけじゃない役目を、あの子は独りでやってた。思うこともあった筈だって、梟は言うけど」
揺れるサファイアの双眸は、はっきりと淋しいという文字を滲ませているように、シュリには見えたのだった。




