episode50(ⅰ)
結論から言ってしまえば、その後、ヒュウは酷く機嫌を損ねて森から出ていってしまった。シュリはひたすら狼狽していたが、去り際、マグダレンに頭を下げて青年のあとを追った。
弟子は何が起こったのか理解できず、困惑した視線で彼を見上げるばかりだった。
平生は如何なる時も冷静で、捉えどころのない様子で仕事に挑むあの彼が、ここまで感情を剥き出しにするとは。
シュリは心の何処かで恐ろしさに似た感情を覚え、不安げに瞳を揺らす。フレイアの裏切りが明るみに出た時は、怒りよりも失望が強かったせいで今回のような状況にはならなかったのだ。
帰宅して、リグが出迎えてくれる頃にはいつもの調子に戻っていた。しかし少年には違和を感じてならない。
ヒュウの内側にある、得体のしれない過去が暴れているように見えて仕方なかったのだった。
*
翌日、昼下がり。
木々の枝に緑が灯り始めたシンセ森にて、嗄れた女性の声が落ちる。
「……また来たのかい。懲りないやつだね」
太い枝の上に座っていたマグダレンが言う。力強く聳えるミズナラの下、一人の子どもが彼女を見上げていた。
シュリは深々と頭を下げ、中性的な声を精いっぱい張り上げて謝罪を述べる。昨日の師の振る舞いを詫びに来たのだと言った。
「正直に申し上げますと私は、なぜ先生があのような態度を取ったのか理解できておりません。ですので対応が遅れてしまいました、本当に申し訳ございません」
言い訳がましいことは重々承知していると零し、少年は弱々しく俯いた。未だ師への理解度が足りないことを不甲斐なく思うのだろう、彼は整った面を顰める。
シュリは続けて、このままでは調査が滞ってしまうため他の人を当たると言い、今一度低頭した。礼儀正しく挨拶をすると彼は身を返す。
しかし、マグダレンが口にしたのは「待ちな」という台詞だった。
驚きながらもシュリは慌てて振り返る。変わらず幹に留まったまま、彼女は鋭い視線でこちらを見ていた。
「あれ程あたしの事が嫌いなコウモリ野郎が、わざわざ来たのは事実だ。そんなに困ってるのかい、アンタたちは」
その問いに、少しして子は力なく頷く。
氷輪の救急箱が抱える仕事は、大きな問題が山積しているせいで行き詰まっていた。解決の糸口が見つからず、追い打ちをかけるかのように蝶も姿を消している。こちらが何もできていないまま、さらなる悲劇が引き起こされるような予感がして、師弟はずっと気を張り詰めていたのだ。
まずは一つ一つ処理していこうと動いた矢先がこの有様。青年のことだ、他の手段でどうにかするつもりでいるのだろうが、シュリには引っ掛かりを覚えてならなかった。
弱音を吐く子を見下ろし、マグダレンは鼻を鳴らす。何を思ったのか、彼女は踵を返しつつ言った。
「アンタは自分の師匠を知らなさすぎる。登ってきな」
唐突に投げられた言葉。意味を咀嚼しようとしたが、考える前に彼の体は動いていた。
一番低い枝に飛びつき足を掛ける。勢いよく上体を持ち上げ、その上に立ち上がった。
木登りなどいつぶりだろうか。シュリは冷たい樹皮に触れた手を何度か握り、再び顔を上げて腕を伸ばした。
臆せず黙々と這い上がってくる少年を一瞥し、梟は感心したかのような鳴き声を漏らす。少々見守った後、翼を広げて更に上へと飛んでいった。
ゴールが遠のいたのを横目に、子は登る手を休めない。彼女の意図を汲もうとしたが、すぐに考えは霧散した。辿り着けば分かることだろうと無駄な思考をやめたのだ。
冷気の飽和する高さまでやって来た。
時折鳥たちを驚かせてしまったが、ものの数分でマグダレンの元へと到着した。
小汗を拭って辺りを見回す。彼女がいたのは、太い幹にある樹洞だった。
棘のある言い方で入るよう催促され、シュリは疑問符と警戒心を抱えて踏み出す。中は酷く狭く、客を招くにはあまりにも不向きな家だった。
どうやら、このミズナラの幹全てが空洞になっているらしい。いくつかの階層で成る彼女の住処は、小綺麗に私物が整理整頓されていた。室内には至る所に明かりが灯り、薄暗くはあるものの視界は良い。
作りの雑な梯子を下る。小さな棚が円形に連なり、収められた書物が少年を見返した。
中腹辺りまで降りると、部屋がいくらか広くなる。とはいえ二人並ぶだけでも窮屈なことに変わりない。
梟の人外は器用に足を使ってテーブルを退かし、シュリに座るよう言った。椅子などはなく、少し躊躇って彼は腰を下ろす。
「あんまり他人んちの中をジロジロ見んじゃないよ。まったく、これじゃ人間の匂いが付くじゃないか」
彼女は向かいに座り、大きく溜息を吐いた。
四つに分かれた対趾足を服の中に隠す。爪まで見えなくすると、マグダレンは嘴を開いた。
「まず前提として、あたしゃ人間が大嫌いだ。滅んでほしいとすら思っとる」
眼鏡を押し上げ、彼女は淡々と続けた。




